02 雨と髪
6月の雨が降った。
晴れの日が続いていたので、溜まりに溜まった雨だった。
「寒いね」
ヒダリのホワイトアッシュのロングヘアから、水滴が垂れている。
先ほどナギが大学から帰宅すると、全身ずぶ濡れのヒダリが玄関前にいた。
手に傘を持っているのにもかかわらず、なぜか濡れていた。
理由を聞くと、「雨に濡れたかったから」とのこと。
ナギはため息をつき、しぶしぶ彼女を迎え入れた。
「まったく……受け入れる身にもなってほしいものだわ」
「ごめんね。ちょっとだけ雨に濡れたかったんだ」
全身ずぶ濡れをちょっとと言っていいのだろうか?
「良きことで。歌でも歌ったの?」
「そりゃあもちろん。シング・アンダー・ザ・レインってね」
「おめでたい人」
ヒダリはポケットから文庫本『雨・赤毛』と定期券を食卓に置いた。
どちらも濡れていなかった。
「乾かすから、服かして」
「ありがとう、ナギ」
ヒダリは服を脱いだ。
ナギはそれらを受け取ると、目を丸くした。
白のトレンチコート、白のブラウス、白のスカート、白のソックス、白のブラジャーと、人がまとう衣類の全てだった。つまり、ヒダリはなんのためらいもなく裸になっていた。
「なんとも、白ばっかり」
ツッコミどころを、ナギは忘れてしまった。
「何色にでもなれるから」
「肌も白いし、髪も瞳も白い。内臓も白いんじゃあないの」
「さすがに血管は青いよ」
一糸もまとわないヒダリを、ナギは眺める。
ヒダリはナギと違って身長が低い。ナギと違って垂れ眼。ナギと違って色白。ナギと違って胸が大きい。ナギと違って肉付きが——。
「……あ、んまりじろじろ見ないでよ。さすがに、恥ずかしいな」
「あんたから脱いだくせに」
「服を着たまま服を乾かすことはできないよ」
「そのまま乾燥機の中に入る」
「屁理屈だ」
ヒダリをシャワー室に追い込み、ナギは彼女の衣類をひとつずつ、ドライヤーで乾かしていく。
まず、トレンチコート。襟に【グッチ】の刺繍。
(白のトレンチコートなんて初めて見た)
ブラウス。【ディオール】のロゴマーク。
(うっす……ブラウスだけにってかいやつまらん)
スカート。【コム・デ・ギャルソン】。
(ずっと触ってたい。これ、すべすべ。気持ちよし)
ソックス。【シャネル】。
(謎の素材。厚手なのに伸縮性があり、かつふわふわ。なにこれ?)
ブラジャー。【ラ・ペルラ】。
(デカイ、説明不要)
そうして全ての衣類を乾かし終えた。
畳の上に並べ、ふとナギは思う。
いったいこれらを売れば、いくらになるのだろう?
「あいつには、素っ裸で帰ってもらうか……」
ナギが企てていると、ヒダリが出てきた。
「お先でした」
彼女は身体も拭かずに、畳の上を堂々と歩いてきた。
「あーあーおーッ」
「?」
「拭けッ」
「なにを?」
「身体に決まってんだろッ」
「自分で拭いたことない」
「はぁん……?」
ナギは言葉を失った。
ヒダリはその小柄な身体と等しく、中身も子どもそのものなのだろうか? いや、言葉はちゃんと喋るし、動きも比較的落ち着いている。見た目は大人、頭脳は子ども——なんてことはない、はずだ。
(…………)
ナギは一言を探した。
生への執着と、不可避の死の境界で、かつてなくめまぐるしく働いた脳細胞が導き出したのは、通常であれば選択し得ないものだった。
「とりあえず、ご飯でも食べる?」
「ナギ、落ち着いてみよう」
「落ち着けるかっ」
「へくちんっ。冷えてきた。早く拭いてよぅ」
「んん……があ……」
ナギは折れた。
ヒダリを拭くことにした。
バスタオルを肩にかけ、ミニタオルを頭に被せる。
首を拭く。
肩を拭く。
腕を拭く。
背中を拭く。
胸を拭く。
腹を拭く。
腰を拭く。
尻を拭く。
局部を拭く。
腿を拭く。
膝を拭く。
脚を拭く。
足首を拭く。
足を拭く。
爪先を——。
「なにこれ……?」
「なにが?」
「なんであたし、あんたの身体を拭いてるの?」
「誰もが通る道だよ」
「あなたは赤ちゃんですか?」
「そうだよ。ばぶばぶ」
「可愛くねェ」
そうして全身を拭き終えた。
ヒダリは、服はさすがに自分で着た。
「あ、ナギの匂い」
くるくると回りながらそう言うヒダリ。
「ドライヤーで乾かしただけよ」
「ここから、する」
自分の髪の毛を鼻に当て、深く息を吸うヒダリ。
「やめなさいよ」
「どうして? いい匂いだよ」
「なんか、恥ずかしい」
ナギは自分の髪の毛を嗅いでみる。無臭だった。人の匂いには敏感なはずなのに、自分の匂いにはまるで気付かない——よくあることだ。
「雨、やまないね」
ヒダリは窓際で外を見ていた。
雨の音だけがする。
電気をつけていない室内は薄暗い。
「疲れた……」
ナギは台所に行き、換気扇の下で煙草に火をつけた。
一息つくと、ある事実に気付いた。
佐野ヒダリという存在に対し、絶対的な質量を持った謎。
「ヒダリ、ちょっといいかしら」
灰を空き缶に落とすと同時に、ナギは決意した。
「なに?」
「あんたの服、どれも高級な品物ね」
「そうだよ」
「あんたはそれに包まれている」
「そうだね」
「もうひとついいかしら」
触れてはいけない禁忌に、ナギは触れなければならない。
「あんた……パンツは?」
ヒダリは首を傾げた。
「それが?」
「そう……」
やはり、ヒダリの価値観には付いていけない——そう思うナギだった。
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