エピローグ
「お嬢さまー、定時なので上がりますねー」
「ん、ごくろーさま」
夕食の片付けを終え、お風呂を沸かすと麻季はクローゼットのある元・自室に向かい、メイド服を脱いでヤンキースタイルに着替えた。
今日の仕事は、終わり。
翌朝、お嬢さまを起こしにくるところからが、明日の仕事だ。
篠の夏休み期間中はいろいろとガマンして(何を、とかは問うてはいけない)一緒に過ごしたが、9月に篠の学校が始まるのを機に、麻季は住み込みから通いに切り替えた。
そこに至るまでにはそれなりに葛藤とかお嬢さまとの決闘とかが無くも無かったりしたのだが、納得してしまえば二人もそれなりには大人なのだから、問題は無いのである。
「…あの、お嬢さま。帰れないんスけど」
「…仕事は終わったんだから、恋人の時間でしょ。だめ?んっ……」
玄関に至る廊下を通せんぼしてた篠の唇を奪ってから、麻季は帰ろうとする。
「…篠?あんまりワガママ言うもんじゃねえってば。あたしも仕事で疲れてんだから。明日起こしにこれなかったら困るだろ?」
「…メイドの麻季もいーけど、こういうワイルドな麻季もいーなー」
「悪趣味だなー、篠はもー…」
まあ、こーいう具合である。
帰りしな、キスの一回で麻季は、「お嬢さまに仕えるメイドの旦椋麻季」から「ちょっとハスっぽいけど優しい女性の旦椋麻季」にスイッチを切り替える。
ちなみに朝はどーなのかというと、篠が寝てるうちにメイド服に着替えた瞬間から、麻季はメイドにスイッチする。帰る時もそーすりゃいいじゃないか、という話に関しては…まあ、篠がいろいろ文句を言ってせがんだから、ということでお察し願いたい。
「それに明日は起こしにこなくてもいーよ。だから泊まっていけば?」
「泊まるのはダメ、って決めただろ?篠は二人で決めたことも守れないコじゃないと思うよ。あと起こしに来なくてもいいって、どういうこと?」
「中等部の見学会があるから高等部はお休み、って言ったじゃない。覚えてないの?」
「…そういえばそうだったかも」
「こら、主の話したことも覚えてないなんて、困ったメイドね。だから、泊まらなくていいから、少しお茶していかない?」
「…しかたねぇな、篠はもう」
と言いつつもお誘いは嬉しい麻季だ。仏頂面で押し通そうとして、口の端がぴくぴくうずいてる。
それを見逃さない篠は、麻季から隠れたところで「してやったり」と忍び笑いをするのだ。
「…あの、篠?……なんで、こうなってる…の?」
「…えーと…なりゆきで?」
成り行きで、篠の寝室のベッドで二人抱き合っている、というのもどうなのか。
一応「まだ」服は着ている。着ているが、いかにも雰囲気は危ういところだ。腕の中の篠がこちらを見上げる潤んだ瞳に、その危うさを最も感じる。
いや待て待て待て、と麻季は頭を振って、何があったのかを思い出す。
そう、ダイニングではなくリビングのソファに並んで腰掛けて、テレビを見ながら篠と麻季は買い置きのクッキーと篠が煎れた紅茶(最近腕前が急上昇中なのである)を楽しんでいたハズだ。
別に会話におかしなところはなかった。マンガじゃあるまいし、篠が一服盛って、麻季を眠らせてここまで運んだわけじゃない。というか、流石に篠にそんな腕力はない、っつーかいくら恋人が相手でも訴えたら勝てる場面だ。いやしかし覚えているのは確か、テレビも終わって話をしてるうち、なんだかこちらを見つめる篠の瞳がうるうるしてきて、隣に座ってるものだから肩もずっと触れてるし、そこがなんだか敏感になったよーな気がして気がついたらプールでの篠の姿態を思い出して頭がポーッとしてきて気がついたら肩を抱いて唇じゃなくて口を重ねて舌がなんか自分の口から出てって…篠の口のなかに、あったっけ?
