第9話 決定

「良かったら、私の家で勉強教えましょうか?」


「……は?」


 一瞬真っ白になった頭がようやく再起動する。聞き間違いか? 


「今、なんて言った?」


「だから、私が勉強を教えましょうかって言ったんです。別に嫌ならいいですけど」


 嫌がられていると勘違いしたのか、そっぽを向いて淡々と語る八代さん。


「えっ、あー、助かるといえば助かるが、なんで急に?」


「猫のことで一応お世話になっていますし、お母さんに話した時に、その人と一度くらいは話したいと言っていたので」


「なるほどな。でも、別に猫のことは気にしなくていいぞ?」


 半分気まぐれに始まったものだ。恩を売るとかそういう意図があったわけではない。

 それにココアも気に入っているみたいだし。お陰で俺がフラれるようになったけど。


「確かに、2、3度くらいでしたら気にしないでいいかもしれません。ですがこれからも撫でさせてもらうわけですし」


「そうか……」


「あ、ココアさんを譲ってくださるなら、問題が解決しますね」


「あげないよ?」


 どこか期待に満ちた瞳をきらきら輝かせてこっちを見上げてくる。

 澄ました表情のくせにどこか嬉しそうな表情はそれだけで魅力的だ。ぱっちりとした二重の瞳が好意的に輝くだけで、思わず目を惹かれてしまう。

 でも、そんな表情をしてもダメです。


「……冗談ですよ。そもそもに私のアパートでは動物を飼えませんから」


 八代さんはそっと視線を落とし、て太ももに乗るココアを優しく撫でる。


「それでどうでしょうか?」


「まあ、助かるけど、八代さんの家だろ? 学校とかどこかのカフェとかじゃダメなのか?」


「本気で言っています? これでも外だと私は目立ちますし、あなたもかなり人目を惹くでしょう? 学校の人に見つかれば何を言われるか……」


「ああ、確かに。意外と気にしてたのな」


「当たり前です。面倒ごとは嫌ですから。……既に神楽坂さんに目をつけられていますけど」


 神楽坂は舞の苗字だ。なるほど。やはり人と関わらないのにはその辺りの理由があったらしい。


 うんざりしたようにため息を吐く八代さん。どこか面倒くさそうなそう感じは凄く共感できた。


「神楽坂さんのことはまあ、大丈夫です。それよりテスト勉強の方です。どうしますか?」


「いいけど、女子の家ってのがなー」


 これまでに何度か女子の家に招かれたことはあるが、ほとんどは何人かの友人と一緒にだ。それが八代さんと二人きりとなると……。


 そこまで悩むと、八代さんが、何度目かのはっと何かに気付いたように少し目を丸くした。


 すっと俺から一歩離れて、自分で自分の身体を抱くようにする。それから警戒と軽蔑が混じった視線をこちらに向けてきた。


「もしかして私と二人きりとか思っています? もちろんお母さんもいますよ」


「え、そうなの?」


「男女で二人きりとか。もうそれはABCのCまで進んだと言っても過言ではありません」


「それは過言だぞ?」


 まだAにもなっていませんよ、八代さん。


「まさか私と二人きりなのを想像するなんて、一条さん、やはり私のことを狙っていましたか。ごめんなさい。付き合えません」


「やはりって。狙ってない狙ってない。こっちからごめんだっての。まあ、でも勝手に二人きりだと勘違いしてたのは謝る。ごめん」


 告白していないのにフラれたのはやはり解せないが、変な勘違いをしていたのは間違いない。潔く頭を下げる。


「二人だけじゃないなら、お願いしていいか?」


「はい。明日ならお母さんも家にいるのでいいですか? 一日だけなのでそこまで詳しく教えられるかは分からないですが」


「ああ、全然大丈夫」


 打算も何もない。シンプルなお礼というのなら有り難く受け取らせてもらおう。そう思って頷いた。


「教えてくれるのはほんと助かる。ありがとう」


「いえ、教えるのも勉強の一つですから。私にもメリットはあります」


「思ったんだが、どうしてそんなに勉強頑張れるんだ?」


 普通、勉強なんて嫌いな奴がほとんどだ。それなのに八代さんは日頃からほとんどの時間を勉強に充てている。

 そこまで頑張れる理由が気になった。

 

 八代さんは猫を撫でたまま、どこか遠い目をする。そして穏やかに口元を緩めた。


「私の家はお母さんと二人暮らしなので、お母さんにはいつも迷惑をかけていて。将来はいい仕事に就いてお母さんを楽にさせてあげたいんです」


「……なるほどね」


 さらっと言ったが、まさか八代さんも母子家庭だとは思わなかった。同じ境遇か。


 母親を大切にしたい気持ちは凄く共感できる。小五まで女手一つで育てるのがどれだけ大変か、その苦労は計り知れないだろう。

 それでも自分を育ててくれたことには感謝しかない。


 ただ俺は感謝する気持ちはあってもそれをどこか当然のように受け取っていたのかもしれない。

 それだけ八代さんの恩返しをしたいというその気持ちは眩しく、そしてかっこよく見えた。


 八代さんへの認識を改めていると、彼女は不思議そうに目をぱちくりと瞬く。

 

「あなたは私の家庭の話を聞いても気まずそうにしないんですね?」


「なにが?」


「母子家庭って聞くと大抵の人は同情するか憐れんでくるかのどちらかでしたので」


「ああ、そういうこと。俺もお母さんと二人だったから」


「そうなんですか」


「今は再婚して幸せそうにしてるからいいけどな。それでもお母さんへの感謝の気持ちは凄く分かるよ」


 どこか似ている。これまでの苦手意識は消え、親しみにも似た何かを感じた。


 その後は静かになり、互いに黙ったままの時間が進んでいく。

 ただ、これまでのどの猫撫での時間よりも穏やかな気がしたのは気のせいだろうか?


「では、今日はこれで帰りますね」


「ああ。じゃあ、また明日な。勉強教えてくれ」


「はい。一応軽く見ておくぐらいのことはしておいて下さい」


「分かった」


「では、また明日」


 こうして、異性への警戒心の塊と言っても過言ではない八代さんの家で勉強を教えてもらうことになった。


 ……どうしてこうなった?



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