第10話

 タッタッタッと一定の速度で町内の道を駆け、夏場の朝日が僕の体をジリジリと焼き付ける。

 熱い。長袖のジャージで出たのは失敗だったな。

 それでも汗かけばその分新陳代謝上がるし、と考えを切り替え変わらぬペースで走り続ける。

「あら、アオト君じゃない」

「あっ、おはようございます」

 散歩中の近所のおばさんと、軽く挨拶を交わす。

「相変わらず男前ねぇ~。若いころの旦那そっくりだわ~」

「あはは、ありがとうございます」

「あっ、そうそう、私にもちょうどあなたとおんなじくらいの孫がいるのよ」

「へぇ~、そうなんですね。きっと藤村さんに似て綺麗な人なんでしょうね」

「まあ! お上手だこと!」

 なんて社交辞令を兼ねた冗談を交えて、他愛のない話を数分重ねる。

「——おっと、あんまり呼び止めちゃ悪いわよね。ごめんなさいねぇ、こんな老いぼれの話に付き合わせちゃって」

「そんなことないですよ。藤村さんの話はいつも面白いですから」

「あら、ありがとうね。それじゃあ、私はこれで」

「はい、自分も失礼します」

 にこやかに小さく手を振る彼女に一礼してから僕は再び走り出す。

 藤村さん、良い人だよなぁ。

 今度何かおすそ分けでも持っていこうかな。

 なんてことを何の気なしに考えながら、いつものランニングコースを進む。

 微かに揺れる木々。

肌を撫でるそよ風。

鼻孔をくすぐる早朝の空気。

 少しの疲労感と汗でジメッとしたジャージ。

早朝のランニングの前ではそれもまた一興だ。

 爽やかな朝だ。

 我ながらなかなかに充実しており健康的な朝である。

「アオト様の走り姿っ! ぱ、パないッス! マジパないッス!」

 ……そこに混入する、一つのノイズ。

 シャッター音と共に唐突に現れたのはノノさんだった。

 しかも隠れることなく堂々と真横で並走しながらカメラを構えて叫んでいる。

「………おはようございます。ノノさん」

「あ、あ、ああアオト様が私にお声がけを!?」

「そのくだり昨日もやったので大丈夫です」

 危ない危ない。また同じやり取りを繰り返すところだった。

「それで、どうしてノノさんはここにいるんですか」

 足を止め、昨日動揺長袖ロングスカートで前腕ほどの長さがあるドデカいレンズのついたカメラをこさえたノノさんに問う。

「その実は、昨日こっそりアオト様の後ろを付けて家を特定して、朝まで張り込んでまして」

「えっと、電話どこだっけ?」

「ナチュラルに通報しようとしないでください! じょ、冗談ですから!」

 ノノさんは慌てふためきながら発言を撤回する。

 じゃあ通報されかねない冗談は言わないで欲しい。

「な、なんだ。それならよかったです」

「はい、実は既にアオト様の家は特定済みです」

 むしろ冗談であってほしかった。

「なのでアオト様の生活サイクルはほとんど把握済みです」

 さも当然かのように一切曇りのない笑顔で彼女は告げる。

 それに対して僕は引き攣った笑みを浮かべることしかできない。

 さ、流石にこれはやりすぎだよな。

 これは通報すべき事案だろう。

 いやでも、そこまで迷惑懸かってないしそこまでしなくてもいいか(←ストーカー対策として最もやってはいけない行為の例)。

「そ、それはいいとして」

 これ以上話を聞くのはなんだか怖いから話を逸らす。

「なんでこんな早くからストーキングなんてしてるんですか。もしかして僕に用とか?」

「い、いえ、そ、そんな! 私のような下等生物がアオト様ほどのお方に用事なんて!」

「へりくだり過ぎですよ」

 一体ノノさんは僕を何だと思っているのだろう。

「私のことは路頭の石とでも思ってランニングを続けてください!」

 下等生物から路頭の石にランクダウンしちゃったよ。

「そうですか? ならランニング続けますけど、ノノさん付いてこれます?」

 どうせノノさんのことだし、ランニングする僕を追っかけながら写真撮り続けることだろう。そうなれば彼女を置き去りに走り去ってしまうことになる。

