第一章-4
狼が森にやってきて、ひと月と半分が経った。
「いよいよ明日だよ」
リエの笑顔が揺れる水面に映る。この間に季節は移り、水は随分冷たくなった。もう泳げない。
「そうか」
狼はいつもに増して無愛想だ。しかしリエは気づかず、声を弾ませる。
「うん。オボロ様ってどんな見た目してるんだろう。楽しみだなあ。優しいひとだといいなあ」
浮かれてくるくると回るリエ。二つ結びの髪も宙に舞う。狼は髪の動きを無表情で見ていたが、やがて彼女の頭の中へ話しかける。
「リエ。まだ名前を教えてなかったな」
「え? そうだね」
「俺はソラだ。もし、この先助けが必要になったら、俺の名前を呼べ。助けてやる」
「名前、無いって言ってなかった?」
「実はある。傷を治してくれた礼だ。とにかく、少しでも危険だと思ったら、迷わず呼べよ」
「うん、分かった」
遠くでリエ、と名前を呼ぶ声が聞こえた。バア様の声だ。
「もう時間だね。明日の準備をしなきゃ」
リエは走りだす。しかし途中で振り返り、ソラに向かって再び笑いかけた。
「じゃあね、ソラ!」
「ああ、またな」
ソラはリエの姿が見えなくなるまで見送った。それから茂みと茂みの間に飛びこんだかと思うと、彼の姿は一瞬にしてかき消えた。
リエは森の入り口まで戻っていると、途中でバア様と鉢合わせした。
「リエ、ここにいたのかい。早く帰ろうかね」
「うん」
手を繋いで、小屋への道を歩きだす。しかし、バア様はすぐに立ち止まり、道端の草を指差す。
「リエ、血止め草だよ」
「うん」
それから数歩歩き、また足を止める。
「リエ、白雲草だ」
「うん」
「日光花もある」
「バア様、早く帰ろうよ。明日に備えて、早く寝なきゃ」
バア様はリエを見た。それはそれは、不思議な表情だ。喜びでも怒りでもない。全然意味が分からず、リエは首を傾げる。
「どうしたの、バア様」
「……何でもないよ。行こうか」
二人は家に着いた。中に入ると、とても香ばしい香りがする。リエのお腹はぐうと鳴る。
家の戸の前には焚き火がある。焚き火の周りには魚の串焼きが並んでいる。
「今日は良い魚をもらったんだ。一緒に食べようか」
リエは目を輝かせた。
「うん!」
「もう焼けてるね。さっそく一本食べようか」
バア様が串を一本、地面から引き抜き、リエに渡す。リエは思いっきりかぶりついた。パリパリ、と皮が音を立てる。ほのかな塩気と皮の苦味が口の中で広がり、魚の身がほろほろと崩れていく。
「おむすびもあるよ」
バア様は笹包みを広げた。そこには真っ白なおむすびが三つ並んでいた。
「あれ、米粒が茶色じゃないよ」
「白米だよ。特別な時にだけ食べるんだ」
「へえ、そうなんだ。いただきます!」
初めて食べる白米のおむすびは噛みしめると柔らかく、とても甘い。ほっぺたが落ちるほど美味しい。
どんどん焼き魚とおむすびを食べていくリエ。だが、バア様が全く食べていないことに気づいた。
「バア様は食べないの?」
バア様は微笑んだ。
「ここに来る前に食べたからいらないよ。たんとお食べ。リエのためのご飯だから」
「いいの? ありがとう、バア様」
リエは一粒残さず食べた。
夕食の後は寝る時間だ。二人は小屋の中に入った。ろうそくに息を吹きかけて消し、リエはゴザの上に寝転がる。すると、バア様も隣に横になった。
「バア様、どうしたの?」
「今日はリエの横で寝ようと思ってね。最後の夜だから」
そう言って、バア様はシワだらけの手でリエの頭を撫でた。
リエは目が冴えてしまった。もうこの小屋で過ごすのも最後なのだ。リエは目だけを動かして小屋の中を見た。月の光が部屋の中を青白く照らしている。天井のシミは小さい頃、お化けに見えて怖かった。しかし今は全然怖くない。
壁の棚には壺や小箱ばかり。中身は全て空だ。昨日、全て塀の外の人たちに渡したのである。
(薬、使ってくれてるかな。病が治るといいな)
そんなことを考えていると、不意にバア様が言った。
「リエ。ごめんよ。本当にごめんよ」
意味が分からず、リエは老婆を見た。バア様の顔は影になっていて分からない。
「どうしたの? 何がごめんなの?」
「……おやすみ、リエ」
それきり、バア様は何も言わなくなった。戸惑うリエの心も次第に落ち着き、やがて眠りについた。
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