青信号

あべせい

青信号



「きょうは調子がいいやね」

 ハンドルを握るカメがつぶやく。

「どうした。道に金でも落ちていたか」

 助手席の鶴吉が、茶化すように応じる。

 冬葉カメと鶴吉の老夫婦が乗る、真っ赤なジャガーだ。新車同然にピッカピカに輝いている。

 2人の、色褪せ、型崩れした服装に、高級外車のジャガーは似つかわしくないが、これには理由がある。ふとしたことからプレゼントされたもので(「レストア」参照)、2人は大いに気に入っている。周囲の車が、追い抜いていく際、一様にジャガーの運転席を覗いて行くことからも、充分目立っていることがわかる。

 しかし、ジャガーのドライバーが古ぼけた老婆と知るや、わけがわからないといった風に、首を傾げていくのもやむを得ないことかも知れない。

「でも、なんだか、気味が悪いやね」

 カメはさきほどから、しきりに信号を気にしている。それもそのはず、もう10分以上、赤信号に引っかからずに走り続けているからだ。

 ここは国道1号線と平行に走る片側2車線の県道だが、車の通行量は少なくない。ところが、カメの運転するジャガーが、交差点にさしかかると、それまで赤だった信号が、急に青に変わるのだ。

 幹線道路では、車が渋滞しないよう、信号が一定間隔で青信号になるようにコンピュータ制御されている場合がある。

 しかし、この道はバイパスでもない。町と町をつなぐ生活道路だ。一方向の道路の信号だけを連続して青にすると、それと交わる道路は困ることになる。

 しかし、カメはそんなことに頓着していない。

「もうすぐ、この町のおえらいさんが通るのかね。それとも……」

「どうした、カメ?」

 夫の鶴吉は、妻が久しく見せたことがない、憂いを帯びたやさしい顔に、グッと胸に迫るものを感じて、ドキッとした。

 50年以上も昔になるか。出会ったときの、カメの魅力的な容姿を思い出したのだ。妖艶なマスクにグラマラスなボディ。

 あのとき、鶴吉には、妻のカメが非の打ち所のない女性に見えた。

 それは東京タワーの展望台だった。カメ23才、鶴吉25才、五月晴れの休日だった。

 修学旅行の中学生をはじめ、多くの観光客で、東京タワーの展望台はごった返していた。

 鶴吉はカメをじっくり観察した。カメはひとりで来ている風だった。展望台をゆっくりと時計回りに歩き、外の景色を眺めていた。

 鶴吉は静かにカメの後についていった。

 ところが、カメが、富士の見える西側に立ち止まったとき、40がらみのスーツ姿の男が、背後からカメに近づき、声をかけた。

 そのときだった。

 カメは振り向きざま、男の頬を平手で往復ビンタした。その平手打ちの音があまりにも見事というか、小気味よく響いたせいか、周りの者たちは一斉にカメを見た。

 しかし、その直後、カメは男を残して去った。

 あとでわかったことだが、男はカメの2つ年下の妹に、上司の立場を利用して愛人になれと関係を迫っていたため、カメが成敗したのだ。

 男は、その日、最終兵器のつもりで、カメの妹名義のクレジットカードを持参したが、カメを妹と見誤り、御難に遭っていた。鶴吉はカメにだけ視点を合わせていたため、カメを見失うことがなく、彼女が丸の内の弁護士事務所に入るまでを、見届けることが出来た。

 結局、鶴吉は依頼人を装ってカメに近づいて交際を始め、結婚にまでこぎつけたのだが……。

 そういう艶めいた話は、後日ゆっくりするとして、カメの容貌にはいまは老齢になったとはいえ、若き日の美貌の片鱗がそちこちに見受けられ、眼力のある者には、そのことが充分に伝わってくる。また、それでないと、人生の楽しみ、人としての喜びを味わうことができないだろう。

