凄い小説を読んだ。
とにかくそんな気持ちが読み終わった時、もっというのならば読んでいる時からしていました。
それぐらいこの小説、物語に惹かれるものがあり、ただ衝動的にこうしてレビューを書いています。
物語というのはどこから生まれるのでしょう。
物語を書く人間、作者が頭の中で思い浮かべた時でしょうか?それともメモ帳、ワードアプリ、テキストエディタを開いた時でしょうか?一文字目、一文目を書いた瞬間?それとも書き上げた瞬間?
私自身、小説を結構な年月書いてきて、カクヨムでも投稿していて考えます。
物語が生まれる瞬間。それは自明であるようでいて、考えれば考えるほどにわからなくなる問いであるように思えるからです。
頭で思い浮かべた物語を、思い通りに、思う通りの文体で、思う通りの技巧を凝らして、思い通りのカタルシスを設定し、思い通りのテーマを示すことが出来るのでしょうか?
わからない。私は書けば書くほど、それがわからなくなります。
頭の中で思い描いていた物語について、曖昧なままに筆を進めていても、メモ書きを作って書き進めても、綿密なプロットを用意して書き進めていても、完結、あるいは書いている時に気づきます。
これは思っていたのと違う物語だ。
こんなことを書くつもりじゃなかったのに。
こんな凄いことが書けるとは思わなかった。
こんなひどいものを書いてしまうとは思わなかった。
そんなことをたった一つの物語を完成させるまでに幾度となく感じます。痛感します。
自分の手で書いているはずなのに、思い通りに形になることはない。
書いているのか、書かされているのか。
何か作者、自分という存在を「きっかけ」として物語と「邂逅する」瞬間が存在します。
大層な表現をしても、その物語が、小説が、何かになるとは限りません。
商業の形での本にならない。同人誌にもならないかもしれない。ネットにアップして、それでも、もしかすると誰にも読まれないかもしれない。
作者が「邂逅した」としか表現の出来ないような大層な経験を経たとしても、その物語の影響はどこにも届かないような虚しさを覚える現実はどこまでも広がっています。
そんな難しさ、途方もなさで、どこにも届かないという不条理に満ちた世界で、何かを、傷跡を残したいという何かの意思があって、物語は生まれます。
さて、同時にこの世界には読者が存在します。
私は物語を読みます。
その瞬間、私は読者という存在になります。
私がある特定の作品の読者になる確率はどの程度なんでしょうか。
商業作品も、アマチュア作品も、それが自分という読者が読むまでに無数の運が絡みます。
商業作品であっても、デビューという関門が、それを編集する人が、宣伝をする人が、ネットや書店を介して読者の手元に届ける存在が無数にあります。
アマチュア作品であっても、インターネットという存在を介して、カクヨムの場合であればここ『カクヨムというサイト』を介して、無数の作られ続ける他の物語をすり抜けて読者へ届きます。
果たして、それを全て通り抜けて、作者のことを知らない誰かがその物語を読む、物語と出会う確率はどの程度になるのでしょうか。
世界はあまりにも読まれている物語、作られている物語で満ちていて、自分自身がその物語と邂逅する確率を奇跡と呼ぶのだと思います。
文章はもうインターネットにはありふれていて、飽和していて、行き詰まっていて、生まれては消えていく。
その存在すら気づかれないことも、いくらでもある。
たとえ読まれたとしても、読み終えられないかもしれない。
読まれても、心にも留めず読み捨てられるかもしれない。
それでも、何かの波長があった読者は、出会った物語を読み、時に喜び、時に悲しみ、時に絶望し、時に希望を見出して、きっとありとあらゆる心に残る痕、傷を得て、物語を読み終わります。
そして物語は、死にます。一つの終わりを迎えます。
何処までも生み出されるための奇跡を経て、誰かの元に届くという奇跡を経て、誰かが好んで読み終わるという奇跡を経て、物語は終わります。
そうして世界は循環します。
作者はまた新たな物語と邂逅を求めて。
読者もまた新たな物語と邂逅を求めて。
何度も、何度も、繰り返して。
あらゆる物語は生まれて、死んで、循環します。
その中で「個」は消えます。全ては繰り返しの中で摩耗して、忘れられていきます。
でも、それに抗おうとする瞬間があります。
作者が何かを超えて、これまでの閉塞感を超えた物語と邂逅した時、いや、物語を引き摺り出した時。
読者がただ忘れていく物語を、既にどういう話かわかってしまったような物語に「これだけではない」と目を向け、読み終えた物語から別の見方、別の解釈、新たな物語を引き摺り出した時に。
その瞬間、その物語は生まれては消えていく循環を超える何かになります。
新たな存在として確かに生まれなおします。
本作『Bluecracy』はそんな『何か』と形容することの出来る物語だと思います。
少なくとも、読者の私にとっては。
息の詰まるような閉塞感を打ち破ろうとする力の奔流と言えるような物語、それが本作です。
物語は「詩集を抱えた少女」と「色のない少女」が出会うところから始まります。
いつかくる、〈青の帳〉がきたのなら全てが終わってしまう脆弱な、終わりを待つだけの閉塞感に満ちた世界。
そこから始まる何か、一人では動き出すことのない何か。
閉塞感を打ち破る何か。
ただ一人では脆弱でしかない、虚ろな存在が誰かと出会うことで新生する瞬間、世界を包み込む理のような閉塞感を打ち破る瞬間。
きっと、一人ではなし得ない。関係性が伴うことで初めて駆動する物語。
既にこの言葉自体、あらゆる人の心に、あらゆる人の数だけ存在する言葉ですが、そんな心の動き、閉塞感を打ち破るような何かが生じる関係、それを私は『百合』と呼ぶのだと思います。
『幻想』『百合』そんなタグのついたこの物語をどう読むか。
それはこれから読むかもしれないあなたに委ねられています。
そのような物語と思うか、そうではない物語と思うか、それはわかりません。それはこの作品を読んだ、読者であるあなたが思うことだからです。
それでも私が願うのは、私が得たような感動にこれから本作を読む誰かが立ち会ってくれること。
もしもこれから本作を読む誰かがそんな「邂逅」をしてくれるのなら、レビューを書いていて、それより嬉しいことはないと思います。
『Bluecracy』素晴らしい作品です。
ぜひご一読ください。