第一章-3
次の日。リエは、薬を持って、再び滝壺へ向かった。一晩眠ったおかげで、怒りもすっかり消えていた。
狼は昨日と同じ場所で横になっていた。
「おはよう。怪我はどう?」
「昨日より良くなった」
狼の声も、心なしか、昨日より元気そうだ。
リエは包帯を取り替えた。傷口は小さくなっている。
「はい、干し肉だよ」
口を開けた狼に干し肉を放りこむ。
「どう? おいしい?」
「ああ」
「ねえ、そういえば名前、聞いてなかったね。あなたは何て言うの? 私はリエって言うんだよ」
「俺の名前? どうでもいいだろ」
「じゃあ何て呼べばいいの?」
「……俺に名前なんか無い。適当に呼べ」
「ええ? じゃあ、なんて呼ぼうかな」
うーんと首を傾げて考えるが、リエには何も思いうかばない。
木々の隙間から、日光がさす。辺りがどんどん蒸し暑くなる。
(まあ、なんでもいいか。水の中に入ろっと)
リエはぴょんと立ちあがった。バシャバシャと音を立てて滝壺に入っていく。
まずは軽く足をバタつかせて前に泳ぐ。岸までたどり着いたら、ぐるりと水の中で一回転して反対側へ泳ぐ。それを何度か繰り返し、水の冷たさに慣れた頃、いよいよ潜る。下へ下へ、滝壺の底へ。
底は、暗く、冷たく、とても静かだ。リエは隣にオボロ様がいる様子を想像した。藍色の水の中に、金色に光る大きな魚。その周りには、昔の流し神子が、楽しそうに泳いでいる……。
息が苦しくなり、リエは浮上した。水面に顔を出すと、狼と目があった。
「お前、何をしてるんだ? 魚でもとるのか?」
「ううん、オボロ様がいるところって、どんなところなのかなーって、想像してたの」
「だからってどうして水の中に潜る? 冷たいだけだろ、そんなの」
「オボロ様は魚だから、水の中に住んでるでしょ? どんな所か、ちゃんと知っておきたいんだよ」
リエは屈託なく笑った。
「水底には良くないものが住むと言うが」
「え? そんなことないよ」
「ある。水の底というのは、色々溜まりやすいんだ。今からでも遅くない。考え直せ。死ぬぞ」
「嫌だよ。私、流し神子だよ。行かないといけないもん」
そう言って、リエはまた水に潜っていった。
数日経った。狼の傷は次第に癒え、やがて歩けるようになった。
「でかい壁だな」
歩く練習も兼ねて、リエと一緒に森を散歩した狼は、石壁を見てそう言った。
壁は、森を歩いていると突然現れる。リエの何倍もの高さがあり、上には槍のようなものがついている。容易に乗り越えられる高さではない。壁はゆるやかな弧を描いて左右へのびていて、終わりは見えない。
「そうだよ。流し神子は壁の向こうに出ちゃいけないからね。そういえば、あなたはどうやってここに入ってきたの? まさか、飛び越えて来たとか?」
「俺? 霊道を通ってきたんだ」
レイドウ。聞いたことがない言葉だ。
「レイドウって何?」
「精霊が作った特別な道だ」
「精霊が作った? そんなの、どこにもないよ?」
狼は鼻先で茂みを指す。
「そこにある」
リエは目を凝らす。青々と茂る葉、その周りを飛ぶ虫、ふかふかしていそうな土。
「道なんか無いよ」
「人間には見えないのか? じゃあ連れていってやる。背中に乗れ」
「え? 怪我、大丈夫?」
「大丈夫だ。それに霊道を通るのも練習のうちだ。とにかく乗れ」
背中を低くする狼。リエはそろそろと背中に乗った。乗ってみると毛がゴワゴワで、足にチクチク刺さる。
狼はゆっくりと茂みへ入っていく。枝葉が顔に当たり、痛い、とリエが思ったその瞬間──、淡い緑色の光の中にいた。
上を向いても左右を向いても下を向いても薄緑の世界。蛍のような光が無数に飛んでいる。光の中を、金色の帯みたいなものが縦横無尽に走っている。