「なにやってンだい?」

 カメは、助手席でニヤついている夫の鶴吉に気がつき、小バカにした声を出した。

「いや、きょうは女性ドライバーがやけに多いと思ってな」

「いまは乗用車を運転するのは、女性のほうが多い時代だよ。あたいみたいにね……」

「どうした、カメ?」

 鶴吉は、車内のバックミラーを覗きながら、妙な表情をする妻が気になって言った。それは、カメが鋭く頭を回転させているときの凛々しい表情だ。鶴吉が最も好きな妻の美点の1つでもあるのだが……。

「あんた、あの車、おかしいやね」

「なに、車? あのグリーンのワゴンか?」

 鶴吉は助手席からチラッと後ろを振り返ってから言った。

「そうじゃない。ワゴンの後ろの黄色いスポーツカーだよ」

「あの、見るからに、バカが運転しそうなポルシェのオープンカーか」

 グリーンのワゴンの後ろに、屋根を収納したイエロー一色のポルシェがついている。

「あァ、そうだよ。緑のワゴンはちょっと前に割り込んで来たンだけれど、あのポルシェは、10数分前から、間に1台車を入れて、うちのジャガーにピタッとついて来るンだ」

「ウーン……」

 鶴吉の思考は停止する。

 真ッ赤なジャガーを真ッ黄色のポルシェが追っている。カメに一目惚れはないだろう。

 離れているとはいえ、その距離は20mほど。後ろを走る車から、ジャガーのドライバーが男か女かの見分けくらいはつくだろうが、年齢まではわからないということか。いや、顔が見えないのなら、そもそも惚れるということはないだろう。

 いや、そうじゃない。ポルシェのドライバーは、このジャガーが気になってついて来る。そうだ。そうに違いない。しかし、カメの顔を見れば驚くだろう。その前に、ポルシェのドライバーの顔を拝む必要がある。

 鶴吉の考えはようやくそこまでたどりついたが、生憎ポルシェのフロントガラスにはスモークがかかっていて、運転席がよく見えない。

「曲がったッ!」

 カメはそう言うなり、右に入る一方通行を見つけると、ジャガーを頭からそれへ突っ込み、すぐにバックした。

 Uターンだ。交通量のある片側2車線の道路でやることではない。

 しかし、カメはこういうとき、男勝りの運転をする。対抗車線に車体の後ろ半分近くはみでた状態で、切り返す。1度、2度と。

 対抗車線をやってきた車がクラクションをかき鳴らす。そんな車に遠慮している場合じゃないのか、カメは片手をあげて、その車を制止すると、3度の切り返しでUターンをやりとげるや、イエローのポルシェを追った。猛スピードで。

「カメ、なにをする気だッ!」

 女房の荒っぽい運転には慣れっこの鶴吉も、カメの目的がわからず、声を荒らげた。

 2人は今夜沼津に宿を見つけ、車内泊旅行で疲れた体をゆっくり休めるつもりでいる。この三島の街で、いつまでもうろうろしていたくない。鶴吉の頭の中は、沼津で10数年前、陸送の仕事をしていたとき出会った、小料理屋の女将のことで妄想が渦巻いている。カメの知らない女。実にいい女だった。まだ、元気でいるだろうか。

「あんた、前を行くポルシェの運転手のしわざなンだよ」

「しわざ!?」

 カメの操るジャガーは、忽ちポルシェを捕らえていた。もっとも、ポルシェは後を尾けられているとも思わないから、通常の速度で走っている。ジャガーの前方30数mの距離だ。