…そこから先を、覚えてない。
気がついたら、篠のベッドで、こーしてた。
つまるところ、逃げ道はないわけで。
「……ん、まきぃ……」
鼻にかかった声でおねだりをするような仕草には逆らえず、唇より舌を先に突き出すような、欲望が先に立ったキスは篠の口腔を蹂躙してその度に篠は感じたように体を震わせそれがために自分の下腹部も高鳴ってだめもうこれはどめきかないおじょうさましのあたしごめんなさいもうがまんできないしのを………っ。
「わぁっ…?!」
…と、起き上がると、ここ数日で見慣れた部屋だった。
というか、仁麻の部屋の、居間に敷かれた自分用の布団のなかだった。
「………ゆ、夢……かぁ………はぁ」
ぜーぜーと肩で息を吐き、それが収まると大きなため息をし、脈が正常に戻ったことを確認した。
つまり、篠に迫られて歯止めが利かなくなった云々は、そういうことだった、というわけである。
泊まってけー、としつこくいわれはしたが、お茶だけ一緒にして、あとは確かに振り切って仁麻の部屋に戻って来た覚えもある。
「…あー、あぶねー…欲求不満なんかなあ、あたし…」
それはまあ、そうなのかもしれない。
篠は最近全身で、いつでもおっけー!…とアピールしてるのがよく分かるから、無理もないのだ。
けれど、まず何よりもメイドとしての立場をもって任じる麻季は、その誘いにのるわけにはいかない。
メイドとして、お嬢さまを一人前にして送り出してからようやく、人並みの関係になれるのだから、と二人して相談して決めていたからである。もっとも、ほとんどケンカしながらだったが。
「…うーわっ…こりゃ人前に出る前にシャワーでも浴びねーと…」
まだ体にひっかかっていた毛布をはぐり、確認すると呆れるようなことになっていた。間借りしてる身であり得ない話だ。
仁麻は…まだ寝てるのか?それとももう出勤したのか?
どちらにしても、悟られないうちに、と体を起こしたとき、「麻季ちゃぁん…起きたの~…?」といかにも眠たそうな顔と声で、仁麻が部屋に入ってきた。
「お、おお、おはよう。わり、先にシャワー貸してもらえ…」
「う~ん…それはいいんだけどぉ……麻季ちゃぁん?もうすこし、その…ね?」
「…その、何だ?」
「麻季ちゃんもお年頃だから仕方ないとは思うんだけどぉ…えっちな夢みたときにぃ、悩ましい大っきな声で寝言いうくせだけわぁ…やめた方がいいよぉ…?」
そして仁麻は、大あくびをして、居間から出て行った。今日は仕事があるのだろう。寝床ではなく、キッチンに向かっていったようだった。
麻季は、「…こっちも気になって眠れやしないのにぃ…」とかぼやきながら去った仁麻のその背中を見送ると。
「~~~~~~っ、っ!、~~っ!!」
可聴域を上回るような悲鳴を上げながら、我が身の醜態にのたうちまわってみたりした。
「だ───っ、もぉっ!篠がかわいすぎるのが悪いんだなにもかもっ!……ええい、もうこうなったら後のことなんか知ったことか!…今日の晩には、この…」
「まーきちゃん?一応言っておくけど、篠ちゃんまだ十八歳未満だからね?あと同性同士でも条例は適用されるってことは知っておいた方がいーからね?」
「………」
顔をタオルで拭きながら居間の入り口を横切っていく、十五歳未満みたいな外見をしてる仁麻を睨んだ。力なく、だったけれど。
「…ええいくそっ。このモヤモヤした気分どーしろってんだ」
仰向けに布団に寝転がり、麻季は手足を投げ出した姿勢でぼやいた。
パジャマではない。それはまだ篠の部屋から回収してなかったから、黒のタンクトップにやや面積少なめのショーツ一枚、というあんまりな格好である。
メイドにスイッチを切り替えているときは、まだいい。
篠お嬢さまに仕える忠実な使用人、という自分を保っていられるし、その自信もある。
が、退勤時刻になり、メイド服を脱いだ後がどうも…勝手が狂う。こお、篠の心身を共に求めてしまってる自分に歯止めをかける自信の方が怪しくなるのだ。
「……篠もなー、もう少し慎み深ければあたしも大人しく見守ろう、って気になるんだけどな…」
加えて、篠の方も麻季に向ける視線が妙に色っぽかったり、仕草に麻季を意識したものがあからさまにあったりと、涙ながらに互いを求めてしまったあの日以降、エスカレートする切っ掛けには事欠かない日が続いている。
なんというか、自制を要求される分給金を割り増しにして欲しいくらいだった…いや、篠が聞いたら、給金増やすくらいなら襲ってもいーわよ、いえむしろ…抱いて?…くらいは言いそうなのだけれど。
「…あー!あー!あーっ!……もうガマンなんねーしやっぱりいっそのこと…」
「東京都青少年健全育成条例だいじゅうはちじょーのろくー」
「うぐぅ…」
