深緑の憧憬
白神天稀
深緑の憧憬
青臭い雑草の匂いには、そろそろ飽きてきた頃だ。
全くもって酷い話よ。変わり映えのない退屈な森を、もう何年にも渡って歩いてきた。終わりの見えない一人旅は何ともつまらない。
昔は歩くのが楽しかった森が、今となっては煩わしい。目に入る度に、自分がまだ旅の途中であると嫌でも自覚してしまう。
今となっては目の焦点を足元に逸らし、苛立ちながら緑を積極的に避けている。
一体いつからこんな態度になったのかは覚えていない。だが小さい頃はこんな木や草の生い茂る場所が好きだった。新鮮な気持ちで、何を見るにしても一喜一憂し、自分の中だけの取るに足らないルールで遊ぶ日々。
見たことの無い植物や虫を見つけては捕まえたり観察したりで喜んだ。
そこらで拾ったまだ青い果実を口にし、その酸っぱさで泣き喚いた。
露の乗せた葉や涼しい風に当たってのんびりしたこともあったかな。
ただいつの間にか、俺は森に関心を持たなくなった。
歩く度に体に当たる草や虫は、俺の中で邪魔な雑草や害虫へと変わった。
果実は拾うどころか、良い実が成っていようと見向きもしなくなった。
大きく好奇心を刺激されるような広い森は、時が経つほど狭く鬱陶しい場所に成り下がっていた。
今の自分の感情が滑稽なものとは理解している。しかしこの感覚はそれでも消えること無く、やがては染み付いて離れなくなっていった。
そんな日常がずっと、ずっと、何年にも渡って続いていた時だった。
道の先に、黎明のような光が見えた。果てかけた俺の心は僅かに留めていた興奮を呼び覚まし、泥だらけの足を一歩、また一歩と進めさせてた。
求めていた退屈からの脱却、新たな興味。その白光に誘われるようにして、俺は道の先まで駆けた。
深緑の中を掻き分けて出た所に、草原が広がっていた。
雲一つない蒼天の空、雄大な大地、天高くそびえる山脈、果まで続く海原。
森では見ることの出来なかった物が、光景が、世界が、目に飛び込んできた。
ただ俺はこの瞬間、喜びも感動も得られなかった。
訪れたのはあまりにも虚しい悲しみ。そして心を引き締めるような苦しみが胸を突いた。
これだけ美しい光景なのに、望んでいたものなのに、心が動かない。何も感じない。
感じないという虚しさや悲しみを抱いても、涙は枯れて目から零すことさて出来なかった。
ただ本能的に、感覚的に、感情的になりたい。ただそれだけの事なのに、俺は──私は気持ちを取り戻せなかった。
気が付いたんだ。ここに来て、ここまで成り果ててようやく。
あの森は、若さだ。私の幻影が、醜い渇望が生み出した空想の産物。
愚かだった私が夢として描いた、若さという森。
私はいつの間にか、老いていた。
小さい頃の私は、取るに足らないものに心を動かされ、この世のあらゆる事象を無知で、汚れぬまま自分の世界から眺める事が出来ていた。
だが次第に私は、身の回りのものに難癖を付け、些細なことに腹が立って不快感を抱き、美しいものに目を向けなくなっていった。
心は摩耗し、知らぬ内に荒んだのだ。
毎日のような感じた新鮮な感情、希望を持って明日へ進む膂力、あの日の憧憬。
それはもう、二度と抱くことはかなわない。ただその事実を受け入れ、私は嘆くことしか出来ぬ、凡庸な人間になってしまった。
後ろを振り返っても、森はもう見えない。後戻りも出来ない。
私はただ、目の前にまだ広がっている残酷な世界を、色褪せた魂をもって進まねばならない。
それも楽しさや歓喜より、苦しみと絶望を拾う眼鏡をかけて。
この世は無常だ。人は自分のものを、取り返しのつかないものを失い続けながら今日を生きる。
そして渇き切った心に、少しでも水を差そうと必死になりながら。
私は今日も、心をすり減らして前へと進む。いつか長いこの旅を終えて、死に絶えるまで。
もうこれ以上、心を取りこぼさないように胸を抑えて。
草原の緑は風でさわさわと靡いた。
深緑の憧憬 白神天稀 @Amaki666
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