第18話 近づく距離
「昨日はありがとうございました」
八代さんを病院に連れて行った翌日の放課後。寒空の下、俺の家の前に八代さんが髪を靡かせていた。
風で揺れる髪を右手で抑える彼女に、昨日見せた微笑みはない。飄々としていて、いつもの淡々とした雰囲気。見慣れた八代さんがそこにいるのみ。
そのことにほっと胸を撫で下ろした。
「ああ、どういたしまして。お母さんが無事で本当によかったよ」
「はい。どうやら入院も一週間ほどで済むみたいです」
「そうか。大変だろうけど、頑張って」
安らかに口を緩めている八代さんを見れば、本当にお母さんが無事で良かったと思う。
あれだけお母さんのことを大事にしているのだ。そりゃあ勉強も頑張れるというものか。
八代さんを改めて見ると、その美貌というものがどれほどのものか、つくづく実感する。
透き通る瞳は吸い込まれそうなほど綺麗で、ぷるんとした唇は情欲が駆り立てられるほどの蠱惑さがある。
何もしていないにも関わらず、ただいるだけで他人を惹きつけてやまないほどに美しい。
だが、それを見ても昨日のように動揺することはない。やはり昨日のはたまたまだ。不意を突かれたからだろう。
「それでお世話になったのでお礼をしたいのですが、何か欲しいものとかありますか?」
「欲しいもの? そうだな……」
八代さんは責任感が強い。わざわざ勉強を教えるために親しくなかった俺を家に招くほどだ。遠慮しても素直に頷くとは思えない。断るくらいなら、素直に受け取ることにしよう。
何にしたものか。唸りつつ悩んでいると、八代さんははっと何か気付いたようで、八代さん自身の身体を自分で抱いた。
「ま、まさか。私と言われてもあげませんよ?」
「そんなこと眼中に一切ないから安心しろ」
「それなら良かったです。てっきり、どこかの薄い本みたいな展開になるのかと……」
「おい。俺は八代さんの中でどんなゲス野郎になってんの?」
妄想は二次元の中だけにして下さい。犯罪なんてするわけないでしょ。
はっきり言わないとさらに酷い妄想が広がりそうなので、真っ先に思い付いたものを挙げた。
「やっぱり、枕が欲しいな」
「枕、ですか?」
きょとんと目を丸くして首を傾げる。八代さんの前髪が、動きに合わせて僅かに揺れた。
「失礼ですが、枕ってそんなに要りますか? 既に一条さんはいくつか枕を持っていた気が……」
「枕はいくつあっても良いからな。毎日日替わりで寝るとぐっすり寝れるだろ?」
「いえ、同じ枕の方が寝れます。それに枕は一つしか持っていません」
「なんだと!? 正気か!?」
枕を一個しか持たないなんて、人生損しているとしか思えない。人間、人生の三分の一は寝て過ごすのだ。そこに拘らずにどうすんだよ。
あまりに驚きすぎて八代さんの顔を見つめると、八代さんは呆れたようにため息を吐く。
「一条さんを基準に考えないでください。一般人は枕をいくつも持ちませんから」
「そうかもしれないが……。どうだ。これを機会に八代さんも枕の複数持ちをデビューしてみたら?」
「結構です」
ピシャリととりつく島もなく断られた。
残念、誘いは失敗してしまった。せっかくの枕信者を増やす良い機会だと思ったのだが。……なんかこんな感じのこと、前にもあったような……。
以前八代さんに猫のことで誘われたことだあった気がしたが、気付かないふりをした。うん、俺は何も覚えてない。
「とにかく、枕が欲しいことは分かりました。でも、残念ながら、どんな枕がいいのか、正直選べる自信がないです」
「まあ、そうだよな。好みを伝えても分からないだろうし」
「はい。それで、一緒に出掛けて選ぶというのはどうでしょうか? 気に入ったものがあれば、それを贈りたいのですけど」
「……はい?」
思わず耳を疑う。瞬きを繰り返して目で問い返すが、八代さんは当然のように澄ましている。
今、一緒に出かけるって言ったよな?それって……。
「一緒に出かけませんかって誘ったんです。それなら効率よくあなたの欲しいものを見つけられるでしょう?」
「お、おう」
僅かに顔が熱くなる。まさか八代さんからそんな提案をされるとは思わなかった。なんとなく恥ずかしく、頰を掻く。
「なに、意識してるんですか。別に他意はないです。ただ出かけるだけですよ」
「ああ、分かってるよ。びっくりしただけだ」
八代さんの冷静ないつもの対応に気持ちは落ち着く。一息吐けば、心は静かになった。
「分かっているならいいです。本当に他意はないんですから」
「分かったから二度押しするんじゃない」
まったく。昨日のか弱い姿が嘘みたいだ。思わず苦笑いが溢れでる。
「では、一緒に行く方向で大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ」
「分かりました。そのついでに猫カフェにも行きましょう」
「待て、それが本命だろ」
聞き捨てならない言葉が聞こえた。どう考えても、そっちが目的にしか聞こえない。なにが他意はないだよ。ありまくりじゃねえか。
ジト目で見つめると、八代さんはぷいっと惚けるようにそっぽを向いた。
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