記憶を辿るその音色

孔明丞相

第1話「ピアノと白ワンピース」


 終電電車に駆け込みで乗り込み、疲弊した心身に鞭を打つようにして足を動かし帰路につく。それがいつもの私の生活だ。


 毎日同じ時間に起きて、同じ朝食を食べ、同じ服に着替えて、同じ時間の電車に乗る。

 変わらない会社に勤め、変わらない仕事をし、変わらない同僚と仕事をし、変わらない面子で会議をする。

 終わらない仕事に追われて残業をし、満身創痍で家を目指す。


 その苦行は一種の冒険と変わりないような気がしないでもない。

 学生の時に思った将来の夢はもう思い出すこともできないし、毎日の生きる目標すら怪しくなっている気がする。あと一つでも不幸なことがあれば、平然と身体を投げ出して楽になってしまおうかな、などと簡単に考えてしまいそうな程だった。


 その私がいつもの変わらない駅でふと足を止めたのは一人の少女がピアノを弾いていたからだった。

 初めに思ったのは「この子はこんな時間に何をしているのだろうか」だった。


 時刻はそろそろその日が終わるのを告げており、少女が一人で外を彷徨いていい時間ではない。だが、私はそれを思っただけで決して口にはしなかった。いや、できなかった。


 少女は折れそうなほどに細く白い腕や指から心に直接語りかけているような音色を響かしていたから。

 私はその音色にぐっと胸が締め付けられるのを感じた。言葉にはできない何かがぐっと私の心臓を掴んで離さない。ゆさゆさと揺さぶり、感情を吐き出させようとしてくる。


 優しい曲調でありながらも、少女の感情が込められた一つ一つの音が私の心をノックしてくる。気がつけば私はすっかり聞き入ってしまっていた。

 明日の仕事があることなど些細な、どうでもいいことだと思っていた。


 少女が演奏を終えた時、私は自然と拍手を送っていた。


「ありがとうございます。私のピアノに足を止めていただいて」

「とても綺麗な曲ですね。自然と足が止まってしまいましたよ」


 少女はきょろきょろと辺りを見回し、足を止めて聞き入っている私の方へ、てとてと、と歩いてきた。

 少女は白いワンピースを着た黒髪ロングヘアの清楚系美少女、と言ったような感じだった。

 愛嬌のある幼さが残った顔には私がいつの日か置いてきてしまった純粋さが滲み溢れていた。


 少女は一言、会話を交わすとすぐにピアノの元へと戻った。

 その時、私はふとなぜ、駅にピアノが置いてあるのだろう、と思った。そしてその疑問はすぐに解消された。ピアノへと向かう少女の背中を視線で追いかけていくとそこには「ストリートピアノ」と大々的な文字で書かれていたからだ。


 そこであぁ、と記憶の片隅を覗き込む。


 最近、流行しているようだが全く興味の欠片もなかったストリートピアノ。

 ピアノが弾けるわけでもないし、楽譜が読めるわけでもないし、赤の他人の前で堂々と演奏できるほどに肝が据わっているわけでもない。そんな私が興味を持たなかったのも仕方のないことであるだろう。


 合点がいったとき、ぽろん、と少女が弾いた。

 まだ曲を弾いたわけではない。しかしそれだけで私は少女が「次は何を演奏するのだろう」と聞き入る態勢に入っていた。

 私の心はすでに彼女の演奏に奪われてしまっていたのだ。


 次の曲は平凡な曲だった。特に何があるわけでもない。これと言った山場もなく、かと言ってダメだと言えるような谷間もない。

 しかし、しばらく曲が進んだところでそれは一変した。細い腕からは考えられないほどに苛烈な曲調へと変化したのだ。低音がずんずんと鳴り響き、高音は忙しなく右手を動かしていく。