 ポルシェは片側一車線の道路を、徐々にスピードを落とし、ゆっくりと進ンでいく。とろとろ行く、という表現がぴったりの走りだ。

「カメ、あの車がどうかしたのか。道に迷っているのか?」

「あんた、あたいの推理が間違っていなかったら、これはちょっとおもしろいことになるよ」

 カメはそう言うと、スピードを上げ、ポルシェに追いつくと、すぐに追い越し、ポルシェの前に静かにジャガーを止めた。

 するとポルシェも、何かを察知したかのように停止する。

 カメはジャガーから降りた。

「オイ、よせ。何をする気だ」

 鶴吉が助手席から慌てて妻を制止しようとしたが、カメは構わず、つかつかと後ろのポルシェに近寄っていく。

 ポルシェのドライバーは、近づいてくるカメを、運転席から不安そうに見上げる。

 その顔は若い。年齢は35、6才だろう。

「あのォー、なんでしょうか?」

 ポルシェのドライバーは気が弱い、気の小さな男だ。自分から声を発した。サングラスを外して、カメを見つめる。その眼はオドオドしている。

「あんた、なんのつもりだ。あたいを尾けまわして。警察に行きたいのかい」

「いいえ、とんでもないです。ぼくは、ただ、ただ……」

 この男は、否定すればいいものを、素直に認めている。ずるくはないのだろうが、余り賢くもない。

「あんた、病院の前から、あたいたちの車をズーッと尾けてきたじゃないか」

 すると、男の顔色が変わった。血の気が引いたように、スーと青くなった。

 カメがポルシェの存在に気づいたのは、20分近く前、「神矢記念総合病院」と看板の掲げられた、大きな病院の前に停止したときだった。

 カメはこれまで大病を患ったことがない。頭も足腰もいたって健康だ。心配なのは、鶴吉の動脈硬化。鶴吉はヘビースモーカーだ。成人になる前から、煙草を吸っている。ひどいときは1日4箱吸っていた。いまのところ、体の不調はないようだが、病院が嫌いで、ここ10年は検診を受けていないから、いつ異変があってもおかしくない。

 カメはそんなことを考えながら、総合病院の看板に表示されている診療科目を眺めていた。

 病院の前が広い駐車場になっていて、「職員専用」と表示された駐車スペースから、1台の黄色いポルシェが出てきた。

 カメも鶴吉も、ポルシェのオープンカーに気を取られ、眼で追った。

 すると、ポルシェは駐車場の出入り口付近で再び停止した。カメたちのジャガーは病院駐車場の出入り口近くにいたが、出入り口をふさいでいたわけではない。

 しかし、運転に不慣れなドライバーには、目障りだったのかも知れない。まして、相手は高級外車のポルシェだ。極端にキズを恐れるドライバーなのだろう。

 カメはそう考え、

「わかったよ。どかすよ」

 とつぶやくと、ジャガーを静かに発進させた。

 数分後、カメは車1台を挟んで、さきほどのポルシェが後ろにいることに気づいた。行く方向がたまたま同じなンだろう。そう思ったが、それ以降、ポルシェはジャガーをマークするようにピッタリとついてきた。

 こちらには何の意趣遺恨もないのに、見ず知らずの相手から、恨まれることが世間にはある。それなのかも知れない。カメは相手を刺激しないようにゆっくりと走行した。

 追い越してくれれば、それで終わる。そう考えて走ったのだが、ポルシェは明らかにジャガーを追尾してきた。しかし、突然、追跡をあきらめたかのように、別の道に入り、いまは逃げようとしている。

 カメには、少なくともそう見えた。逃げるのだから、非は相手にある。非を認める人間だったら、脅せば答えるだろう。

 カメはそう決め込み、前に回りこんでポルシェを停止させたのだ。

「奥さん、誤解です」

 ポルシェの男は、車から降りると、カメに向かって一礼したあと、そう言った。

 なかなかの好男子だ。カメは、ポルシェのオープンカーを乗りまわしているから、礼儀も知らない盆暗と思っていたが、少し修正したほうがいいと思った。

 カメは男からポルシェの車内に目を転じる。右側の助手席に、煙草のケースほどの小さな機器がいろいろ転がっている。

 カメは思い出した。

「あんた、車を走らせながら、そのリモコンを操作していたね。あれはよくないンじゃないか」

 男は、ジャガーを追ってポルシェを走らせながら、エアコンのリモコンのような機器をハンドルの上から、前方、いや少し上に向けていた。あれは……、カメの思考が急回転、急加速する。アッ、そうかッ!

「すいません、奥さん。いけないこととは知っていますが……ほかに方法が……」

「わかったよ。イロ男。話してみな。手伝ってやるからさ」

 カメは久しぶりに、「奥さん」と呼ばれて気分よくした。ふだん、外では、「婆さん」とか、「ババァ」としか、呼ばれていないからだ。

 男の話は、カメの想像をわずかだが、超えていた。


 男の名前は、神矢錦士朗(かみやきんしろう)。名前から想像できる通り、彼は「神矢記念総合病院」の3代目。34才という年齢で、いまだ研修医の身分。生来ぼんやり育ったためか、医師の仕事にはあまり身が入らない。それなりの頭脳は有しているのだが、一人息子であまやかされて育ったためだろう、関心は専ら女性にあった。

 勿論、親からは日頃、早く結婚しろとしつこく催促されている。4代目をつくれというのだ。親の願いをいいことに、研修医の仕事は半分にして、もっぱら病院を訪れる、自分タイプの女性を物色するのが彼の日常だった。

 そして、1週間前、彼好みの女性が、天使のごとく彼の前に舞い降りた。少なくとも、彼の目にはそう映った。

 27、8才だろう。入院患者の見舞いに訪れたと思われるその女性は、昼食をとりに職員通用口から出た錦士朗の目の前を、ふっと横切った。そして、何気なく、チラッと錦士朗に視線を送った。

 それには何の意味もなかった。ただ、風が、初夏の風が、頬に心地よかったので、意味もなく目を泳がせたに過ぎない。

 しかし、錦士朗は違った。どう勘違いしたのか、女性が彼に目をとめ、秋波を送ってきたのだと思ってしまった。

 錦士朗の思い込みは烈しかった。彼女はおれに好意を抱いた。おれに関心があるいまのうちに親しくなり、交際したい。

 彼女は錦士朗のそんな思惑はつゆとも知らず、駐車場に行き、アイボリーのジャガーに乗った。彼女の車ではない。彼女の父が国道沿いで中古車販売会社を経営していて、その日たまたま会社の展示場の出入り口にあった、売り物のジャガーを借りてきた。

 しかし、錦士朗は、職員専用の駐車場に急ぐ際、彼女のジャガーのナンバープレートを読み取ることを忘れなかった。なぜなら、それは「8888」と覚えやすい番号だったから。前の持ち主が、新車登録する時、注文した番号だったからだが……。

 しかし、錦士朗はここでも勘違いした。彼女は資産家の令嬢で、日常的に高級外車を乗り回している、と。

 錦士朗は昼食をとりに出たことも忘れ、慌てて職員専用駐車場に走り、ポルシェに乗るとジャガーを追った。しかし、ポルシェが病院の前を走る県道に出たとき、ジャガーはすでに影も形も見えなかった。錦士朗は職員駐車場まで走った、その時間のロスで見失ったと考えられる。

 錦士朗は考えた。見舞いなら、また来るに違いない。こんど会えたら、車で彼女の車の後を尾けて、どこのだれかを調べてやる。

 しかし、車で車を尾行するのは難しい。映画やテレビのドラマのようにはいかない。信号で止められることを考えると、複数の車がないと尾行は成功しない。彼女の車が通り過ぎた直後に交差点の信号が赤になった場合、無視して突っ切る手もあるが、それをやると事故を起こすか、警察に摘発される可能性がある。

 では、どうするか。そうダッ。信号がすべて青になればいい。彼女の車に続いて、錦士朗の車が通り過ぎるまで、交差点の信号が青なら、問題ない。

 錦士朗は大学では医学部だったが、サークル「外車を愛でる仲間」で一緒だった工学部の友人、椿本左敏(つばきもとさとし)はデジタル機器に強い。錦士朗と左敏は同い年。左敏の父親は全国に120店舗を有する石油スタンドのオーナーで、経済環境も錦士朗に共通するところが多い。現在、左敏は警視庁の警視であり、錦士朗は卒業後も、半年に一度の割で左敏に会い、旧交を温めている。

