責任取って
夏休みが終わり、最初の登校日。
始業式を終えて、三十分ほど教室の掃除をしたら放課後になった。
俺はデカデカと欠伸をこきながら、帰り支度をする。さっさと帰ってお昼寝しようかと考えていると、
「瀬川くん。ちょっといいかな」
と、鈴を転がしたような声とともに、目の前に人影が差し込んだ。
「いいですけど。どうかしましたか? 桜宮先生」
担任の桜宮先生。
いつもと変わらず美人だが、今日は少し様子が変だった。
キョロキョロと周囲に目を回し近くに誰もいないことを確認すると、俺の耳元に近づいてくる。
「ここだとアレだから、場所移動したいんだけど、大丈夫?」
「ああ、はい。もちろんです」
周りの目があるところでは、話せない内容ということだろうか。
まさか、成績悪過ぎて留年、とか?
いや、留年するほど低い成績もテストの点も取った覚えがない。宿題だってちゃんと出してるし、欠席もしていない。
であれば、なんだろう。俺個人に対する問題じゃないのか? でもそれなら、場所を移動する必要性がないような。
色々と思考を巡らせてみるが、それらしい答えは得られない。
まあ、無理に詮索せずとも、すぐにわかるか。
席を立ち、五分ほど桜宮先生に引っ付いて歩く。
到着したのは、生徒指導室と書かれた扉の前だった。
「え、俺、なんかしましたか‥‥‥?」
心拍数を急上昇させ、じんわりと全身に汗を掻く。
「あ、違うの。ここだと他の人には聞かれないから」
「そう、ですか。ならいいですけど」
ホッと胸を撫で下ろす俺。
何か問題ごとを起こしたのかと、肝を冷やしてしまった。
桜宮先生は、生徒指導室の鍵を開けると、入念深く周囲を確認してから中に入る。
「ほら、入って。早く!」
「あ、はい」
手招きされ、俺も生徒指導室に入る。
桜宮先生はすぐに扉を閉めると、そそくさと鍵を閉めた。なんか悪いことしてる気分になるな。桜宮先生は教師なのだから、堂々としていればいいのに。
初めて生徒指導室に入ったが、あまり特徴のない部屋だった。長方形の机が真ん中にあって、椅子が上座と下座に二つずつ置かれている。
書籍が置かれた棚があるくらいで、見応えのない内装だ。
桜宮先生は、窓から近い上座に席を下ろすと、「瀬川くんも座って」と対面の席に座るよう指示してきた。
「えっと、それで俺に何の用が‥‥‥」
「あ、うん。その前にごめんね。場所移動に付き合ってもらって」
「いえ、全然大丈夫です」
「あ、ちょっとこの部屋暑いね、クーラーつけよっか」
桜宮先生が、クーラーの電源を入れるために、一度席を立つ。壁にくっ付いた機械を操作して、クーラーをつけた。
「えと、それで話って」
「あ、あぁうん。それなんだけどね」
「‥‥‥」
「‥‥‥」
「‥‥‥?」
「‥‥‥」
無言の時間が流れる。
桜宮先生は、目を左右に泳がせたり、両手の指をソワソワと絡ませたりと忙しない。
俺が首を横に傾げて。
「どうかしました?」
「い、いや、どうもしてないよ⁉︎ うん、大丈夫大丈夫」
耳や首まで真っ赤にする桜宮先生。
右胸に手を置くと、すうはあと深呼吸を始める。
そうして心を落ち着かせた後で、手持ちバッグから何かを取り出すと、スーッと机の上にそれを置いた。
「あの、これは一体‥‥‥」
「見ての通り、です」
「気のせいですかね。婚姻届に見えるんですけど」
「気のせいじゃ、ないよ?」
「‥‥‥」
「黙るのはよくないと思う」
「届ける場所間違えてませんか? 俺は役所の人間ではないですよ」
「知ってるよ」
「じゃあなんでこれを俺の前に出してるんですかね」
「察して」
「察したくない」
俺は首を真横に向けると、じんわりと額のあたりから汗を流し始めた。
担任の先生が、俺に婚姻届を突き出している。『妻になる人』欄は既に記入済み。『夫になる人』の部分だけが空白だ。
しばらく沈黙に落ちる生徒指導室。
やがて、沈黙に耐えられなくなった俺が、顔を正面に戻すと、今一度婚姻届に目を通す。
「桜宮先生。ちゃんと説明してもらってもいいですか」
「‥‥‥実は私、三十歳までに結婚しないといけないの」
俺が慎重に切り出すと、桜宮先生は重たい口をゆっくりと開いた。
