第一章-2
リエは眠る狼の前に座り、じっと様子をうかがう。彼女の傍には、干し肉が置いてある。バア様が用意したものだ。再び狼が目覚めたら、これを捧げるように、とリエはバア様に言われていた。
日が傾いた頃、狼は目を覚ました。大きなあくびをする。
「あ、目が覚めましたか?」
リエは辿々しい敬語を使った。見知らぬ人間や目上の者には、敬語を使うよう、リエはバア様から習っていた。しかし、使うのはこれが初めてだ。
「え? ああ」
「傷は痛みますか? お腹はすきました? お肉がありますよ」
リエは笑みを浮かべる。
「……何でそんなに丁寧に世話してくれるんだ?」
「何でって、貴方、怪我してるし、霊獣なんですよね?」
「レイジュウ? 何だそりゃ」
「オボロ様の遣いなんでしょう?」
「全然違う」
狼は即座に言った。
「違うんですか?」
「ああ。神の遣いでも何でもねえ。ただの喋る狼さ。その気持ち悪い話し方もやめろ」
「なあんだ」
ふうー、と息をはくリエ。露骨につまらない、という顔になる。
「てっきり、もう迎えに来たのかと思ったよ。まだ十になるまで二十日くらいあるのに」
「迎えに来た? お前、どこかに行くのか?」
「そうだよ」
リエは自分の両手をすっと獣の前にさしだした。
両手首に真っ黒な縄目模様のアザが、くっきりと浮かんでいる。
「見て。これは流し神子の印なんだ。歳が十になったらね、オボロ様の元に行くんだよ」
「何だって? 流し神子?」
リエは彼が知らないことに驚いた。しかし、
(狼だから、流し神子のことを知らないんだ)
と、すぐに納得する。
「昔ね、このに石化病ってのが流行ったんだよ」
バア様から恐ろしい声で繰り返し聞かされた話を、リエは狼に語りはじめる。
「石化病は、文字通り身体が石になって死んでしまう病なんだ。指先や足先が灰色になったと思ったら、あっという間に頭のてっぺんまで硬くなってバタッと死んでしまうんだって」
リエがバア様に見せられた絵巻物には、灰色になった人間の姿が描かれていた。みんな、苦しそうな顔をしていた。
「あちこちから薬師や呪術師が来たけど、誰も治せなくて、あっという間にどんどん人が死んでいったんだ。でもね、ある夜、里長さんの夢に金色の魚が現れたの」
「魚?」
「魚はオボロって名乗ったんだって。オボロ様は里長さんに『十年に一度、十歳になる子どもを世ノ河に流して私に捧げるなら、病を治してやる』っておっしゃったの。里長さんがそうするって言ったら、次の日にみんな病気が治ったんだって。そして、アザを持った子どもが生まれたんだよ」
リエは手首のアザをもう一度見せつける。
「その子は十になると約束どおり、舟に乗ってオボロ様の元に行ったんだって。するとまたアザ持ちの子が生まれたの。それからずっと、選ばれた子どもは十になったらオボロ様の元へ行く。私ももうすぐなんだ」
狼は、フンと鼻で笑った。
「お前ら、騙されてるぞ」
「騙されてる?」
「ああ。その黒いアザからは常闇の臭いがする。絶対に行くな」
「トコヤミ? 何それ」
「常闇は危険な化物が住んでる世界だ。そのオボロという奴は、お前を騙そうとしている、関わってはいけない、邪悪な化け物だ」
「邪悪な化け物? そんなことないよ。石化病を治してくれた、すごい神様だよ」
「その神様は、人々の命と引き換えに、お前を差しだせと言ってるんだぞ」
リエはきょとんとする。
「それがどうしたの?」
「どうしたって、お前──」
狼は言葉に詰まる。
「お前、意味が分かってないのか? 死ぬんだぞ」
「死なないよ。オボロ様のところで、幸せに暮らすんだよ」
「だから、それが死ぬってことだ。誰がお前にそんな嘘を吹きこんだ?」
「バア様は嘘なんかつかないよ」
リエはむっと顔をしかめ、負けじと言いかえす。
「オボロ様に選ばれるっていうのはね、とってもとっても、すごくて、偉いことなんだよ。酷いこと言わないでよ」
「……人間の考えにはついていけん」
狼はまたあくびをすると、そっぽを向く。
「もう寝る。お前も帰れ」
「え?」
狼は目を閉じた。それからリエが何を話しかけても、返事はかえってこない。
(嫌なことばっかり言う狼だな。もう手当なんてしない!)
リエは背負子をかつぐと、大股でドシドシ歩いて、家に帰った。
「ただいまー」
バア様はいない。代わりに出迎えたのは、天井から吊るした薬草や棚に並んだ薬の箱。全てリエが作ったものだ。
流し神子のもう一つの役割は、薬作りである。森に生える薬草を煎じて薬を作り、バア様に渡すのだ。バア様はその薬を病人に渡す。みんな、とても喜んでいると、以前バア様はリエに教えてくれた。
壁には、大きな掛け軸がかかっている。世ノ河の絵だ。
世ノ河は、始原の山脈から始まる。山のふもとに広がる森や、人が住む緑の草原を流れ、やがて海へたどり着く。そこは死者と精霊が住むあの世だ。海の最果てには海の神様が住む竜宮がある。
(オボロ様はここにいらっしゃるのよね)
リエはうっとりと掛け軸を眺める。
『リエ、お前は十になったらオボロ様のところへ行くんだよ。世ノ河を舟で下ってオボロ様のおわす宮殿に行き、そこで幸せに暮らすんだよ』
バア様はいつも繰り返し、リエにそう言った。
『アンタは選ばれた子。とっても可愛がってもらえるよ』
そしてリエの頭を撫でて微笑むのだった。
リエは薬の壺を一つずつ、中身の量を確かめながら棚に戻す。今の所、どれも十分な量がある。出発の日まで追加を作る必要はなさそうだ。
んん、と背中を伸ばした後、ゴザを引いた床にごろんと寝転がる。四角い窓から茜色の空を眺めていると、戸の開く音がした。
「リエ。良い子にしてたかい?」
バア様が家に入ってくる。
「うん! お腹すいた!」
「そうか。ほら、おむすびだよ」
バア様は皿にかかった布を取った。ふわりと良い香りが立ちのぼる。三角形の茶色いおむすびが三つ、ちょこんと皿の上に乗っている。
リエは早速一つめを手に取り、ぱくっと食べる。中に山菜の漬物が入っていて、噛むとコリコリと音がする。
「んー、おいしい!」
そうか、そうか、とバア様は目を細める。
「霊獣様はどうしておられるの?」
「それがね、狼は霊獣じゃないって言ってた。しかも、オボロ様のことを邪悪な化け物とか、私が死ぬとか、嫌なことばっかり言うんだよ!」
リエがぷりぷり怒るのを、バア様は黙って聞いていた。
「それでも、狼は怪我をしているのだろう? ちゃんと手当してあげなさい」
「ええ? 嫌だよ」
「狼は陸の生き物だから、魚の神様のオボロ様が、怖いものに見えるのかもしれないね。許してあげなさい。それで、怪我が治るまで、面倒を見てあげるんだよ。ね?」
リエはむうっと口を尖らせていたが、やがて渋々頷いた。
「分かった」
夕飯を食べ終えると、リエの口から大きなあくびが出た。再びゴザにゴロリと横になれば、瞼がとろんと重くなる。
「おやすみ、リエ」
「……おやすみ、バア様」
リエはすぐに寝息を立てていた。
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