 錦士朗は、その左敏に相談した。それが先月。

 左敏は少し時間が欲しいと言い、女性が病院から帰った時刻や、女性の体の特徴などをこと細かく錦士朗から聞き出した。

 そして、この日。左敏は錦士朗に「おまえの言う県道の信号が2㌔に渡って操作できるリモコンだ」と言って、煙草のケース大の機器を錦士朗に郵送し、実験する日と時刻を決めた。リモコンの電波を受ける信号機のほうの調整も必要だからだ。そこは、警視の立場を利用して、いかようにもできる。

 そして、実験は成功した。錦士朗は、偶然病院前に停止していたカメのジャガーを女性のジャガーに見立て、愛車のポルシェで追尾した。カメのジャガーが信号に差しかかると、錦士朗はリモコンを信号に差し向ける。すると、その手前30メートル付近で信号は次々に青に変わり、カメのジャガーは減速することなく、交差点を通過した。

 カメが、「きょうはついているやね」と言ったのは、そういうカラクリがあったのだ。錦士朗のポルシェは、カメのジャガーを見失うことなく、錦士朗の病院から約2㌔の県道区間を、停止することなく走破できた。

 こんど、女性のジャガーが病院に来れば、そのリモコンを使い、女性のジャガーを問題なく追尾できる。そして女性の住まいを見つけることが出来る。錦士朗は、そう考えた。


 カメは、錦士朗の話を聞いて、驚いた。この錦士朗という男はとんでもない大バカだ。話しかければすむものを、ストーカーしなければ、相手に接近出来ない。気が弱いにしても、そんなことで病院経営がやっていけるのか。

 こんな男を野放しにしておいていいものか。

 互いに名前を名乗りあった後、カメはこう言った。

「あんた、その女がどんな素性なのか、わかりゃいいンだろう。そんな七面倒くさいことをすることはないやね」

「エッ、そんなことができますかッ!?」

 錦士朗は、心底驚いた顔をした。

「できるさ。あたいくらいの才覚がありゃね」

 カメにはある程度の目算があった。

「条件があるけれど、あんた、承知できるかい?」

「はい……、どんな?」

 錦士朗の顔に不安が広がる。

 カメが提示した条件とは、その女性が病院に来るまで張り込むため、その間の飲食、宿泊代等の経費だ。張り込みは鶴吉と2人なら、交替すればなんとかなる。

 神矢家は、病院以外に地元にビジネスホテルを経営していて、宿泊と飲食はどうにでもなるという。交渉は成立した。

 カメは、錦士朗から、彼が書き取っていたジャガーのナンバーを聞きとり、鶴吉に告げた。鶴吉は、元車整備のプロだから、車関連の知識と知人は豊富に持っている。


 3日後。

 錦士朗が一目惚れした相手は、深見史果(ふかみふみか)、35才とわかった。

 ただし、夫のいる女性だ。結婚してまだ2年。こどもはいない。ただ、彼女の夫は、神矢の病院で闘病している。

 病名は、胃がん。すでに手術は終え、回復を待ち、退院するだけだ 。

 史果の素性が知れたのは、ジャガーのナンバーから、前の持ち主が割れ、その人物が売却したカーディーラーから、そのジャガーをオークションで競り落とした車屋にたどりつき、彼女の父が経営する外車専門の中古車屋が明らかになった。

 あとは、国道沿いのその会社を訪ね、問題のジャガーが展示されていることを確認すればいい。カメから調査の全権を委任された鶴吉は、客を装って彼女の父の外車展示場に通い始めた。

 通って2日目。その外車展示場で父に会いにきた娘らしき人物と遭遇した。

 勿論、彼女が、錦士朗が一目惚れした女性かどうかの確認はとれない。しかし、展示品の外車を見て回った後、事務所の外に立ち止まり、2人の話をそれとなく聞いていると……。

「お父さん、カレの経過は順調よ」

「しかし、おまえ、あいつは浮気しているらしいじゃないか。病室におまえ以外の女性が来ていると聞いたぞ」

「……そンな話、だれがしたの」

「おれはあの男との結婚には元々反対だったンだ。女のカゲがあると思ったから。ここで車を買う時も、若い女を連れていた。それはおまえに何度も言ったはずだ。ひと回りも若い女だゾ」