「ここが精霊の世界だ。たくさんの光が見えるだろう? それは精霊だ。この辺は世ノ河や森があるから、数が多いな。それで、足元にあるこれが霊道だ。精霊が作る道だ」
狼の足元にも金色の帯がある。帯はうねうねと遠くまで続いている。
「すごい。私も歩いてみていい?」
「ああ」
リエは狼の背から滑りおりた。見た目より、霊道は固い。かかとで叩くと石を叩いた時と同じ音がする。
リエと狼はとことこと道を歩きだした。
「道の外はどうなってるの?」
「絶対に踏みだすなよ。どうなるか分からんからな。下手すると精霊のおもちゃにされて、二度と帰れなくなる」
「分かった」
歩いていると、一際強い光が見えてきた。
「出口だ。表に出られるぞ。行ってみるか?」
「うん!」
狼は出口に飛びこんだ。リエも「えいや!」と声をあげて飛びこむ。すると、今度は開けた場所に出た。
濃い水と泥の臭いがする。足元は細かい砂利で、少し濡れている。少し先には何やらよく分からぬ、眩く光る物が延々と遠くまで広がっている。
「ここはどこ?」
「世ノ河のほとりだ」
「世ノ河? ここが?」
「ああ。ほら、目の前に見えるだろ。見えないはずはない」
「これが……」
リエは光る地面に駆け寄った。近くで見ると、確かにそれは水だった。
「これが、世ノ河……」
森の小川なんて比べ物にならない、竜のような大河だ。対岸が霞んで見える。水は深い青色と淡い青色がいり混じり、時折、日の光を受けて銀色に光る。右を向いても左を向いても水しかない。
リエは歓声をあげ、河に入る。バシャバシャと騒がしい水音がたつ。
「遠くへ行くなよ。溺れるからな」
「溺れないよ。私、泳げるもん!」
「水底には色々いるって話しただろ。奴らに足を引っ張られたら終わりだ。俺は泳げないから助けられん。だから、足がつかない場所に行くな」
「はいはーい」
リエは言いつけを守りつつ、川で遊んだ。足で水を蹴ったり、すべすべした丸い石を川底から取って日の当たる場所に並べたり。狼は、河原で寝そべりながら、その様子を眺めていた。
水遊びは日暮れまで続いた。狼は疲れたリエを背負って帰った。森に到着した後、リエは茂みの中を探したが、霊道は見つけられなかった。
「全然分からない……」
「また明日も連れていってやるから、もう帰って寝ろ」
狼はその約束を守った。次の日も、その次の日も、リエは毎日外へ遊びに行った。世ノ河の他にも、景色が一望できる丘の上や、花がたくさん咲いた原っぱなど、知らない場所へどんどん行った。
「……あ」
水辺の花畑で、リエは人を見た。リエと同じくらいの歳の子どもが四人と、バア様と同じ、真っ白な髪の老女が一人。
リエはすぐに岩の影に隠れた。幸い、子どもはリエの方に近づいてこない。花を摘んでは、老女に持っていく。
「バアちゃん、これはどう?」
子ども達の声が聞こえてくる。老女は何か言ったが、リエには聞き取れない。
老女は手を動かすと、やがて花の輪っかを作った。それを子どもの頭に乗せる。一つ、二つ、三つ、四つ。子どもは歓声をあげ、はしゃぎ回る。
狼がリエの背後にやって来た。
「どうした? 遊びに行かないのか?」
「行かない。外に出ていることがバレたら、ものすごく怒られる」
子ども達と老婆が花畑から去ると、リエは岩影から出てきた。花をつみ、束ね、輪っかにする。それを、狼の頭に乗せた。頭の上で、輪っかはバラバラになった。
「これは何だ?」
「花の輪っか」
「……ああ、そりゃどうも」
少しも喜んでいる感じではなかったが、狼は落とさないよう気をつけて歩き、森に帰るまで一本たりとも、頭から落とさなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます