碧落を海からのぞむ

雨屋 涼

海の子ども



 夕方になると海は灰青にくすみ、海面がどこにあるのか見当もつかない。

 この上に島と呼ばれる陸地が浮いていると言われても、ソラにとっては空想の話と同じだった。


「本当にあるのかな、そんなもの」

 顔をあげてみても、目にはいるのは図書室の天井の明かりだけである。輝石灯と呼ばれる白石が海中の僅かな光を吸収して輝いていた。眩しい。ソラは目をしばたたかせて、読書に戻った。つるりとしたプラスチック製のページをめくる。

 最初のページには、海の上にある島にはかつて人間が住んでいたこと、大気の汚染により島に住めなくなったこと、ソラたちの住む海中都市は過去の戦争で沈んだ人工島であることが書かれている。海の上についての本はいくつか読んだが、大体同じような話が前書きとして載せられていた。すべて、授業で習ったことだった。

 ソラは軽く目を通して読み飛ばすと、ぱらぱらとページをめくった。火山噴火による地質の変化、真っ黒な溶岩に覆われた島、その材質……風景画のようなイラストも交えたそれらの説明は数百ページにもおよんでいた。最後のページまでめくり終わると、目を離して溜息をつく。


 父が教えてくれた『空』についての記載はない。


 ソラは机に固定された金属製の書架台から本を取り出すと、脇に積みあげた本の山にそれを加えた。一番上に重石を乗せて立ちあがる。簡易プラスチック製の本は、軽い代わりに重石がないと浮きあがっていってしまう。天井に本を浮かべたままにしておくと司書教諭になにを言われるか。ソラは考えたくもなかった。

「これも駄目か」

 海の上に関する本は、もう読んでないもののほうが少ないくらいである。その多くが戦争の歴史や火山噴火による環境変化についてのもので、黒雲立ち込める空の写真ばかりが載っている。戦争以前の本は見当たらなかった。

 やはり学校の図書室にはないのだろうか。ソラは腕を組んだまま唸った。都市の書庫に入るには研究者か教師の許可がいる。どう理由をつけても、図書室の本を探しなさいと言われるのが目に見えていた。

「どうにかして、海面まであがれないかな……」

 ぶつぶつとつぶやきながら書棚の前を歩いていると、入り口で鍵の開く音がする。システムが学生の入館を許可した音だった。

 図書室に入ってきた彼は棚に向かうことなく、ぐるりと周囲を見渡した。背が高く、伸縮性のある制服にもかかわらず足首がズボンから見えている。長く黒い髪は後ろで綺麗に編まれ、背中に垂れていた。

「まだいたのか」

「うん。リクトは委員会だっけ、お疲れ」

 こちらに向かってくるリクトに声をかけると、ソラは机に積んだ本の山に戻った。重石を外していそいそと書棚に戻していく。リクトは陸地が嫌いなのだ。これをきっかけに友人と言い争いなどしたくなかった。

「とっくに下校時間過ぎてるし、帰ってるかと思った」

「ちょっと調べ物があってさ。ちょうど読み終わったところだし、帰ろうか」 

 急がなくてもいいよ、というリクトの声を遮って片づけを終える。ソラが本を戻した棚をリクトはなにも言わずに見つめていた。


 入り口で学生証をかざすと扉が開く。退館が記録され、自動音声が下校を促した。

「成果はあった?」

 校門に向かいながらリクトが訊く。ソラが首を振ると、そっかとつぶやいただけで、それ以上はなにも触れてこなかった。いつものことだ。

 昇降口を通り校門までの一本道を進む。敷き詰められた板石には輝石が埋めこまれ、道全体がぼんやりと発光していた。

 校門で学生証をかざすと下校が記録されて、門のセンサーが起動する。授業終わりには生徒が殺到し行列ができるのだが、さすがにこの時間に待っている生徒はいなかった。

 ソラは慣れた手つきでベルトに付けた装置を起動する。ボトル状の容器から伸びた管は背中側を通って口元まで繋がれ、酸素の供給が始まった。

 センサーはソラの身体へ酸素供給が行われていることを確認すると外の入り口を開く。ここから先は酸素ドームの保護のない海である。

 夜の海はくすんだ暗色に覆われていた。ひやりとする海水は身体を包みこみ、ソラたちを海の住人だと自覚させる。ソラは手足を海中で思い切り伸ばした後、ゆっくりと泳ぎはじめた。リクトもすぐにやってきて隣を泳いでいる。濁った水質のせいで視界は遮られ、水を掻く腕の先がぼやけていた。

