第17話 微笑み
「お母さんが……事故にあったって」
「っ!」
思わず息を飲む。不安げに歪められた表情。戸惑い焦るように慌ただしく八代さんの瞳が揺れている。
「えっと……どうすれば……。なにをすればいいんでしょうか……」
震える声から動揺が伝わってくる。まだ混乱がおさまらないようで、小さく俯き、スマホを見て固まっている。
「----しっかりしろよ!とにかく早く病院に行かないと--……」
八代さんの肩を掴んで軽く揺さぶる。びくっと体を震わせて顔を上げた八代さんの顔には、焦燥が浮かんでいた。
今まで一度も見たことない表情。眉をへにゃりと下げて、口をわなわなと震わせている。目尻には涙さえ僅かにちらつく。
これまで見てきた強い彼女の姿はそこにはない。弱り果てた女の子の姿がそこにあるだけだ。
「タクシーを呼ぶから。少し待ってて」
電話で呼ぶと、幸いにも5分ほどで到着する。玄関前に黄色いタクシーが止まり、ドアを開けた。
「来い」
固まっている八代さんの手を引いてタクシーに乗り込む。「県立病院まで」と行き先を告げて、すぐに出発した。
タクシーの中。ただならぬ雰囲気を感じているのか、運転手さんが話しかけてくることはない。
隣を見ると、八代さんは思い詰めた表情で自分の膝に視線を落としている。
表情は陰り、普段の素っ気ない澄まし顔はない。
不安を堪えるかのように強く拳が握りしめられ、細かく震えていた。
「……」
なんとなく見ていられなくて、つい手を伸ばす。少しでも力になれるなら。安心感を与えられるなら。
自分の手を彼女の握り拳に重ねる。白い手からひんやりと冷えているのが伝わってくきた。
窓から外を見ながら、重ねた手に軽く力を込める。幸い振り払われることはなく、八代さんの震える手を軽く握り続けた。
病院に着いて、受付で八代さんのお母さんの部屋を聞く。急いで進み、その部屋を開けた。
「……あれ? 凛。それに一条くんも」
部屋の奥、白いベッドの上で、八代さんのお母さんが驚いたように目を丸くしている。きょとんとどこか抜けた表情に深刻さの陰りは一切ない。
「事故にあったと聞いて、八代さんを連れてきました」
「あら、そうなの。ごめんね。ドジっちゃって。少し自転車で引っかけたら骨折しちゃったのよ」
「骨折……ですか?」
あっけらかんと笑う八代さんのお母さん。たはは、と屈託なく笑って、後ろ頭を掻く。どうやら無事みたいだ。
「……おかあ、さん……」
八代さんがお母さんの元へと寄る。
一瞬、くしゃりと表情を歪ませたかと思うと、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「あらあら。ごめんね、心配させちゃって」」
困ったように笑って、お母さんは八代さんの頰を手を添える。
それでも八代さんの涙は止まらない。一滴、また一滴と、彼女の綺麗な顔を伝って流れていく。
よほど不安だったのだろう。静かに啜り泣いては、お母さんに撫でられている。
堰き止めていた緊張がなくなったことで、留めなく泣き続ける。
初めて見る八代さんの泣き顔はあまりに意外だった。
いつだって強く気高く、誰をも寄せ付けない強さが彼女にはあった。そんな八代さんに少し憧れていたと言ってもいい。
だが、涙をこぼす八代さんにはそんなものはなく、年相応のか弱い女の子にしか見えなかった。
想像もしていなかった姿が強く残る。肩を震わせて涙を零す八代さんを、泣き止むまでずっと見守り続けた。
「少しおばさんに連絡してくる」
やっと落ち着いた八代さんは目を微かに赤くしたまま部屋を出て行く。ぽつんとお母さんと2人きりになった。
お母さんがこっちに視線を向けて、ゆるりと微笑む。
「一条くん。凛に付き添ってくれてありがとう」
「いえ、俺も心配だったので。それに八代さんの様子がかなりおかしくて、一人にはしておけませんでしたし」
「……そう。やっぱり、あの子には心配をかけちゃったみたいね」
そう言ってお母さんは少しだけ眉を下げた。
「あの子、昔から一人でいることが多くて、ずっと心配だったのだけれど、一条くんが凛の側にいてくれるなら安心だわ」
「友達と思われているかは微妙ですけど」
「あら。あの子、あれでも一条くんのことを信頼していると思うわよ。これまで私に誰かのことを話すなんてほとんどなかったんだから」
「そうだといいです」
やはり猫のおまけ扱いされている気がしないでもないが、確かに最近の八代さんは多少は信頼を得ていると思ってもいいのかもしれない。
それでもココアに勝てる気はしないので、やはりおまけ扱いは抜け出せそうにないが。
微妙な未来しか想像出来ず、曖昧に微笑んだ。
家族水入らず。これ以上俺がここにいるのは野暮だろう。お母さんが無事であることも確認できたので、ひとまずは安心だ。
まだ八代さんが戻ってきていないが、お母さんに挨拶して病室を出る。
白い病棟の廊下を歩くと、向こう側から八代さんが来た。
「あれ? 一条さん」
「ああ。俺はもう帰るよ。お母さんも大丈夫だったみたいだし。八代さんはまだ残るでしょ?」
「はい。そうします」
向かい合う八代さんの顔に、さっきまで泣いていた名残は全くない。いつもの素っ気ない無表情があるのみ。
それでも、泣いたあの顔が微妙に脳裏にチラつく。そのせいか心がざわついて落ち着かない。
「ほんと大したことなくて良かったよ。じゃあ、帰るな」
すれ違って別れようとする。だが、後ろから綺麗な声で名前を呼ばれた。
「一条さん」
「ん? なに?」
振り向きながら首を傾げる。
「あの……色々助かりました。私一人では何もできなかったと思いますし」
そこまで言って、八代さんは一呼吸入れた。
軽く俯き、スカートをくしゃりと両手で握る。それからゆっくりと顔を上げた。
「……その、ありがとうございます。一条さんがいてくれて良かったです」
ゆるりと微笑む八代さん。ほんの少し頰を赤くしながらも、柔らかく華が舞うようにふわりと笑った。
「……っ」
またしても初めて見る表情。思わず見惚れて息を飲む。
これまでココアに対して微笑んだり、喜んだりすることはあった。だが、それが俺に向けられたことはこれまで一度もない。
そんな表情が自分に向けられた。まるでそれは自分が八代さんの内側に入れてもらったみたいではないか。
透き通る瞳を細めてへにゃりと笑んだ表情は、年相応の可愛さがあってあどけない。
自分だけに見せてくれている、その特別感にドキリと胸が高鳴るのを抑えられなかった。
(くそっ)
心の中で悪態を吐く。そんな表情はずるいだろ。
別に勘違いをするつもりはない。だけど、限度というものがある。
目をへにゃりとさせ、綺麗な顔を緩ませながらの優しい笑顔は誰をも魅了させるほどに可愛らしい。
それは自分も例外ではなく、不覚にも見惚れてしまった。
顔に熱が篭り始めるのが自分でも分かる。確かめるように指先で頰を触れてみれば、明らかにいつもより熱い。
八代さんの視線から逃げるように顔を逸らすが、それでも頰の熱はいつまでも無くならなかった。
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