第3話
深夜零時。
僕はキッチンに立っていた。
そういえばトイレ以外で自室を出るのは久しぶりだな。
なんてどうでもいいことを思い出す。
梓はもう寝ている。
今日の夕方の出来事があってから、梓は自身の部屋にいるようだ。
……梓には、本当に悪いことをした。
いくら謝っても謝り切れない。
それともう一つ、これから謝らなければいけないことが増える。
いや、事が終われば僕が梓に謝ることは決して叶わないだろう。
僕は右手に握りしめた包丁を、首元に突き立てる。
大丈夫、刺さればすぐに死ぬはず、……痛いのは一瞬だけ……。
自分にそう言い聞かせ、徐々に包丁の先端を近づける。
しかし、簡単には踏ん切りがつかない。
怖い。
手の震えが止まらず、包丁の先端も震え、狙いが定まらない。
右手で持っていた包丁を両手で握りしめ、震えを止めようとする。
けど、止まらなかった。
むしろ震えは激しくなり、時間が経つにつれ、呼吸が荒くなり、心臓も激しく脈打っている。
——これから死ぬ。
ただいじめられるだけの人生と思っていたのに、死ぬ間際となるといろんなことを考えてしまう。
将来のこと——。両親のこと——。梓のこと——。
死んでしまったら、梓は悲しんでしまうのだろうか。
それは嫌だ。
でも、僕はもう、——生きられない。
葛藤の末、ついに僕は、
包丁を置いた。
結局、死ねなかった。
◆
自室に戻り、テレビの電源を付けた。
僕はチャンネルを変えることなく、ただテレビを眺めていた。
——これから、僕はどうすればいいんだろう。
生きることも、死ぬこともできない僕は、このままテレビの画面を眺めながら朽ち果ててしまうのだろうか。
「……意外と、いいかもしれないな」
ボソッと呟く。
もうこのまま部屋に籠って、一年も十年も二十年も五十年も死ぬまで籠り続けて、そうして生涯を終えるのも悪くないかもしれない。
自暴自棄になった今の僕には、その生涯の終え方が魅力的だと思えてしまう。
テレビを見ていれば、何も考えずに済む。
辛いことも、惨めな自分のことも、生きることも死ぬことも、何もかも。
そう思った矢先だった。
テレビで映画の放送を取り上げていた。
こんな時間帯に映画を放送するのは珍しいな。
そう思いつつも僕は画面を見続けた。
映画の内容はいじめられっ子の主人公が自分を変えようと努力する感動ストーリーだ。
正直、内容は全然面白くない。
こんな時間帯にしか放送時間を取れなかった作品だ。
薄っぺらいシナリオだし、脇役のセリフは棒読み。
それに、主人公はイケメンの高身長だというのにいじめられっ子という設定に納得ができない。
なんでお前がいじめられてるんだよ。と思わず悪態をついてしまう程だった。
——けど、何故だろう。
ツッコミどころ満載の駄作なのに、
涙が止まらない。
シナリオに感動したわけではない。
こんなチープな話で泣けるほど涙腺は脆くない。
僕の涙を誘ったのは主演俳優の演技だった。
絶望に打ちひしがれている姿、怒りに震えている姿、勇敢に立ち向かう姿。
演技とは到底思えないその姿に、僕は引き込まれていた。
安いシナリオも脇役の大根芝居も全て主演の演技で補えているほど、彼の演技力は凄まじいものだった。
——きっと彼は、僕とは正反対の人間なのだろう。
けど、重ねてしまった。
いじめられっ子を演じる彼と、自分の姿を無意識に重ねてしまった。
僕はこの作品がフィクションであることを忘れ、主人公に共感していたのだ。
そして、エンドロールが流れた。
そこで初めて自分が泣いていたことに気が付く。
今まで、こんな事なかった。
映画どころか何かを見て泣いたことなんて一度もない。
だからこそ、僕は——憧れてしまった。
彼のようになりたいと、そう思ってしまった。
今の自分にできるなんて思っていない。
演技の経験なんて小学校の学習発表会しかない。
……そして、なにより、こんな見た目だ。
チビでデブな僕が、彼のような俳優にはなれる気がしない。
絶対に無理だ。
……けど、諦めきれない。
多分不可能のまま終わるだろう。
道半ばで躓くのがオチだ。
でもせめてできることをやろう。
とりあえず全部やって、全部努力しきってみることにしよう。
早朝。
僕はジャージに着替え、学校用の運動靴の紐を縛っていた。
「……お兄ちゃん?」
後ろから、パジャマ姿の梓に声を掛けられる。
昨日のこともあって、少し気まずい。
けど、もう見て見ぬふりはしない。
僕は振り返り、梓の姿を目で捉える。
「おはよう、梓」
「う、うん。おはよう」
梓も昨日のことを気にしているのか、よそよそしい雰囲気だ。
でもちゃんと向かい合わないと……。
「……昨日は、ごめんな。怒鳴ったりして」
「——っ! う、ううん。私の方こそ、ごめんね。余計なことしちゃって」
「梓が謝ることじゃないよ。悪いのは全部僕だから。——本当に最低だったよ。梓が僕のために頑張ってくれたのに、それを否定して、あんなに怒鳴ったんだから」
「そんなことないっ‼」
僕が自虐的になると、梓は力強くそれを否定する。
「お兄ちゃんはいつも私と遊んでくれて、とっても優しくてね……! だ、だから、全然
最低なんかじゃないんだよっ!」
潤んだ瞳で必死に訴えかけられる。
本当に、優しいよ。梓は。
「ありがとう、梓」
僕は梓の頭に手を置き、優しく撫でる。
「……何処かに行っちゃうの?」
上目遣いで寂しそうに尋ねてくる。
そうか。僕が朝早くから外に出ようとしているから、家を出て行ってしまうと勘違いしているのか。
「何処にも行かないよ。ただ——
梓に誇れるような兄貴になりたいと思うんだ」
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