約束

 次の日、リクトは学校に来なかった。

「ご家族で国の研究に参加されるので、一週間お休みとのことです」

 書類も見ずに告げる担任教師は、自分のことのように誇らしげだった。生徒たちは一瞬ざわめいた後、すぐに授業に戻っていく。ソラだけが衝撃に取り残されていた。

 昨日の帰り道のことが頭を駆け巡る。陸地の話をしてきたのはこのせいだろう。

「また、なんて嘘じゃないか」

 小さく漏らした声は誰にも聞こえていない。教科書とノートを乱雑に広げると、その隅に端末を隠した。教師に見つからないよう、ソラはニュース記事に目を通していく。

 〈陸上に戻れる日がもうすぐ!〉という見出しの下には、リクトによく似た目の男と年老いた学者が握手をしている画像が載っていた。軍服の男たちも一緒に写っている。教師がまだ板書を続けていることを確認して、ソラはそのページを開いた。

 記事には、とある海洋生物学者が大気中に蔓延するという毒素を分解できる微生物を発見した旨が書かれていた。三年の間研究は重ねられ、実用実験に値するものと評価された。その被験者として、軍人であるリクトの父が立候補をしたということだった。毒素が活発になる昼間を避けるため、出発は今日の夕方を予定しているという。

 あまりに大きな話にソラは茫然とする。教師の声など一言も耳に入ってこなかった。ここにいたいな、と言っていたリクトの声が頭の中でこだまする。

 彼に会わなければ。


 ソラは授業終わりの鐘が鳴るのと同時に教室を飛び出し、昇降口から建物の裏手に回った。誰が言いだしたのかは知らないが、『ウツボの穴』と呼ばれる抜け道があるのだ。大人には通れない、子供だけの秘密の場所である。

 頭がつっかえそうな細道を這うように抜けると、そこはもうドームの外だった。

 バレたら怒られるだろう。不安が頭を掠めるが、今は考えている場合ではない。ソラは頭を振って昼の海を駆け抜けた。会いに行かなければ後悔する。それだけは考えずとも分かっていた。

 酸素ボトルの残量も気にせずに、分かれ道の輝石灯まで突き進む。口元の装置からは勢いよく気泡が昇り、胸が苦しい。こんなに全力で泳いだのは体育祭の徒競泳くらいだろう。イワシの尾のように俊敏に動かした脚は吊りそうだった。

 痛みで止めそうになる脚を叱咤し、ソラは分かれ道の左手を進む。しばらくすると、ソラの家の二倍はある石造りの家が現れた。全体が透明なドームに覆われていて、入るには学校同様認証が必要だった。

「リクト!」

 水中船に荷物を積みこもうとしていたリクトと目が合う。ソラの姿を認めると、その目は信じられないというように見開かれた。彼の両親も声に気がついて家から出てくる。

「ソラ……?」

「よかった。間に合った」

 リクトの顔を見るなり、脚は力を失ったように動きを止めた。沈む。身体が海の底に落ちていくのを感じて、ソラは腰のボトルに手を伸ばす。酸素はもうほとんど残っていなかった。滲む視界の下で、リクトが青ざめた顔をしているのがみえる。

「なにしてるんだ、早く入って」

 ゆるやかな落下に身を任せていると、ドームは液状にソラを包みこんだ。生温かく、雨のような匂いが鼻を抜ける。ゆっくりとドームの層を通過すると、ソラは板石の敷き詰められた足場に着地した。海流に巻きこまれた時のような倦怠感に襲われて身体がよろめく。

「大丈夫か」

「どうにか」

 駆け寄ってきたリクトに短く応えると、ソラは口元の供給装置を外して直接息を吸った。全身に酸素が駆け巡り、ぐらぐらと揺れていた視界がはっきりする。慌てて酸素マスクを持ってこようとしたリクトの母に挨拶をして断ると、不安そうな顔をしたまま準備に戻っていった。