 私はそれを満足するまで聞き入った。






 そんなことがあってから、私は週に一回、決まった時間に現れるその少女の演奏を聞くことが日課になった。いや、この場合は週課だろうか。


 彼女の演奏は同じことばかりする仕事に辟易していた私の心を浄化していくようだった。


 私が特に疲れている時には心を癒してくれるような曲調の曲を。

 私が仕事でイライラしている時には低音を効かせた沈むような曲調の曲を。

 私が少し嬉しいことがある時にはジャズのようなコミカルな曲調の曲を。


 毎回、私の心情にあっている曲を弾いてくれる。私が少女にこうだ、と語ったわけではない。今日もいるな、と足を止めた時に勝手に始まるのだ。


 私がふと足を止めたのはその音色に惹かれたからか、それとも。

 そう考え始めるのにあまり時間はかからなかった。


「キミはどうしてピアノを弾いてるの?」


 私は演奏が終わった頃合いを見計らって少女に話しかけた。もちろん拍手も忘れない。その拍手の音がだんだんと近づいてくるのがわかったのか少女はすぐに次の演奏に移ろうとしていた手を止めた。


「私はピアノが好きだから。そして誰か聴いてくれる人がいるから」

「どうしてこんな夜中に? キミの家にはピアノも聴いてくれる人もいないのかい?」

「……私に居場所はないの。苦しいことも悲しいことをしてこなかったから、好きなことしかできないの」

「……そっか。いやなことを聞いてすまなかった」


 私はすぐに引き下がった。

 少女の雰囲気が先程のものとは全然似てもにつかない程に変わっていたからだ。職業柄、人の機微に関しては鋭い。


「また、聴かせてほしい」

「……今のあなたの気持ちは?」

「ん。……心配、かな?」


 私がそう言うと少女は難しそうに眉を顰めていた。

 その日の演奏はいつもに比べると少し下手な感じに聞こえた。





 私が聞いてはいけない質問をしてしまったせいか、いつもの時間になっても少女は現れなかった。きっと踏み込んではいけない領域に私が土足で踏み込んでしまったのだろう。

 どうしても気になってしまったとはいえ、私も大人なのだから自重すべきだったのかもしれない、と手遅れだが反省していた。


 誰も弾いていないピアノに近づく。

 私が近づいたところで弾けるわけではないのでピアノが嬉しそうな顔をしていたとしてもそれは残念ながら空振りだぞ、と心の中で毒づいた。


 しかし、理屈で弾けない、と分かっていても私はなぜかピアノの椅子をひいて、腰をかけた。

 一丁前にピアニストのような風貌だ。


 弾けないピアニストとして売れないだろうか、と少しだけ考える。そうすれば私は何もしないままで自由な生活ができるかもしれない。

 そんなありえない妄想に自虐的な笑みを浮かべつつ、ぽろん、とピアノを鳴らす。


「今日は……少し、寂しいかな」


 いつからか突然と現れた少女。初めはその曲に心を惹かれ、その次に少女の弾き方に心を奪われた。出会う前ならば見向きもせずにまっすぐ帰っていたであろう自分を想像して、つまらない人生歩んでるな、と思った。


 ぽろん、ぽろん、ぽろん。


 弾けないなりに感情を込めて鍵盤を叩く。


「次、代わってもらってもいいですか?」


 聞き慣れた、しかしもう聞くことはないだろうと勝手に思っていた声が背中に浴びせられる。私が振り返るとそこにはいつもの白いワンピースを着た少女がいた。


「えぇ、どうぞ。私が弾いてもつまらないとピアノに言われてしまうので」

「そうですか? 弾いてくれて嬉しい、触ってくれて嬉しいって言ってますよ」


 大事なものを失った代わりに特別な想いを感じ取れる少女は私の冗談ににこやかに返す。


「私もキミの演奏がまた聴けるので嬉しいですね」

「じゃあ何を弾きましょう。今のあなたの気持ちは?」

「じゃあ、「幸運」で」


 私ははっと目を見開いた。私の言うことがわかっていたかのように合わせてきたからだ。

 盲目の少女は幸せそうな表情で頷いた。そして白鍵に負けず劣らずの指をそこに置いた。

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