同棲? するわけないだろ

「はい」、頷く、微笑むの三つの行動パターンを酷使して、清香さんから振られる話題に対応していた。


 すでに、二時間近くは経過しており、俺は精神的にも肉体的にも疲労状態。秒針の進みがやけに遅い気がする。


 そもそも桜宮先生の婚約者という設定自体、今日聞かされたのだ。心の準備なんてまるで出来ちゃいない。


 ‥‥‥はあ。

 今日の事は一生忘れないだろうな。


「あ、そうだわ。すっかり失念していたけれど、湊人くんのご両親に挨拶しないといけないわね。いつなら都合つくかしら?」


 話もひと段落ついたところで、清香さんが思い出したようにポンと手をついた。


 俺の親に挨拶だと? 

 いやまぁ、もし本当に結婚するのであれば、親同士の会合はあって然るべきだろう。


 俺と桜宮先生は一回り歳が離れているわけだし、尚更だ。


 しかし、それは本当に結婚する場合だ。


 俺はじんわりと汗をかきつつ、桜宮先生に一瞬だけ視線を向ける。が、当の桜宮先生は、俺以上にだくだくと滝のような汗を顔中に浮かべていた。ダメだ、この先生使えねえ‥‥‥!


「すみません。俺の親、出張に行ってて家にいないんですよね‥‥‥」


「あら、そうなの?」


 それは本当だ。嘘ではない。

 俺の両親は、出張で大阪に行っている。


 代わりに、叔母と従姉妹がウチにいるのだが、その件は伏せておこう。


「ということは、今は家に一人なのかしら?」


 と思ったら、厄介な質問が飛んできた。


 ここは正直に話しておくべきか? 

 いや、親族の方に挨拶を〜なんて流れになる可能性は否定できない。


 であれば、安全策で──


「そうですね。はい。今は一人で住んでます」


「凄いわね。由美なんて、未だに子供部屋から自立してないのに一人で生活してるなんて立派だわ」


「ちょ、ちょっとお母さん! 余計なこと言わないでよ!」


 羞恥心を刺激され、頬を紅葉させる桜宮先生。

『みんなには内緒だからね』と、俺に目で訴えてきた。まぁこのご時世、不景気だし、実家暮らしでも良いとは思うが。


 それに女性の場合、一人暮らしに踏み切るのは勇気がいるだろう。治安のいい日本といえど、不審者はいるからな。


 俺はお茶を一口含む。


「あ、そうだわ。この機会に、湊人くんの家にお世話になったらどうかしら」


「ブフッッ! コホ、ゴホッ‼︎」 


 思わず、お茶を吹き出してしまう。

 盛大に咳き込み、他所の家に上がっているとは思えない無礼な行動を取る俺。


「あら、大丈夫?」


「だ、大丈夫ですすみません」


 自分で汚したテーブルをティッシュで拭いていると、桜宮先生が当惑した声を漏らす。


「え、えっとお母さん‥‥‥何を言ってるのかな」


「なにって、湊人くんは今一人暮らしなのでしょう? だったら、由美も一緒に住まわせてもらったらどうかと提案しただけよ。結婚してから一緒に住むより、同棲期間があった方が何かと都合がいいでしょう?」