 ソラが呼吸を整えている間にも次々に荷物は水中船へ積みこまれていく。惹かれるように船に目をやると、操縦士と会話する軍服の男と目が合った。しゃんと背筋を伸ばしたその目はリクトと同じで黒く聡明な光を灯している。画像に載っていた、リクトの父だ。ソラはあたりの空気が張り詰めたような気がして深くお辞儀をした。

「ちょっと待ってて」

 操縦士との会話が途切れたのを見るなり、リクトは水中船に近寄ってなにやら話しだした。リクトの表情も硬い。親子の会話というより、先生に相談事をする生徒のようだった。

 戻ってきたリクトの手には携帯式の酸素ボトルが二本握られていた。一つをソラに渡して、リクトはベルトの装置を起動する。

「外に出よう。父にも時間をもらったから」

 両親には聞かれたくないのだろう。脚はまだ痛むが、動かせないほどではない。ソラは素直にそれを受け取ってドームの外に出た。

 近場の輝石灯までやってくると、いつものようにリクトは腰をおろした。ぷかぷかと気泡を海中に漂わせながらソラも隣に座る。

「学校は?」

「『ウツボの穴』使って抜けてきた」

「いいなあ。僕も一回は使ってみたかった」

 その言い方じゃもう戻ってこないみたいだ。ソラはこみあげる感情を整理するように息をついて、言葉を紡いだ。

「本当に、陸に行くんだね」

「うん。先に夢を叶えてごめん」

「そういうことじゃなくて」

 父親の前にいたからか、リクトは割り切ったように笑っていた。見ているソラの方が苦しくなる。昨日みたいに愚痴のひとつでも吐いてくれればいいのに。 

「危なくないのか、実験っていうのは」

「研究者も医師もいるから、きっと大丈夫だよ。毒素分解の効果は実証済みみたいだし」

「どうしてリクトのところだけ、みんなで行くんだ? ほかは大人だけなんだろ」

 リクトの浮かべる笑みが少しだけ崩れる。

「仕方ないんだよ」

「学校だって卒業してないじゃないか。まだ僕と同じ子供なのに、どうして、」

「仕方ないだろ! 母の身体が弱いんだ。それに父がみんなで行くと言った。僕の家じゃそれに逆らうことなんてできない。僕らはいつだって、大人についていくしかないんだよ」

 ソラは言葉を失った。普段、どんなに苛立っても声を荒げないリクトが大声を出していた。

「……ごめん」

 彼に言っても仕方のないことは分かっていた。それでも、悟りきったように受け入れているリクトをソラは見ていることができなかった。

「父が僕に懸けた夢を、僕は父の手によって達成できる。きっとそれが、父のしたかったことなんだ」

 呼吸を整えてリクトはいう。言い聞かせるような言葉は、ソラに分かってくれと言っているようだった。ここまで大人の言葉を受け入れようとする彼に、かけてあげられる言葉はなんだろうか。ソラは考える。ソラの父ならばなんと言うだろう。答えはすぐに出てきた。

「お父さんが望んでいるからって、リクトまで陸地を好きになる必要はないんだよ」

 それは輝石灯の下で初めて愚痴をこぼしたあの日からずっと、ソラがずっと伝えたかったことだった。リクトははっと息を飲む。その指は強く握りすぎて白くなっていた。

「僕はここで待ってるからさ」

「……君は、陸に行くんだろ」

 うつむいたままリクトはいう。その声は泣いていた。

「いつかね」

「待ってるからさ、陸に来てよ」

「戻ってこないみたいに言うなよ」

「分かんないだろ、誰もしたことがない実験なんだから」

 顔をあげて睨むように見てくる目は赤かった。

「……分かった。絶対陸に行くから」

 ソラが強くうなずくと、リクトは腕で目元を擦って立ちあがった。

「そろそろ戻らないと」

「うん。気をつけて」

「またね、ソラ。ありがとう」

「うん、また」

 握手を交わすと、リクトはまっすぐに船に向かっていった。その姿は先ほどまで泣いていたとは思えないほどしゃんとしていて、見えなくなる。

 担任教師の告げた一週間を過ぎても、彼が海に帰ってくることはなかった。

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