顔を洗ってきたと思しき仁麻が、自分の想像で身悶えしてる麻季を、キモいものを見る目で見てた。ちなみに化粧はまだだったのでスッピンなのだが、とても二十五とは思えない肌である。
まあ麻季はまだそれを羨むような歳ではないけれど、それでもインコー呼ばわりされるのが面白くなくて、つい叩かなくてもいい憎まれ口を叩いてしまう。
「くそー…自分だって条例にひっかかりそうなナリしてるくせに…」
「…っ?!」
そうしたら予想外にクリティカルヒットしまったらしく、仁麻はワナワナと震えて握っていたフェイスタオルを取り落とし、覚束無い足取りで麻季の側までやってくると、タンクトップの肩紐を握って麻季の首を前後に揺らし、慟哭したのだった。
「悪かったわねっ!どーせこの見てくれだから男どもはわたしに言い寄ったら変態扱いされると思ってこの歳まで独り身ですよっ!いい麻季ちゃんっ?!職場でわたしが何て呼ばれてるか知ってるっ?!」
「…な、なんて?」
「………ロリコンホイホイよっ!わたしにコナかけるよーなのは男として終わってる、犯罪予備軍のロリコン野郎らしーのよっ!ひどくないっ?!ひどいと思うでしょっ?!」
麻季はその剣幕に圧倒されて、コクコク頷くしか出来なかった。
とはいえ、ロリコンホイホイ、とは言い得て妙だ。ほいほい近付いて迂闊なおイタをしたら腕の二本や三本簡単に折られそーなところまで一緒なのだし。
「…今なんか失礼なこと考えたでしょ?」
「とんでもねー。上手いこと言うなー、と称賛の念しか…」
「ま~き~ちゃ~ん~?」
「……っ?!…に、ニオ姉電話っ、あたし電話かかってきてるからっ!」
実はちょうど休日の起床時間に設定したアラームが鳴ったところだったのだが、この際それで誤魔化そうとして。
「…あれ?ほんとに電話だ。もしもしー?」
「麻季ちゃん?いま『ほんとに電話だ』とか言わなかった?」
「言ってない。篠だからまた後でなー。もしもし篠?おはよ…」
『麻季ぃ………おはよーじゃないの……』
「……どしました?」
電話の向こうの声が、恋い焦がれる年上の恋人に対するものでなく、メイドに助けを求めるお嬢さまのものだったので、麻季は瞬時にスイッチを切り替える。
仁麻はまだ何か言いたそうだったが、麻季はともかく篠に含むところはなかったので、大人しく引き下がって着替えのために立ち上がっていった。
それを見送ると、麻季は本格的にお嬢さまの心配に、取りかかる。
『あのね、麻季は今日遅くなるでしょ?だから、朝ごはん作ってあげようとして…』
「…あー、それは頑張りましたね、お嬢さま。で、何を焦がしました?卵?パン?トースターやフライパン溶かしたんでなければ別に怒ったりはしませんよ」
最近篠は、麻季がいないところでも家事をやろうと頑張り始めている。だから、その成長を言祝ぐつもりで優しく諭したのだったが。
『……ごめんなさい』
「?!…あのお嬢さま?火傷してたりしてませんよねっ?!お部屋は火事になったりしてませんよね?!消火器の場所は覚えて…いえそんなのいいから早く逃げ出して一一九番に…」
『だ、大丈夫だから。そこまではなってないからっ!…その、卵が炭になって、フライパンをダメにしたくらいだから…』
「ああ、そういうことですか……いーですよ、お嬢さま。それくらいで怒ったりはしませんから。フライパンは水に浸けといてください。あとで洗っておき…」
『あとね、あとね。卵かき混ぜようとしたら、杓文字が半分になっちゃったの。これどういうこと?』
「…は?どういうって……あ」
卵を、フライパンで混ぜようとして、杓文字を使った…?
「……あの、お嬢さま?その杓文字って、炊飯器に突っ込んである白いヤツですか?」
『そうだけど?ダメだったの?』
「………あー、まあその、お嬢さまに今必要なのは、炊事の能力じゃなくて、プラスチックは熱に弱い、という常識の方みたいっすね……
『?』
意味が分からず、きっち向こうで可愛く首を傾げているだろう篠の姿を想像しながら、麻季は電話を切った。
さて、これでフライパン一枚は完全にダメになった。買ってから行った方がいいか、それとも今日の買い物としてお嬢さまと一緒に出かけてもいいか。
どちらにしても、今日の仕事の段取りは決まりつつある。
お嬢さまのお世話をして、その成長を見守って、そしてそれから。
「ん!……ん─────っ、っとぉ。さて、あたしも着替えて仕事に行くかね」
大切なお嬢さま/愛しい恋人の元へ。それは麻季の見つけた、大事な場所なのだから。
「…麻季ちゃん?良いこと言ってる風だけど、そのどーしよーもなくなってるぱんつは履き替えてからの方がいーわよ?」
「うるせえよバカ知ってるよ!」
…まあ、いろいろと苦労はありそうだけれど。
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