「今日はいつにも増して暗いな」

気泡を漏らしながらソラがぼやく。薄暗い海のなかで、ふたりの帽子に嵌めこまれた輝石が輝いている。さながら深海に棲むチョウチンアンコウのようだった。

「空の天気が悪いんだ。きっと雨が降るよ」

「空、ねえ」

 図書室での探し物を思い出してソラはつぶやく。その言葉が示すものをふたりは見たことがない。学校に通う子供たちはみな生まれた時からこの海中都市にいるのだから、目にできるはずがなかった。

 道のない海のなかをふたりは迷うことなく進んでいく。海中都市はそこまで大きなものではない。明かりなしで泳ぐことくらい、ソラたちには造作もなかった。

 眼下に輝石灯の明かりが薄っすら見えて、ソラは海の底のほうへ潜っていく。円状の土台の上に立つ海中都市は、沈没の際に傾いたのか斜めに建っていた。端々に立つ輝石灯も、土台と同じように傾いている。

 輝石灯まで辿り着くと、リクトはいつものように海水に磨かれやわらかくなった足場に腰を下ろした。

「僕は、空がどういうものか見たことがないんだけど」

 唐突にしゃべりだしたリクトにソラはどきりとする。彼が陸地の話を持ちだすなんて、どういう吹きまわしだろう。悪いことをしているわけでもないのに、心臓がどくどくと音を立てた。

「どうしたの、突然」

「ずっと気になってたんだ。君はどうしてそんなに空が見たいんだろうって」

 穏やかな声のままリクトは海中に言葉を放つ。隣に目を向けても、濁った海水に紛れて表情をうかがうことができなかった。かろうじて人影があることは分かるものの、ソラはひとり海中に取り残されたような気分になる。

「……珍しいね、リクトがそんなことを訊くなんて」

「最近、君はずっと図書室の本を読み漁っているでしょう。空を見たいとは前にも言っていたけど、どうして急に海の上のことを調べはじめたんだろうと思って」

 海中から声が返ってくる。静かながらも、その言葉の端々には陸地への嫌悪感が滲みでていた。ソラは気まずくなって目線を下に落とす。こういう空気が嫌だから、話題にすることを避けてきたのに。心のなかで憤ってもそれがリクトに伝わるはずがなかった。

ずっと黙っているわけにもいかずにソラは答える。

「空についてだよ。ずっと探してるんだ」

「授業で習ったのに?」

 リクトの声が急に威圧的になったように感じて縮こまる。この話はやめよう。そう言いたいのに、言葉は喉に貼りついて出てこなかった。

「真っ黒な雲に覆われてて晴れることはないんだ。海がこんなに暗いのもそのせいだよ。よく雨が降って、そのせいで海は濁りつづけてる。火山が噴火してからずっと、そのままだよ」

 それ以外はありえない。そう言わんばかりの勢いでリクトは言う。学校の教師と同じだ。

「それは、」

「僕には、どうしてそんな場所を見たいのか分からない。大人たちがあんなにも陸に戻りたがって、海しか知らない僕たちに願望をぶつけるのか分からないよ」

 リクトの声は次第に絞りだすようなものに変わっていった。ソラは反論の口を閉ざしてうん、と頷く。姿を見なくともうなだれているのが分かった。父親になにか言われたのだろう。同じような姿を、ソラは前にも見たことがあった。


 一年生の頃である。名前の由来を調べる課題が出たことがあった。多くの生徒が陸への願いをこめた名前であったから授業自体は退屈で、ソラは他のクラスが外で競泳しているのを羨ましく眺めていた。