「それまでに結婚できない場合、親が決めた相手と半ば強制的に結婚しなきゃいけなくて。だから、どうにか結婚相手を探している現状です」
「どうして、結婚しなきゃいけないんですか?」
「家の決まり、なんだよ。結婚しないと人権ないに等しくてさ‥‥‥笑っちゃうよね。ホントは二十五歳の時にお見合いの話もあったんだけど、どうにか引き伸ばして三十歳までに決まらなかったらお見合いを受けるってことで話がついたの。‥‥‥で、結局、結婚相手の一人も見つからないまま三十歳になろうとしているわけです」
どこの家庭にもルールや敷きたりは存在する。
桜宮先生の家庭だって、例外ではない。ただ、他の家庭に比べて多少複雑なのだろう。
「ちなみに先生の誕生日って」
「九月三日」
「明日じゃないですか」
「そうなんだよね‥‥‥」
「でも、まだ諦めるには早いです。今からでも頑張って探しましょう。俺、全力手伝いますから!」
「‥‥‥あー、えっと、そうじゃなくてさ」
「よーし、そうと決まったら、早速出会いを求めて駅前あたりでも──」
「──察しついてるよね瀬川くん」
椅子から立ち上がり、ガッツポーズを決めてやる気を見せる俺。しかしそんな俺のテンションが、作られたものであることを見抜いてか、桜宮先生がズバリと言い放つ。
滝のような汗を顔中に浮かべると、しずしずと椅子に座り直した。
「俺にこの婚姻届書けとか言いませんよね?」
「‥‥‥言います」
「い、いやいや俺、高校生ですよ⁉︎ 教師と生徒ですよ⁉︎ 第一、なんで俺が──」
「責任取ってもらおうと思って」
‥‥‥。
‥‥‥‥‥‥。
三ヶ月前の記憶が蘇る。
確かに俺は、罪悪感から『責任取らせてください!』と口走った。
結果的に、あの発言は無かったことになったと思っていたが‥‥‥まさかそれを掘り出されるとは。
実際、あの日、俺のせいで桜宮先生は婚活パーティーに参加することができなかった。もし何事もなく、婚活パーティーに参加していたら、今頃桜宮先生には旦那さんがいたかもしれない。
「で、でも俺‥‥‥まだ十七ですよ。結婚って確か、十八歳からでしたよね」
俺の誕生日は、六月十一日。
結婚できる歳になるまで、まだ十ヶ月はある。
桜宮先生のタイムリミットは明日。どう考えても間に合わない。
「むしろ、それが一番の目的なの」
「は?」
「瀬川くんと結婚する旨を親に伝えて、お見合いの話は白紙にしてもらう。けど、瀬川くんは十七歳だから、法律上結婚ができない。これを利用して、瀬川くんが十八歳になるまでの期間に、私は結婚相手を見つける。‥‥‥もうこれしか方法がないの。お願い、協力してくれないかな!」
「な、なんだ‥‥‥そういうことか」
俺は椅子の背もたれに、体重を預ける。
ため息にも似た重たい吐息をこぼすと、思いっきり脱力した。
「先生、誤解を生む話の運び方しないでください。てっきり俺、先生と結婚しなきゃいけないのかと思いましたよ」
「え、私たち、生徒と教師だよ? 歳だって一回り近く離れてるんだし、そんなお願いはしないよ。さすがに。でも確かに、そう聞こえる話し方してたかも。誤解させるつもりはなかったんだけど、ごめんね?」
「いいですよ。勝手に誤解した俺も悪いです」
「‥‥‥それで協力お願いできる、かな。瀬川くん」
上目遣いで俺を見つめ、合わせた両手をわずかに右に傾ける桜宮先生。
「いいですよ。そう言う事情なら。要するに、俺は先生の婚約者のフリをすればいいって事ですよね。先生にはお世話になってますし、そのくらい全然引き受けます」
「ホントっ⁉︎ ありがとう、すっごく助かる!」
机に手を置き、前のめりになって喜ぶ桜宮先生。俺の両手を包み込むように握ってくる。
女性への免疫が少ない俺は、つい頬が赤くなってしまった。
俺が努めて平静を装っていると、桜宮先生は、大きな瞳で俺を見つめる。小さく首を横に傾げて。
「じゃ、早速で悪いんだけど、今から実家に来てもらっていいかな?」
‥‥‥ん? んん?
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