空と陸

「相変わらずひどいな」

 船のメーターに目を配りながら海面に近づくと、防壁越しでも異臭が鼻につく。ソラはレバーを引き、船体の左右にあるヒレを展開した。翼のように大きく広がるそれはバランサーを担い、船体を海面に浮かべることに成功する。操縦席の後ろからは初めて目にする海の外に歓喜の声をあげた。.

 空は今日も、暗雲に覆われて見えない。ソラは船を停止させて溜息をついた。父さん、やっぱり青い空はじいちゃんの想像だったのかもしれない。

「いつもご苦労さまです」

 船着き場で後ろの客を降ろしていると、海面の見張りをしている男が声をかけてくる。まだ陸地に足を踏みいれたのは三度目なのだが、初回から男の挨拶はこれだった。かつては陸に住んでいたのだという。

「ここの匂いはいつでもひどいですね」

 酸素ドームの応用で島全体を覆ったらしく、島にいる人間は酸素供給装置をしていなかった。船に乗っていた調査員が全員降りたことを確認して、ソラも船を降りる。島は灰と溶岩に囲まれていて、学校で見た画像そっくりだった。

「これでも少しずつよくなってるんです。植物室の先生のおかげですよ」

 ほら、と船着き場の男が指す先には箱型の白い建物があった。建物から出てきた人影が調査団を迎えいれて談笑をしている。顔までは見えない。光の少ない海中で生まれ育ったソラたちは視力が弱かった。

「まだ行ったことがないんでしょう? 見てきたらどうですか」

 調査団たちが海に戻るまでソラには時間がある。船の見張りを男に任せて、ソラは人影の方へ向かった。

 息を吸うごとに、生暖かい空気が鼻を抜けていく。ソラは顔をしかめて灰色に濁った空に目をむけた。雨の匂いだ。一粒、二粒と落ちた雨はすぐさま本降りになり、服や髪を濡らしていく。

『大人はみな、雨が降ると上を見あげるんだ。昔の癖らしいよ』 

 耳元で懐かしい声が思いだされて、ソラは空を見あげた。雨は海のなかよりもひどく濁って腐ったような匂いがした。

「誰だよ、こんなものに哀愁があるって言ったのは」

「かつて陸にいた詩人だよ。雨はここまで腐臭がするものじゃなかったらしいね」

 空から陸へ視線を移すと、馴染みのある声の主はやあと手をあげる。

「本当になったんだね、操縦士に」

「リクトが言ったんだろう。それが現実的な方法だって」

 数年ぶりにあったリクトは白い羽織を着ていた。研究者の証である。その背が記憶よりも小さく見えるのは、自分が大きくなったからだろうか。

「今でも、それしか方法はなかったと思うよ」

「じゃなきゃ、俺は調査団の送迎なんてしてないよ」

 変わらないリクトの話し方に笑みがこぼれる。

 三年前、リクトが島へ行った実験は成功していた。いまだに研究が続けられ、海中都市の調査団が行き来しては実験を重ねている。ソラは往来する船の操縦士をしていた。

「久しぶり、ソラ。来てくれてありがとう」

 リクトは手を差し伸べていう。ソラもそれを握り返した。

「まるで島が自分の家みたいだ」

「もう家みたいなものだよ」

 平然というリクトはいう。ソラは呆気にとられた。

「変わったね」

「慣れだよ。それに、僕も信じたいんだ。君と君のお父さんが言っていた空を」

「青い空なんてどこにもなかったのに?」

「今はまだ、ね。でも最初よりは植物も住めるようになったんだ」

 海中の酸素室と比べるとかなり小さい植物室に目をやって、リクトはいう。

「あれのおかげでドームの内の空気は浄化されてるんだ。最初は陸地でも酸素供給装置を外せなかった。少しずつ、前には進んできているんだよ」

 同じ歳のはずなのに、久しぶりに会ったリクトはずいぶん大人びて見えた。研究者という肩書のせいだろうか。

「リクト先生、そろそろ始めますよ」

 植物室のほうから声がして、ふたりは顔を向ける。リクトと同じ白衣を着た人が彼を呼んでいた。今行きます、と返してリクトは向きなおる。

「僕はいつでも島にいるからさ、また声かけてよ」

 まるで会うことが当然のようにリクトはいう。そのまたを聞いて、ソラが何年待ったのかを彼は知らない。彼と同じ場所に立つために都市の書庫の立ち入り許可を取得し、どれほど勉強したのか、知る由もないだろう。

「どれだけ時間がかかっても、僕は実現させるよ。研究を続けて、いつか大人たちが焦がれた地を再現する」

 手伝ってくれるでしょう、とその目は告げていた。空を語った父さんと同じように、その目はきらきらと光を灯している。

 ソラは会うまでに考えていた小言をすべて、溜息とともに吐きだした。断れるわけがなかった。

「そのために、俺は操縦士になったんだ。免許がないから海の上に行けない、なんてもう言わせないためにね」

「君らしい」

 リクトは口元に笑みを浮かべていう。

「またね」

「うん、また」

 握手を交わすとリクトはゆっくりと植物室のほうへ向かっていった。本人は急いでいるのだろうが、生まれた時から海を泳いでいたソラたちの足は地を歩くことに慣れていない。それも、陸に長くいたら変わるのだろうか。

「戻って仮眠するか」

 ひどくゆっくりとした足取りでソラもまた船へと戻っていった。

 

 雨は、気づけばやんでいた。

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碧落を海からのぞむ 雨屋 涼 @ameya_

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