 追っかける女性を置き去りにランニングを続けるというのは、なんだか気が引ける。

「だ、大丈夫ですっ! 体力には少し自信あります」


 そう豪語した三分後。

「ゼェ…、ハァ…、ゼェ…、ハァ…」

 あれほど自信に満ちていたノノさんの表情は、苦悶の表情へと変り果てる。

「あの、大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫で、——ゲホッゴホッ!」

「大丈夫じゃないですね」

 疲労困憊のノノさんはまともに返事をすることもできず、今にも倒れそうな勢いだ。

 もはや写真を撮る余裕はなく、追いつくので精一杯という感じだ。

 彼是一キロは走っているし、ロングスカートではさぞかし走りにくいだろう。

「そこにベンチありますし、少し休みましょうか?」

「は、はい、ゼェ…ハァ…、す、すいません」

 いつもなら遠慮するのに、今日は二つ返事で了承した。

 よほど疲れているのだろう。

 ベンチにノノさんを座らせると、僕は少し離れたところにある自販機で水を二本買う。

 両親に生活費は負担してもらっているとはいえ、駆け出しの俳優である僕の給料は雀の涙ほどで、二百円でも痛い出費だ。

「ノノさん、これどうぞ」

 疲れ果てベンチで休んでいるノノさんに水の入った350mlペットボトルを差し出す。

「あっ、ありがとうございま——て、ええええええ!?」

「うわっ! ……び、びっくりした」

 急に大声を出しながら立ち上がられ、驚きのあまり声が出てしまう。

「あああ、あ、アオト様が、わわわ、私に、みみみみ、水を……‼」

「そんなに驚くことですか……」

 たかが百円の水でそこまで驚くことか?

 いや僕からしたら百円もたかがじゃないけど。

「いいのですか‼」

「逆にダメなんですか?」

「だ、だって、アオト様から何かをもらうなんて」

「あ、もしかして嫌でした?」

 ノノさんは僕のファンをする上で独自の線引きをしているっぽいし、こういうことされるのは彼女にとって不都合なのかも。

「け、決してそんなことないです! アオト様からもらえるなら、虫の死骸だろうと自分の体を粒子レベルで分解してしまう化学兵器だろうと嬉しいです!」

「そんなものあげませんよ」

 まずそんなおぞましい化学兵器を僕が持っているわけない。

「で、でも、私がアオト様からものをいただくなんて二兆年早いというか」

「ノノさんの人生どころか地球が終わっちゃいますよ」

 ノノさんはなかなか受け取ってくれない。

 そこまで悩むことでもないだろうに。

 ——しかし困った。

 僕一人で水を二本飲むのはキツイな。

 別に今飲まずとも家に帰って飲めばいいのだが、それだとランニングの邪魔になる。

「……その、……ノノさんのために買ってきたので、できれば飲んでくれると嬉しいです」

「っ!?」

 笑いかけながら再び水を差し出すと、彼女は突然顔が真っ赤になる。

 な、なんか僕、変なこと言ったかな?

「あ、あ、あ、あ……」

「あ?」

 ノノさんはその場で片膝をつき、首を垂れる。

「ありがたき幸せ!」

 まさか国王から伝説の剣を与えられた騎士のように受け取られるとは思わなかったな。

「末代までの家宝として大切に保管します!」

「いや飲んでください」

「じゃあ飲んだら家宝にします!」

「飲んだら捨ててください」

 家宝が空のペットボトルとか、一族の恥だろ。

「私、体力戻りました!」

「え!? まだちょっとしか休んでませんよ!?」

 それに水も飲んでないし。

「今なら百キロくらい余裕で行けます!」

 でも、本当に回復しているみたいだな。

 頭を入れ替えた某ヒーローのような変わりようである。

 発言が本当なら文字通り元気百倍だ。

「じゃあ、もう少し走りますか」

「はいっ!」

 ——と、意気込んだ彼女だが、二キロ地点で力尽きた。


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