第10話 母親

 翌日の放課後、家に帰ると八代さんが先に到着していた。猫を眺めていたが、こちらに気付いたようで顔を上げる。


「こんにちは」


「ああ。少し待っててくれ。持ってくものあるから」


 八代さんを置いて家へと戻る。今日学校に持っていかなかった教科書をいくつかと、手土産を持って家を出た。


「悪い。待たせた」


「いえ。そちらの手に持っているのは?」


 八代さんは不思議そうにこてんと首を傾げる。綺麗な色素の薄い黒髪がさらりと揺れた。


「挨拶もしなきゃいけないし、一応な。お母さんに話したら持ってけって」


「挨拶……はっ!?」


「おい、また変な勘違いしてるだろ」


 何かに気付いた。そんな表情を見せた八代さんに、すかさず釘を刺す。


 俺だって伊達に何度もフラれている訳ではない。この表情を見せた八代さんはろくなことを言わないのは学習済みだ。


 なんとか冷静になってもらおうと思ったが、八代さんは止まらなかった。


「手土産を持って私の親への挨拶……。結婚を前提という真剣なお付き合いを考えてくださったのは有難いですが、ちょっと重いです」


 困惑するように眉をへにゃりと下げて申し訳なさそうに頭を下げる。ねえ、ちょっと?


 これまでは拒絶という態度で断られていたのだが、今回は罪悪感を滲ませていた。

 

 無駄な優しさやめて? 俺でも傷付くよ?


「さすがに結婚を前提としたお付き合いを申し込まれたことはないので、少し驚きました」


「いや、申し込んでないからね? ちょっと、話聞こうか」


「ではなぜ?」


「他人の家にお世話になるんだから礼儀だよ。それ以上でもそれ以外でもない」


「なるほど。そちらでしたか」


 やっと落ち着いたのか、ほっとした表情を浮かべる八代さん。どうやら俺の意図を分かってもらえたらしい。


 無事誤解を解けたのは良かったのだが、最後の言葉が引っかかる。


「え、分かってたのか?」


「はい。その可能性が高いのは分かっていましたが、万が一を考えて断らせてもらいました」


「八代さんの中での俺はどうなってるんだ」


 だんだん不安になってきた。俺、八代さんの中ではそんなに変な人扱いされているのだろうか?


 今はこの後予定が詰まっているのであれだが、一度しっかり話しておいた方がいいかもしれない。


「……まあ、いいや。じゃあ、今日はよろしく」


「はい。では行きましょうか」


 ココアに手を振ってから八代さんは道案内を始めた。


 夕方で日も傾き始めた。伸びた影が俺と八代さんの後をついていく。

 そっと隣を見ると、八代さんの無表情な横顔があった。


 長いまつ毛はカールを描き、ぱっちりとした二重の瞳が前を向いて、光で輝いている。

 静かな彼女は確かに綺麗ではある。話していると残念だけど。少しだけ哀れみの視線を送ってしまった。


「ここですね」


 四階建てのアパートの三階に右端の部屋へと案内され、そこで八代さんは呼び鈴を鳴らした。

 すぐにドアが開いて中から、女性が出てきた。


「いらっしゃい」


「初めまして。一条蓮といいます。今日はよろしくお願いします」


「はーい。さぁ、上がって上がって」


 八代さんのお母さんは人懐っこい笑顔を浮かべて奥へと案内してくれる。


 八代さんと似た顔なのに、どこか冷たい雰囲気のある彼女とは違って、陽だまりのように暖かい。

 似ているからこそ余計に変な違和感。


 とりあえずリビングに案内されたところで手土産のケーキを渡して椅子に座る。

 八代さんは隣に座り、八代さんのお母さんはお茶を用意してテーブルの挟んだ逆側の椅子に座った。


「なるほどねー。あなたが一条くんか。凛がお世話になっています」


「いえ、別に気にしないでください。ただ猫を撫でているだけですので」


 慣れたいつもの微笑みを浮かべて、にこやかに挨拶を交わす。何度見ても優しい八代さんのお母さんの笑みは変な感じだ。


「最初、凛から話を聞いた時は驚いたのよ。凛ってあんまり人のこと話さないから。それに良い人って褒めるし」


「ちょっとお母さん!?」


 慌てたように八代さんが声を上げる。隣を見ると、八代さんが僅かに頬を赤らめていた。


 見たことのない表情に呆気取られる。すると、八代さんが目を鋭くして早口で捲し立ててきた。


「良い人とは言ってません。悪い人ではないと言っただけです。変な勘違いはしないでください。分かりましたか?」


「お、おう」


 必死な気迫にこくこくと頷く。


「お母さんも変なこと言わないで」


「ええー?」


「もう。あっちに行ってて」


「はーい」


 お母さんは慣れているようで、特に気にした様子もなく別な部屋へと下がっていく。やっと静かになり、しんと落ち着いた。


 八代さんはコホンとわざとらしい咳払いを入れた。


「今のお母さんのセリフは忘れてください」


「……はいよ」


 忘れようとして忘れられるものではない。それに八代さんのお母さんが口にしたことはかなり意外なものだし、忘れろという方が無理がある。


 無駄にフッてくるし、警戒してくるし。てっきり苦手な人の方に分類されているのかと思っていたが、そうではなかったらしい。


 そっと様子を窺うと、未だにほんのりと頰が桜色に色付いている。俺の視線に気付くと八代さんは表情を険しくした。


「なんですか?」


「……いや、なんでも。勉強の方、よろしく」


 一波乱あったが、やっとなことで本題の勉強が始まった。


 八代さんの作ったプリントやノートのコピーを貰い、テストで出そうなところを重点的に教えてもらう。


 その教えてくれる間にも時間を見つけては、自分の勉強を進めていくのでかなり凄い。


 八代さんに与えられた課題を解いているときには、彼女も自分の勉強を進めていく。


 教室で遠目に八代さんが勉強をしているのは何度も見たことがあるが、こうして近くでまじまじと見たことは一度もない。


 普段の周りには無関心な雰囲気とは違う、真剣で愚直に教科書に向かう姿勢に、思わず目を奪われる。


 適当にふざけてやっている周りにいる人たちとは違う、どこまでも真剣な表情はとても綺麗でかっこいい。


 八代さんがずっと学年で1番を取り続けられているのは、ただの才能ではない、努力に裏打ちされたものであるだと、その片鱗を見せられた気がした。

 

 

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