夏の季
01 魚と指
「魚が食べたい時って、何が不足してるんだろ」
文庫本『蠅の王』を閉じてヒダリが言った。
ナギはヘッドホンを取った。
「聞こえなかった、なに?」
「魚、食べたいよね」
「カルシウムとかじゃあないの」
「聞こえてるじゃあないか」
室内に入り込んだ6月の風が、ナギの黒いショートヘアと、ヒダリのホワイトアッシュのロングヘアを揺らしていく。
ナギは作りかけの音楽を保存し、ノートパソコンを閉じた。
「魚、さかな、あったかな……げッ」
冷蔵庫を開け、ナギは鼻を押さえた。
突然現れた、異様な臭い。
動物は食べなければ生きていけない。
誰だってそうである。もちろんナギも。
だが、致命的なことに、ナギは継続というものができなかった。
「時の流れはフシギダネ」
買い込んだ食材はどれも腐っていた。
一人暮らしを始めて2ヶ月目。ナギはいまだ感覚を掴めない。
鼻をつまみながら、奥から魚を取り出す。
色は悪くなっていない。
(いつ買った魚だ……?)
恐る恐る嗅いでみる。
生魚の青々しい匂いがした。
「いちおう、あった、けど」
「お、食べよう」
「……腐ってるかも」
「腐っても鯛と言うよ」
「鯖の生き腐れとも言う」
「当たって砕けろだ」
「当たっても知らないわよ」
なんとかなるさ、と言うヒダリをあしらい、ナギは魚を調理する。
今は3時ごろ。夕食にも届かない時間帯だ。
魚をおやつに食べる種族は、この世にどのくらいいるのだろう?
フライパンでオリーブオイルとガーリックスライスを熱し、魚を投入する。
ジュクジュと音が立ち、香りが昇った。
染み出た水分はペーパータオルで拭き取る。
しかしいったい、いつこの魚を買ったのだろう——ナギは首を傾げる。
「いい香りだね」
隣でヒダリがフライパンを覗き込んだ。
ヒダリの距離感は、いつも近い。
「ねえ、暑いんだけど」
「そりゃあ、熱いだろうね」
「そういうことじゃあなくて」
「魚は海に帰りたいのかな」
ヒダリは突拍子もないことをよく言う。
「還ったでしょう。油の海に」
ナギはそれには冗談で答えるようにしている。
「人間は時に残酷な思考をする」
「そうやって発展してきたのも人間」
そうして出来上がった焼き魚。
結局、魚の種類もわからない。
白身で、皮は銀色。
匂いは……魚。
魚介に乏しいナギには判別できなかった。
「ほら、できたわよ」
「わお。いただきます」
皿に移す前に、ヒダリは指をフライパンに突っ込んだ。「あちちっ」と声を漏らしつつ、ほぐした切り身を口に放り込んだ。
んーっ、と真白い頬が緩む。
「さすがだね。ナギの料理はおいしいや」
「そりゃあどうも」
「はい、あーん」
「はしたないことかぎりなし」
ナギはヒダリの指ごと切り身をくわえた。
細く、なめらかで、つるつるとしている。
爪もきれいに整っていて、ささくれもない。
「ナギ……明らかに、ぼくの指を堪能してるね?」
「もう少し塩を足せばよかったわね」
「おいしいかい?」
「まあ、おいしい、かな」
食卓に持っていくまでに、魚はおおかた食べ終わってしまった。皮はヒダリが食べた。ナギは皮を食べられないタチだった。その間に麦茶をふたつ淹れた。食卓に持っていくと、魚はすでに骨だけになっていた。
「ありがとう、ナギ」
づづづ、とヒダリの音。彼女はコップを両手で包んでいた。
その様子を、ナギは細目で眺める。
「不足していたものは、摂取できた?」
「さあ」
「さあってなによ」
「足りなかったのは、愛かも。豚ではなく」
「はあ」
ナギは首を傾げた。
どうしてヒダリはとつぜん、魚を求めたのだろう?
「……愛なんて、もう時代遅れじゃあないかしら」
「そうかな」
ミニテーブルの上には、ノートパソコンと、食べ終わった魚の骨と、文庫本が置いてあった。ナギは『蝿の王』を読んだことがなかった。
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