第三章-1

 砂浜を走りだしてまもなく、河口に出た。世ノ河と海の境目だ。世ノ河を背にすると、どこまでも続く海があり、遥か遠くに空と海の境界がある。

「リエ。乗れ」

「う、うん」

 リエは海に背を向けた。すると今度は、対岸が見えない世ノ河、眩い玉砂利の河原、そしてリエの目的地である、始原の山脈がある。山頂は雲に覆われ、全然見えない。

(今からあそこに向かうんだ)

 リエはごくりと息を飲む。

「リエ、ぼんやりしていないで早く乗れ」

「リエちゃん、日が暮れちゃうよ」

 ヒナリはすでにソラの背中に乗っていた。リエに向かって手を振っている。リエはヒナリの後ろに乗った。

 ソラは走りだす。玉砂利を踏みしめ、疾風のように駆ける。方向はもちろん上流だ。

「わー! はやーい!」

 ヒナリは満面の笑みで叫ぶ。リエにそんな余裕はない。風に飛ばされないよう全力で背中に捕まっている。花嫁衣装の裾がバタバタと翻り、とてもうるさい。

(ヒナリは楽しそうでいいなあ。この花嫁の衣、脱ぎすてたい)

 リエが歯を食いしばって風圧に耐えていると、

「あ、人間だ!」

 ヒナリが河を見て指差す。リエは目だけを動かし、人を探した。前の道も右の草原にもいない。左の河を見てみる。

 いた。はためく裾に邪魔されて見にくいが、水面に舟が何艘も浮いている。周りには縄のようなものが張り巡らされている。

「あれ、何してるの?」

「ノリか貝を育てているんだろう」

 ソラが言った。

「へえー……」

 ヒナリは興味津々で舟を見ている。リエも風に邪魔されながら、川面に目をやる。

(バア様のおむすびに巻いてあったノリ、ここでとってるのかな?)