「でも、あの女性は職場の部下で、仕事の必要上、一緒に動いていただけ、だって……」

「おまえは、男の、その程度のウソを信じるから、バカと言われるンだ」

「バカでもいいわ。好きになったのだもの、仕方ないでしょ」

「むやみに金がある男は、用心しろと言っただろッ。まして、あの男は株屋だ。昔から、株屋に嫁はやるな、って言うンだ」

「その話は何度も聞いたわ。お父さん、お客さんの相手をしなくていいの? 外でお待ちよ」

 鶴吉がドアの外で立ち聞きしていることに史果は気づいていた。別に聞かれて困るような話でもないが、史果はそれを潮に帰るつもりになった。

 父と娘の会話はそこで途切れたが、もうこれ以上、確認する必要はなさそうだ。

 しかし、ここで、鶴吉の悪い癖が出た。鶴吉は、史果という女性が好きになってしまった。木乃伊とりが木乃伊になるということばがあるが、カメが鶴吉に調査を任せる際、最も心配したことが出てしまった。

 しかし、鶴吉もそれほどバカではない。最も肝要なのは、この事実をどう依頼人に伝えるか、だ。

 人妻であることは、史果が訪ねている病室がわかれば、患者の家族構成等の資料から錦士朗にもすぐに知れる。

 それで錦士朗は彼女を諦めるか。

 父の事務所を出て行く史果を見て、鶴吉は一計を案じた。

「お嬢さん。病院でしたら、お送りしますよ」

 鶴吉は史果のそばに駆けよって、そう言った。

 彼女は国道に面した外車展示場を出て、歩道にあるバス停に向かっていた。

「病院?」

 史果は立ち止まって、鶴吉を振り返った。

 鶴吉はいつも車に積んである唯一のスーツを着ている。一見、ダンディな老紳士に見える。

「どうして、ご存知なのですか?」

 鶴吉は、彼女が病院に夫を見舞う日ではないことを知っていた。病院に行くのなら、父親が展示している外車を使うからだ。「病院でしたら、お送りしますよ」は、単に話しかける口実だった。

