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第10話アイソンの朝風景
床に転がった樫のカップを、つま先で小突く。
酒場の床を転がるカップ君の行く先には、大冒険が待っていた。
大の字になって寝転がる人間たちを避け、散乱する食器を乗り越え、床に広がる酒の池を横目に眺めながら、カップ君は夜通し続いた酒宴の戦場跡を進んでゆく。
床に、朝の光が差し込んでいた。
淀んだ空気を切り裂く光のカーテンの中、気だるげな埃たちが舞っている。
疲れ果てた酒場の惨状におののきつつも、ゆっくり転がってゆくカップ君。その足取りは、初めてお遣いを頼まれた子供のように覚束ない。
目的地は近づいている。
疲れて止まりそうになりつつもカップ君は地道に歩み、最後にはコツンと乾いた音を立てることに成功した。
「……ストライク」
私はカウンターの隅で頬づえを突きながら、手に持った酒瓶を軽く掲げてみせた。
カップ君の偉業を称えたのだ。
エリンの頭までの旅を見事に終えた彼は、ぶつかったあと一歩二歩と下がり、もう少し誉めて欲しそうな顔でこちらを見る。
「よく頑張った」
あられもない格好で床にうつ伏せ、無防備にいびきをかいているエリンを見やりながら、私はささやかに苦笑した。
「……さあて」
私は座ったまま大きく伸びをして、酒臭い息で深呼吸をした。
横でスヤスヤ寝息を立てているフィーネ君に手近な毛布をかけ、席を立つ。
「昨夜の勘定は、ここで寝てるフィーネ君持ちだ」
奥で食器やカップを洗っていたバーテン君が、少し驚いた顔を厨房から覗かせた。
「え、あ? 全部ですか? 昨晩はずいぶん盛大に皆に奢っておいででしたから、相当な額になってしまいますが」
「いいんだ、持っている小銭を全部吐き出させておいてくれたまえ」
心の中で、フィーネ君の足首を持ち逆さにして振ってみた。
じゃらじゃらちーん、と派手な音を立てて口から小銭が溢れ出る様子が目に浮かぶ。胸がすっとした。
「毎度ー」
バーテン君の声を背中に浴びながらセドミアの酒場を出ると、薄暗い酒場とは比べ物にならない光の量に目が眩んだ。
大きく息をしてみる。
水分を含んだ冷たい空気が喉に心地好かった。
夜明けの残滓がまだ残っているのだ。
気温が上昇していく手前の一瞬しか味わえない甘露、それが朝の空気だった。酒精を帯びた身体には、この上ないデザートだ。
スズメが鳴く小道を、広場へと向かってふらふら歩く。
この辺はまだ街が寝ているが、広場まで出れば市も立っているはずだ。さぞや賑わっていることだろう。
私は朝から仕事に精を出す物売りたちのバイタリティに敬服しながら、昨日のことを思い出していた。
移動魔法で関所に戻った我々は、兎にも角にも睡眠を取ることにした。
昼過ぎまでぐっすり眠った私が起きる頃には、少し早く起きたというフィーネ君が隊商に話をつけており、幸運なことに帰りも楽をすることが出来たのだった。
途中、魔物が襲ってきたりなどのハプニングもあったが、私とエリンの二人で簡単に退けられる程度の規模だった。
もっともこれは、エリンが必要以上に動きまわってくれたお陰もある。戦闘後に「ああ、すっきりした」と晴れやかな笑顔を見せたエリンは、どうやら今回の仕事、まだ暴れたりなかったとみえる。木剣を構えていた勇者ちゃんをフォローしながらよくもまあ、ああも器用に動けるものだ。
フィーネ君はといえば、その間ずっと、荷馬車の御者殿の横で眠りこけていた。
ちょうど魔物を片付いた頃に目覚めたり、戦闘中たまに薄め目を開けてたりしてた気もするが、それは気のせいとしておこう。
アイソンにつく頃、もう周囲には夜の帳が下りていた。
規模が小さいとはいえ戦闘行為が起これば事後処理も必要になる、予定通りの行程を踏めないのは世の常だ。
閉ざされてしまった街門を開けさせる為、役人に賄賂を渡した隊商主は、静かに開いた大門をこっそりと抜けながら役人どもへの愚痴を吐き捨てた。
「役人が賄賂を受け取る国は駄目な国だ」
そう言って憂い、私に同意を求める。
