Bluecracy
下村アンダーソン
1
水面に映りこんだ曖昧な自身の影を飽きることなく眺めている少女の胸元には、古びた詩集が抱えられている。文字は薄れ、表題は読み取れない。扉を飾っている肖像もまた色褪せて、ただかろうじて、それが女であろうと分かるのみである。
少女は屈みこんだまま片手を伸べ、水に触れる。己の輪郭が揺らいで溶け去るのを眺めてから、ゆっくりとした動作で立ち上がる。踵を返して歩きはじめる。
泉の四方を鬱蒼と囲んだ木々の隙間から、別の少女が姿を覗かせる。色のない髪が、色のない顔を縁取っている。ほっそりとした体にはやはり色のない、そして炎のように絶えず揺らめく光を纏わせている。
見ていたの、と詩集を抱えた少女が問う。
――私を見ていたの。いつから。
ずいぶんと前から、と色のない少女が答える。声は淡々とし、感情が滲んでいるようには思われない。
――どのくらいかな。思い出せないくらいから前かも。
ふたりは泉の傍の、柔らかく茂った草のうえに腰を下ろす。隣り合ってこそいるが、わずかに距離がある。詩集の少女が吐息を洩らす。
――ここでは思い出せることのほうが少ないもんね。
――でもあなたはまだいい。いろんな言葉を持っているみたいだから。持ち込んだのがそれで、幸運だったね。
色のない少女が震える人差指で詩集の表紙を示す。実際に指先が震えているのか、あるいは彼女の纏う光が揺れているせいなのかは、詩集の少女には分からない。
――だけど、これもだいぶ曖昧になってる。書きつけられていたはずの詩も、大半が読めなくなってしまった。覚えておこうとはしてるけど、ここでは無理みたいだし。
そうだね、と色のない少女が頷く。その口元には幽かな笑みが浮かんでいる。
――自分が何者だったのかさえ思い出せない。〈死せる魂〉がそういう存在なんだと言われれば、それまでだけど。
死せる魂、と詩集の少女は繰り返す。それから顔を上げて色のない少女の横顔を見つめる。
――あなたはいつからここにいるの。
――思い出せないくらい前からだって、さっき答えたよ。
――ここに来てから、つまり〈死せる魂〉になってからどのくらいかって訊きたかった。
さあ、と色のない少女はかぶりを振る。そのたびに輪郭が空気に滲み、ぼやける。
――その質問でも答えは変わらないよ。思い出せないくらい前から。
少なくとも私よりはずっと昔からだろう、と詩集の少女は思う。私の体はあんなふうに揺れたりはしない。色だってまだ残ってる。
あなたもたいして変わらないよ、と色のない少女が言う。その少し悪戯気な口調が、かえって詩集の少女の胸をざわめかせる。
――私も?
――そうだよ。水に映る自分しか見てないから気付かないのかもしれないけど、あなただって酷く曖昧な存在なんだよ。そもそもが同じ〈死せる魂〉なんだし。
詩集の少女は狼狽して、胸元に抱えた本を見下ろす。褪せた表紙に描かれた、もはや誰とも判然としなくなった肖像をじっと眺める。
――私も消えるのかな。
――いずれね。たぶん私のほうが先だと思うけど、どうかな。もしかしたらもっと早く、〈青の帳〉が訪れるかもしれない。
詩集の少女が首を傾げたのを見て取ったのか、色のない少女は頷く。
――私も詳しいことは知らないんだけどね。〈青の帳〉が来たらみんな消えるんだって。
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