「実は、私は……」

 鶴吉は、「探偵」と名乗り、錦士朗から貴方の素性を調べて欲しいと依頼されたことを打ち明けた。

「まァ……」

 史果は信じられないという顔をした。依頼人の錦士朗が、彼女の夫が入院している病院理事長の息子と知ると、さらに驚いた。

「しかし、あなたが人妻と知れば、諦めます。通りすがりに、きれいなひとだな、と見初めただけですから」

「そォですか……」

 史果はちょっびり淋しげな表情をした。

「あのォ、すいません。夫のいる病院まで送っていただけますか?」

 少し逡巡した後、彼女は決心したように鶴吉に言った。鶴吉は、彼女の気持ちの変化に戸惑ったが、断る理由はない。

 鶴吉は赤いジャガーの助手席のドアを開けて、彼女を乗せた。


 3ヵ月後。カメと鶴吉は、伊豆半島をぐるりと一周したあと、三島の「神矢総合病院」に立ち寄った。

 鶴吉が総合受付に歩み寄り、冬葉鶴吉と名乗った上で、錦士朗に会いたい旨を伝えると、3分と置かずに錦士朗が現れた。

 予め、電話で訪問することを伝えていたからだろうが、錦士朗は満面に笑みを浮かべ、カメと鶴吉の夫婦を地下の喫茶室に案内した。

 3人が席につくと、まもなく、ウエイトレスが注文をとりにきた。鶴吉はそのウエイトレスの顔を見てびっくりした。史果だった。

 史果はその喫茶室の経営を、病院から任されていた。

 なぜなら……。

「ぼくたち、この秋に結婚します」

 錦士朗は立ちあがると、傍らに立っている史果の肩を抱き寄せて言った。

「しかし、キミたち、いや史果さんには……」

 鶴吉は思わず椅子から起ちあがり、非難めいたことを言いかけたが、すぐに愚問だと悟った。

 隣に腰掛けているカメのニヤついた顔を見て、すべてが終わったのだ、と気づかされた。

 鶴吉は病院までジャガーで史果を送った車内で、彼女の夫邦生のことを知らされた。

 邦生は、女性にだらしがなく、妻に隠れて常に複数の女性とつきあっていた。仕事はひとりで宝石を売り歩く宝石ブローカーで、金に不自由はしていない。

 もっとも、彼のつきあうのは、クラブや飲み屋など水商売の女だから、相手にもそれほど深い意味はないのだろうが……。

 彼にとって、いわゆる素人の女性は史果が初めてだった。40代に入る前に家庭を持っておこうと決め、外車の中古屋で出会った史果に接近し交際した。

 そのとき、史果は急病に倒れた母の看病に尽くしていた。看病に疲れた史果の心の隙間に、邦生は巧みに侵入した。

 夫邦生の見舞い客はすべて水商売の女だった。中には、ツケの支払いを求める者もいたが、大半は胃がんになった邦生に同情を寄せていた。

 しかし、邦生のがんは手術も無事に終え、早期に退院できそうだった。

 その日、史果は夫の退院が近いことを担当医から知らされていた。自宅に戻ってから必要なものを持って病院に行くつもりでいたが、鶴吉の申し出に驚き、彼のジャガーについ乗ってしまった。

 鶴吉が錦士朗の依頼について正直に打ち明けたことから、史果も心を開き、邦生の病気について、ありのままを話した。

 ところが、カメと鶴吉が三島を出た2週間後、邦生の病状が急変した。原因はいまもって不明だが、退院して3日目になるその日、翌日からの仕事復帰に向けて準備していたところ、邦生が浴室で心臓発作を起こし、呆気なくこの夜を去ったと言う。

 この事実は、邦生の死から1週間後、史果から鶴吉の携帯にメールで知らされた。鶴吉はすぐに折り返し、史果に電話を入れたが、史果は電源を入れていないのか、全くつながらなかった。

 鶴吉は三島に行けば、史果に会える、とそれだけを楽しみにしていた。未亡人になった史果が、錦士朗から多少の援助を得るかも知れない。しかし、史果が錦士朗のような優柔不断な男を好きになることは、とても考えられなかった。


「ご主人はお気の毒でしたね」

 カメは鶴吉から邦生の死を知らされていた。

 離婚したり病気で夫を亡くした女性は、再婚まで半年間の休止期間が法律上求められている。

「この秋」とは、その意味だろう。鶴吉は女性のたくましさを改めて痛感した。

 カメと鶴吉は、錦士朗、史果夫婦と別れ、病院を出ると、国道1号線を西に向かった。

 ジャガーのエンジンが心なしか、勢いがない。

「あんた、あの子にこっそり会うつもりだったンだろ」

「あァ、いやッ、そういうことはない」

 カメはジャガーのハンドルをゆったりと握りながら、夫の横顔を盗み見た。

「なに言ってンだい。昨日、伊豆高原で、こっそりジャスミンの香水を買っていたじゃないか」

「あ、あれは……」

 あれは、史果の大好きな香水だ。ジャガーの助手席に乗せた時、気がついた。

「どうしたヨ?」

「だから、あれはおまえにと……」

「あたい? あたいはここ20年香水なンて、使ったことがないやね」

「だから、使って欲しいと思った。それが悪いかッ」

 いつもの喧嘩が始まりそうな雲行きになり、

「まァいいやね。あんたはすぐに惚れるけど、すぐに振られるから。それより、史果さんの、気づいたかい?」

「なにが?」

 鶴吉は、史果の一段とイロッぽくなった美貌にうっとりして、錦士朗が憎らしくて仕方なかった。

「おめでた、だよ」

「史果さん、妊娠しているのか」

「だから、デキちゃった婚なンだよ」

「あの野郎ッ!」

 鶴吉は、錦士朗のために、史果に接近したことを改めて後悔した。

                     (了)

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青信号 あべせい @abesei

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