そう思うなら、なぜ賄賂を渡して門を通るのか。そこを指摘してみると、隊商主は胸を張って、こう答えた。
曰く、それが商人の仕事だから、だそうだ。
商人が金を稼ぐために多少の法を破るのは仕事だから当たり前。だが役人は法を守るのが仕事なのだから法を守るべきであり、それがイヤなら役人などに為らねば良い。
「仕事に誇りを持てということだ」
大真面目な顔をする隊商主を見て、私は笑ってしまった。
自分本位もここまで筋が通れば気持ちよい。
その点おまえらの仕事っぷりは良かった、と隊商主は豪快に笑い返してきた。賃金に見合う仕事ぶりだった、と。
荷馬車に相乗りさせることを賃金と称しているのかと思い、最初は気にしなかった私だが、
「あの白髪(はくはつ)ねーちゃんの護衛ゴリ押しには閉口したがよ。なかなかどうして、良い物は安く売っちゃならねぇことを解かってやがる。存外にヤリ手の商売人だ」
という隊商主の言葉には眉を潜めた。
「売り物?」
どうも私たちは、折りよく現れた隊商一座に好意で便乗させてもらっていた、というわけじゃなかったらしい。
あのとき後ろで寝ているフィーネ君のポケットから、ジャラジャラ小銭の音がしたような気がしたのは、まあ私の幻聴だろうから――。
と、意識が現実に戻ってきたのは笑いが込み上げてきたせいだろうか。道の端で餌を食べているスズメたちを、酔いに任せて無意味に追いかけながら、私は頷いた。
――そう、幻聴だろうから、飲み代をフィーネ君に持たせたこととはなんの関係もないのだ。
行きもヤッてたな? なんてことも、無論考えなかったぞ、いやホント。だから、ザマを見ろなんて思うべくもないのだ、あはは。
飛び立ったスズメが少し先の道ばたに降り、再び餌をついばみ始めた。
そうかフィーネ君は商人か、なるほどバイタリティに溢れているわけだ。
この馬鹿馬鹿しい発見に、私の心は躍った。
笑いながら小走りに、私はまたスズメを追いかけた。
スズメが飛ぶ、着地する、私が追いかける。
戯れに繰り返すその行為が、堪らなく楽しい。
気がつくとスズメを船頭に、広場のそばまで歩いていた。
そよぐ風が私の耳に喧騒を運ぶ。朝市は賑わいを見せていた。
☆☆☆
生肉に干し魚、朝採りの野菜から異国の果物まで――。それらの強烈な匂いに、少し湿った土の匂いが混ざっていた。
石畳で飾られた広場と大通り沿いに、無数の店場が立っている。朝っぱらということも忘れたように人がごった返し、力強いうねりを上げていた。
アイソンの定期朝市は、数年前からの国家援助が功を奏したのか最近富みに発展している。
食料品に紛れて売られる雑貨が目玉になっているらしい。生活用品から趣味の品、果ては魔法の品々までと、集まる物品が幅広いのだ。
それらを目当てとして訪れる趣味人や貴族、魔法研究者も多いため、非常に活発な経済活動の場になっていた。
人ごみの中を、ふらつきながら散策する。売り台に摘み上がった柑橘系果物の中からレモンを手に取り、売り子をしている子供に代金を投げ渡した。
「ナイスキャッチ、いい運動神経だ」
得意げに笑い返してくる男の子に、レモンを持った手を軽く振り、マントで表面を拭いてから黄色い果実にかぶりついた。
一気に目が覚めた。
よほど私は酷い顔をしたに違いない、男の子が私を指さして大笑いした。笑い顔に向かって投げつけたレモンは、やはりまたキャッチされる。男の子もそれにかぶりついた。口をすぼめてしかめっ面をするその子を、私も指さして笑った。
そのまま少しふらふらと市場を回ることで、ようやく酒精が抜けてきた気がする。
今日はハインマンに会うことになっている。
昨晩のうちに使者がきて、取次は終えていた。
命を狙われるかもしれないフィーネ君の為に、私たちはハインマンから情報を引き出さなければいけない。まずはハインマンの素性だ。そして彼に敵対する勢力があるなら、その心当たりを。
気がつくと、額に汗が浮いていた。
早朝と言える時間帯はとっくに去っていた。春の日差しと人ごみが、市場の温度を上げている。
