走る

青井かいか

走る


 足を一歩前に動かすたびに、風の流れを感じる。肌に滲んだ汗が冷やされ、体の内側が熱を持つ。

 走るという行為自体は好きじゃないが、走ることは嫌いじゃない。走っている間、普段は考えないようなことを思い付いたりしたり、走って大量の汗をかいた後にシャワーを浴びることはそれほど嫌いではなかった。


 私が定期的に、ランニングをするという習慣を持ち始めて、もう随分と時が経つ。

 私は、走ることが大嫌いだった。   

 ただ走るだけの苦しい行為になんの意味があるのかと本気で疑問に思っていた。


 今から話すのは、走るのが大嫌いだった私がどうしてランニングなんかをするようになったかという話だ。



「世界はとっても広いんだよ」

 口癖のようにそんなことを言っていたアイツの顔も、今ではよく思い出せない。

「走ると世界が広がるんだよ」

 にこやかにそう言って、アイツはいつもバカみたいに走り回っていた気がする。


 ドがつくほどの田舎に住んでいた私の周りには、同年代の遊び相手がいなかった。

 だから私は一人で遊ぶことに何の疑問も持っていなかったし、近所のおじさんおばさんのよく分からない話を笑顔で聞き流すということに慣れてしまっていた。


 しかし、小学四年生になった最初の夏休みに、私は自分と同じ歳のアイツに出会った。

 アイツは祖父母の家がこの近くにあって、夏休みの間はこちらで生活することになったのだと言っていた。


 アイツはよく笑うやつで、いつも私を圧倒した。都会の学校に通っていたアイツの話は、おじさんおばさんのつまらない話よりずっと興味深かったことをよく覚えている。

「世界はとっても広いんだよ」

 アイツは手を広げて笑った。

「走ると世界が広がるんだよ」

 そう言って私の手を引き、田舎の畦道をひたすら走り回るアイツの背中だけは、今でも鮮明に思い出せる。

 私は走ることが嫌いだと言っているのに、それに構わずアイツは私を振り回した。人の話を聞かず、元気しか取り柄のないアイツのことが苦手だったというのは間違いない。

 ただ、アイツと一緒にいると新しい事を沢山知る事ができたのは確かで、だから私はアイツの側を無理に離れることはしなかったのだと思う。

 

 夏休みが終わるとアイツは都会に帰って行き、また私は一人になった。

 でも次の年の夏休みにはアイツは同じように私の元へやって来て、また私を連れ回して走るのだった。


 そんなことを何年か繰り返して、そして中学三年生の夏休み、アイツは私の元にやって来なかった。

 アイツの祖父母の家を訪ねてみると、高校受験をするための勉強があるから、こっちには来れないということらしかった。

 

 その時はああそうなのかとただ思い、寂しさを感じる自分を意外に思いながら、家に帰った。

 今年が忙しいなら、来年は会えるだろうと思ったのだ。

 そして翌年の春、高校に進学することに決めた私は田舎の実家を出て、都会暮らしをすることになった。私の地元には、高校がなかったからだ。

 私は都会での新しい暮らしに戸惑いつつも、何人かの友人を作って、それなりに上手くやれていたと思う。

 今までずっと一人だった私が慣れない都会で上手くやる事ができたのは、きっとアイツのお陰だったのだろうと今になって思う。


 高校一年生の夏休み、私はまたドがつくほどの田舎に帰省した。 

 アイツとは、会えなかった。

 聞いた話では、アイツは「世界をもっと知りたい」と宣言して、親に無理を言って海外に留学することにしたらしい。

 アイツと二人きりで会っていた頃には、比較する対象がなかったので気付かなかったが、アイツは相当におかしな奴だった。それが都会に出てようやく分かったのだ。

 だからアイツが海外に留学したという話を聞いても、それほど驚かなかった。

 代わりに、その年の夏にはアイツから私宛に手紙が届いた。私の元に直接届いたのではなく、アイツの祖母が、私に渡してくれた。


『また一緒に走ろうね』


 たったそれだけの手紙だった。本当におかしな奴だったのだ、アイツは。


 それ以降、私はアイツと会っていない。

 私は高校を卒業した後、専門学校に進学して、とある資格を取るため日々勉強をしている。

 去年の夏、実家に帰った時アイツの祖父母の家に行ってみたが、祖母の方が重い病気を患ってしまい、都会の病院に通うために引っ越したらしく、会うことはできなかった。

 連絡を取ろうと思えば取れたのだが、そんな大変な状況の時に、ほとんど関わりのなかった私が連絡するのは気が引けた。そこまで強いこだわりがなかったというのも大きい。


 だから結局、今アイツがどこで何をしているのかというのは分からない。あれほどおかしな奴だから、きっと私には想像もつかないことをしているのだろうと思う。もしかしたらもう二度と会うことは無いのかもしれない。


 ただ、アイツのことは今でも定期的に思い出す。

 いつも笑顔で強引で、「世界は広い」と、「走ると世界は広がる」と、口癖のように言っていたアイツのことを。

 その度に私はてきとうなジャージに着替えて、安物の運動靴を履いて、ランニングをするのだ。


 なぜアイツのことを思い出すと走りたくなるのか。それはたぶん、心のどこかでアイツに憧れて、アイツを尊敬しているからだろう。

 私と違うものを持っている、アイツという人間のことを。


 走るという行為自体は好きじゃないが、走ることは嫌いじゃない。走っている間、普段は考えないようなことを思い付いたりしたり、走って大量の汗をかいた後にシャワーを浴びたりすることは、少し楽しい。

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走る 青井かいか @aoshitake

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