03 低気圧と醤油

「うあー」


 ナギは唸った。

 畳に寝転がり、倦怠感に悶える。


「体調、悪いの?」


「うあー」


「そうなんだ」


 ヒダリは窓の外を眺めていた。

 雨は今日も続いていた。

 3日ほど降り続く雨は、湿気や冷気だけでなく、別のものも引き起こす。

 ナギが襲われているのはそれだった。


「雨、いつまで降るんだろう」


「うあー」


「雨が上がったら、どこかに行きたいね」


「うあー」


「釣りに使う道具ってなんだっけ」


「るあー」


「敵が倒された時の悲鳴」


「ぐあー」


「カラスの鳴き声」


「あたしで遊ぶな」


 ごめんごめん、と微笑むヒダリ。

 ナギと違い、彼女は低気圧の中でも変わらない。

 気圧の変化を受けない人間がこの世にいることに、ナギは羨ましく、恨めしく、恐ろしく思った。


「ご飯、作ろうか?」


「あんた、作れんの」


 出会って数ヶ月、ヒダリが料理をしたことは一度もない。


「カップ麺ぐらいなら」


「はは、うまいうまい」


「まだ作ってないけど」


「なんでもいいわ」


 ヒダリが冷蔵庫を開ける。

 がさごそ、と探る音。


「パンがあったよ」


「色は」


「青白い。珍しいパンだね?」


「カビでしょうが」


 パンは冷蔵庫に保存してはならないのである。


「あとは、なにもないや」


「あるある、くまなく探せ」


「醤油がある」


「飲めと?」


「塩分が効くかもしれない」


「高血圧で死ぬ」


「戦争に行かなくて済むし」


「あたしはマスオさんかい?」


 ヒダリが戻ってくると、食卓に醤油が置かれた。


「マジじゃん……」


「舐めるだけでも」


 ヒダリがボトルの蓋を開けた。マジじゃん。


「うあー、うああー」


「ほら、少しだけでも」


 こぽ、とボトルの底が鳴る。

 拒否しようにも、こぼれると心底だるいのが醤油である。

 ナギは観念して口を開いた。

 黒々しい液体が一滴だけ落ちてくる。

 ぱちん、と蓋の閉まる音。

 ヒダリは意外と器用だった。


「どう?」


「どう、とは……?」


「効き目が薄いね。薄口だから?」


「関係ないでしょ」


「でも、おいしいね」


 自分でも醤油を舐め始める始末。

 佐野ヒダリはどこまでも自由だった。


「調子、戻ってきた?」


「いえ、ぜんぜん……」


「もっといこうか」


「んがああー」


 低気圧の中でも、ヒダリはヒダリだった。

 少しだけ気分が良くなった——そんなことは、まるでない。

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