 清香さんの言い分は、曲がりなりにも筋は通っている。大胆な提案ではあるが、本当に結婚するのであれば同棲期間があった方がいい。それは間違いない。


「そ、そうかもだけど‥‥‥」


 桜宮先生がチラリと目を合わせてくる。


 俺は小刻みに首を横に振った。


 先生と一緒に住むとか冗談じゃない。俺たちは生徒と教師であって、それ以上の関係ではないのだ。


 大体、俺の家には叔母と従姉妹がいる。そんな状況下で、桜宮先生をウチに住まわせるわけにはいかない。


 俺は思考をフルで回転させ、言い訳を繕う。


「え、えっと俺の家は狭いですし。桜──由美さんも一緒となると難しいというか、生活用品とかの問題もありますし。色々不都合があるかな‥‥‥と、思うんですけど‥‥‥」


「ごめんなさい、そうよね。いきなり言われても困るわよね。‥‥‥あ、そうだわ。なら、湊人くんがウチに住むのはどうかしら?」


『え?』


 俺の声と桜宮先生の声が重なる。

 桜宮先生は、矢継ぎ早に言葉を紡いだ。


「お、お母さん。私たちは結婚してから一緒に住むから、無理にそんな同棲とかしなくていいよ。それにこんな家じゃ、湊人くんの気が休まらないでしょ?」


「えー、いい案だと思ったのだけれど。だめ? 湊人くん」


「‥‥‥そ、そうですね。一緒に住むのは結婚してからでも、遅くはないかなと」


「そう、残念ねえ」


 本当に残念そうに吐息を漏らす清香さん。


 俺は俺で、ホッと安堵の息をこぼす。危うく、桜宮先生と同棲ルートを進むところだった。

 そんな展開になったら、いよいよ取り返しがつかない。


 しかし、ホッと安堵したのも束の間、清香さんは俺と桜宮先生を見やると。



「‥‥‥ところで、ずっと違和感が拭えないのだけれど、由美と湊人くんは本当に付き合っているのかしら?」



 微笑を湛えて、優しい顔で、声で、一番嫌なところを唐突に突かれる。


 弓矢で心臓を射抜かれたような息を呑む感覚。心拍数の上昇が止まらない。


 喉が渇いて、うまく声帯を動かせないでいると、桜宮先生がぎこちない笑みを浮かべて。


「な、なんでそんなこと聞くのかなお母さん。私と湊人くんはちゃんと付き合ってるよ?」


「それにしては、ラブラブ感が足りない気がするのよねぇ。よそよそしいというかなんというか。そうだわ、写真とかないのかしら?」


 むしろ、よくここまで耐えられたと言うべきかもしれない。


 俺と桜宮先生は即席のカップル。本来、恋人たちの間に行き交う特別な空気感は、俺たちの間には存在しない。


 違和感を抱くのは当然だし、本当に付き合っているのかと疑惑が浮上するのも当たり前だ。


 あまりにも不都合なく話が進んでいたから、どこか気を抜いていたのかもしれない。もう少し、桜宮先生の彼氏らしく振る舞うべきだった。今更反省しても仕方ないが。


 嘘をつくのもここまでかと、俺が諦めムードに入る中、桜宮先生は毅然とした態度で声を上げる。


「じゃあ今度、湊人くんとデートした時に、いっぱい写真撮ってきてあげるよ。それでいい?」


 ‥‥‥ん? 


「あら、本当? それは楽しみね。期待してるわ」


「うん期待しててよ。私たちが如何にラブラブなのか、証明してあげるから」


 ん、んんっ? 


 俺を抜きにして、話が進んでいく。


「いいよね、湊人くん。私たちが付き合ってるって証拠、お母さんに見せてあげよ?」


 桜宮先生が俺の目を真剣に見つめてきた。その瞳には、じんわりと涙が浮かんでいる。


 パチパチと瞬きを繰り返して、俺に何かを伝えようとする桜宮先生。なにを伝えたいのかはわからないが、協力要請なのは間違いないだろう。


 俺はヒクヒクと頬を引き攣らせる。どうやら、乗りかかった舟は、泥舟だったらしい。


 正気かよ‥‥‥。この先生、教え子とデートしようとしてるぞ。場合によっちゃ事案だぞコラ。


 しかし、ここで『ノー』と言えないのが、俺の弱いところだ。


「も、もちろんです。由美さん」


 ああ、結婚の挨拶の次はデートか‥‥‥。


 俺は、下手くそな愛想笑いを浮かべながら、肩がドッと重たくなるのを感じていた。

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