心の体力がない私には、ある意味、地下遺跡を歩くよりもツラく感じられた。額の汗に気がついた瞬間に、腕から身体から汗だくになる有り様だ。
暑さに気がついてしまったことを呪いながら、私は広場のはずれに向かった。
文字通り広い場なのだ。中心部と違って石畳もまばらにしか敷かれていないそこには、店も出ていない。
ひと気のない木陰で、私は崩れた石垣に腰を下ろした。
両足を伸ばしてくつろぎ、カカトでトントン地面を叩く。
靴の裏についた泥を落とした。
同時に肩の力も抜け落ちた。
疲れが、大きな息となって喉から漏れる。
額を拭った手を払うと、飛び跳ねた汗の粒が木漏れ日を反射しながら落ちてゆく。
「くそオヤジめ、いないではないか」
口から舌を出し、だれた格好のまま首筋を手で扇いだ。
くそオヤジとは、昨日の隊商主殿のことだった。
昨晩の別れ際に言われたのだ、朝市に顔を出せば珍しいものを見せてやる、と。
ハナから居ないのか、見つからなかっただけなのか。
それはわからないが、疲れたのだけは確かである。
私は服の胸元を掴んで引っ張り、バフバフと空気を送り込んだ。
汗が止まらない。春先にしては少し暑くなりそうな日だった。
パタパタ、と手で扇ぐ。
――どたん。
バフバフ、と胸元を引く。
――ばたん。
なんだ? どこからか、暑苦しい音が聞こえてくる。
それは、なにかが地面にぶつかる音だった。
――どすん。
近いぞ、と、私は動きを止めた。
頭上の木の葉たちが、ざあ、と音を立てた。足もとで影が揺れる。緑の香り融けた風の音にまぎれ、その音は続いていた。――ずてん。
わかった、茂みの奥からだ。
音は裏手から聞こえてきていた。立ち上がり、茂みを覗き込むと、草むらの中でピョンピョン跳ねている小さな子供がいた。
ぴょん、ぴょん、ぴょーん。――どてん。
ぴょん、ぴょん、ぴょーん。――ずたん。
リズムに乗って、いちにの、さんで大きくジャンプ、そして転んでいた。
勇者ちゃんだった。遺跡でのイメージトレーニングをまだ続けているのだろう。
「春風に乗る鳥ふわり、かね? 勇者ちゃん」
声をかけたつもりだったが、勇者ちゃんはこちらに気づく素振りすら見せない。あいかわらず読み取りにくい表情を浮かべたまま、ひとりでジャンプを繰り返す。
今度は三回目ごとの大きなジャンプに、腕による羽ばたきが加わった。
どたん。ばたん。どすん。
とはいえなにが変化するわけでもなく、やはりジャンプのたび派手に転ぶ。顔についた土を取ろうとしたのか勇者ちゃんは手で頬を払うが、拭うたびに顔が黒くなった。
ぴょん、ぴょん、ぴょーん。
少しづつ前に飛ぶ勇者ちゃんが、ゆっくりこの場を去ってゆく。後ろ姿を眺めながら、私はコリコリと指で頬を掻いた。
集中力は大したものだ。そろそろ次の段階を教えてあげようか。
「勇者ちゃーん? 頑張れなー?」
小さくなっていく背中に声を掛けてから、私はアクビをした。顔を上げたまま空を見る。青い。
浮かんだ雲がゆっくりと流れていた。葉擦れの音とスズメの声を聴きながらのんびり目で追うと、やがて雲はひときわ高い尖塔の向こうへと隠れていく。
――魔法学校の校舎だ。
塔の近くには、この街で最も古い壁と言われる「始まりの壁」が伸びていた。
アイソンの城は、その壁に囲まれた中にある。街が発展するにつれ、幾重にも壁を張り巡らせてきた歴史ある城郭都市、それがアイソンなのだ。
さあ、そろそろ戻らなくては。
エリンたちを叩き起こして、水浴びくらいさせてこよう。
特にフィーネ君にはしっかり働いて貰わなくてはならない。なにせ賭かっているのはフィーネ君自身の命なのだ。
もう一度、私は城を見た。
エリンらを水浴びさせているうちに、果実酒の一杯でも飲み干そう。うんとアルコール度が高く、喉がひりつくような炎の水を。
一杯の酒を、一晩の睡眠のかわりにする程度の体力は、まだまだある。
ほら、――と胸元をめくって服の中を覗き込んだ。
胸に張りもある。私はまだまだ若いのだ。
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