 更にしばらく進むと、

「あそこに人影が見えるよ」

 再び、ヒナリが誰かを見つけた。河原の端を、大きな荷物を背負った人が歩いている。その人はリエの視線に気づいたのか、振り返って大きく手を振った。

「すみませーん! とまってくだーい!」

「ほっとくぞ」

 ソラは足を止めようとしない。

「えー、そんなあ。とまってみようよ。せっかく呼んでるんだよ?」

 ヒナリは唇を尖らせる。

「あのなあ、あいつは──」

「色々いいもの売ってますよー! おいしい食べ物、可愛い衣、欲しくはないですかー?」

「ソラ! 私、衣が欲しい! これ、動きにくいよ」

 リエは食い気味に叫んだ。

「何だって?」

「リエちゃんのその格好、だいぶ動きにくそうだもんね。それにほら、旅をするなら食べ物だっているよ」

「……はあ、分かった」

 ソラは足をとめた。ほっかむりをした、笑顔が眩しい男だ。背中の荷物を下ろすと、瞬く間に地面に広げた。

「ほらほら、いかがです。こちらは食べるだけで千里を走る丸薬、一口で満腹になる強飯。こちらは東にある町の姫様が着ていた衣でございますよ!」

「本当か? 嘘じゃないだろうな?」

 男にぬっと顔を近づけるソラ。鋭い眼光が彼を見つめる。彼の頬を冷や汗が伝う。

「ま、まあ、どんな丸薬も貴方の足の速さには勝てませんね。ですが、とても甘くて美味しいですよ。強飯も空腹の心強い味方になりますよ!」

 リエは白地に赤い花の模様がはいった衣に釘付けになった。思わず手にとる。

「ああ嬢ちゃん、お目が高い。とても似合いますよ。今なら九百玉です」

「キュウヒャクギョク?」

「ええ!」

 彼は笑顔で手を差しだす。リエはきょとんとする。

「えっと、キュウヒャクギョクって?」

「お金ですよ。持ってないんですか?」

「オカネ? 何それ」

 男ははーっとため息をつく。

「お嬢さん、とんだ箱入り娘ですねえ。ほら、これですよ」

 そう言って、懐から灰色の丸い玉を取り出した。小指の爪くらいの大きさで、何か模様が彫ってある。

「これがお金です。これを使って物を買ったり売ったりするんです。お金が無いってんなら、代わりになるものをくださいな」

「これじゃだめ?」

 リエは着ている花嫁衣装を指した。

「それじゃあ足りないですね。汚れているし、所々擦りきれていますし」

「私、そのお金と似たようなものなら持ってるよ」

 ヒナリは背中のかごから小さな箱を取りだし、蓋を開け、彼に見せる。途端、彼は目を見開いた。開きすぎて目玉がこぼれ落ちそうだ。

「な、これ、真珠ですか! この白い玉は……うん、本物だ!」

「うん。これで買えない?」

 ヒナリは彼の手に箱を乗せた。彼は熱い炭を落とされたかのように飛びあがる。

「わあ、こ、こんな」

「足りないかな?」

「いえ! これで大丈夫です! ほらほら、全部持っていきなされ!」

 彼は背後に置いていた背負子から、残りの荷物を出して広げた。干物、果物、水筒、短刀、ズダ袋、弓矢、色とりどりの着物。

(どうやってこんな大荷物を背負ってるんだろう)

 リエは不思議に思いながら、先程目についた花模様の衣を手に取る。

「ああ、お目が高いですね。きっとよくお似合いですよ。是非着てみてください」

 リエは茂みの影で、早速着替える。新しい衣は、リエの身体にぴったりの大きさだ。

「わあ、可愛い!」

「いいですね。お似合いですよ!」

 ヒナリと男が褒める。リエは照れ笑いを浮かべた。

 それから二人はヒナリのかごとズダ袋に強飯や干物、丸薬と果物を入れた。小さな鍋や水筒、小刀も忘れない。

「身を守る道具もどうです? この弓矢とか、使いやすいですよ」

 彼が見せたそれは、弓に板を組み合わせたような、不思議な形をしている。

「これは力の弱いひとでも扱えるように改造された、からくり仕掛けの弓矢です。こうしてですね──」

 彼は先端についた、鉄の棒を踏んで弦を張る。板の溝に矢を置く。矢の先を遠くの木に向け、引き金を引く。矢は真っ直ぐ飛んでいき、幹に刺さった。

「どうです? 試しうちみてください」

 リエは男に手取り足取り教えてもらいながら、試射した。確かにリエでも簡単に使える。

「これ、もらいます」

 弓矢を袋に入れた。

 もろもろの準備を終え、リエとヒナリはズダ袋を背負ってソラの背に乗る。

「世話になったな」

 ソラが言った。すると、男は「あのう」と手を合わせる。

「私も乗せてくれませんかね?」

「はあ? 勘弁してくれ」

 ソラは男に背を向ける。

「そう言わずに! この先の里まででいいんです。ほら、これもお渡しします。念じると短い時間、なりたいものに何でも変身できる葉っぱです」

 そうして差し出されたものは、三枚の枯れ葉だった。誰がどこをどう見ても、ただの枯れ葉だ。

「そんな顔しないでくださいよ、みなさん! 私は誠実な商売人ですからね。見た目は枯葉ですが、本当に変身できるんです! ですからお願いです、乗せてくださいよぉ。荷物は多いし、里までまだまだ遠くて遠くて。お願いします!」

 半べそをかきながら、ソラの背中にしがみつく男。

「ねえ、ソラ。乗せてあげてもいいんじゃない? 里までって言ってるんだし」

 リエが言った。

「……仕方ないな。乗れ。妙な真似をするんじゃねえぞ」

「はい! ありがとうございます!」

 彼が乗ると、ソラは走りだす。三人と大荷物が背中に乗っているが、ソラの足取りは全く落ちない。風のように速い。

「おお、速いですねえ。こりゃあいい。私と手を組みませんか? 人間相手に商売したら、きっと儲かりますよ。里から里へ、荷物や人を運ぶんです」

「置いていくぞ」

「いやですねえ、冗談ですよ」

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