あの日の帰りも、輝石灯の下でリクトは同じようにソラに問いかけ、うなだれていた。

「僕は海が好きなのに、どうして父や大人はみんな島に戻れというんだろう」

 ほかの生徒と違ったのは、彼の父が軍人で、その名前への期待はほとんど使命だったことだ。ソラも『空』を見てほしいという父の願いによる名だが、それとは比べものにならない重石がリクトの背中には乗せられていた。

「自分たちは戻れないくせに、大人は勝手だ」

 けっして大人には言えない言葉を、リクトはその日たくさん吐きだした。ソラは黙ってそれを聞き、次の日から海の上の話を持ちだすことをやめた。


 ごうごうという音とともに都市の隙間を海流が通りぬけ、ソラの髪を揺らした。輝石灯の明かりが一層白く光っている。夜が深まりつつあった。

 声をかけなければ。そう思って口を開くも、なんと言えばいいかが浮かばなかった。いたずらに腰につけた酸素ボトルの中身だけが減っていく。あまり時間は残されていなかった。

「僕はでも、空を見てみたいって思うよ。本当の空はそんなものじゃないって、父さんが言っていたから」

 意を決して口にした言葉はわずかに震えていた。リクトが今にも怒りだすのではないかと身構える。沈黙が続き、強くなってきた海流の音だけが耳に届く。言わないほうがよかったかもしれない。言い繕おうかと悩んだ時、リクトは顔をあげた。

「……それは、どんなもの?」

 海が暗さを増したせいで輝石の周りだけがよくみえる。リクトは先程のとげとげしさを内に潜め、努めて穏やかな声で言った。期待を込めるような視線にソラはほっとする。父の姿を思いだすと、よく言ったと笑っている気がした。

「本当の空は、とても澄んでいて青いんだ。夜になると月と星っていう輝石灯みたいに光るものが浮かんでいて、とても綺麗なんだって」

「それが、君のお父さんが見た空?」

 学校の授業ではまるで習わない話だ。リクトは目を丸くしていた。

「そう。陸地には緑がいっぱいで、空には魚のように泳ぐ生き物がいたんだって。全部じいちゃんから聞いた話らしいけど」

 眠る前、ソラと話す父は物語に夢中な子供のようにきらきらとした目をしていた。大きな腕を広げて見知らぬ地を語る父は決まって最後に、俺も見たことはないんだけどな、と言って笑っていた。

 父の声がつい最近聞いたもののように思いだせる。ソラは胸の奥がつっかえるのを感じて拳を握りしめた。そろそろと息を吐いて呼吸を整える。口元の装置から気泡が昇っていく。

「……そんなこと、僕の父は一言も教えてくれなかった」

 呆然とリクトは言葉を漏らす。どこかその声は拗ねているようだった。多分、知らないんだとソラは答える。

「図書室の本も見たけど、どこにもそんなことは書いてなかった。じいちゃんは空の船のパイロットだったんだって。だから、本に書いてないような場所にも行ってたのかもしれない」

「君はそれを信じてるんだね」

「信じたいんだ。約束もしたしね、父さんと」

 いつかじいちゃんの話が本当か確かめに行こうと言われたことを思いだして、ソラはうなずく。胸の奥に膨らむ想像の空を父さんとじいちゃんに報告することがソラの夢だった。

「君が羨ましいよ」

「リクトも一緒に行こうよ」

 言葉は海流のようにするりとソラの口からでてきた。このタイミングを逃したら、リクトとは二度と陸地の話をしないだろう。なんとなくそんな気がしていた。

 リクトは息が詰まったように無言になり、それからそっと泡を吐きだす。

「どうやって? 検討はついてるのかい」

 今度はソラが言葉を詰まらせる番だった。

「水中船、かな」

「あんな高価なもの、どこから借りてくるんだ? 僕らふたりとも免許を持っていないのに」

「……じゃ、じゃあ、フィンでもいい。泳いで行ってみるんだ」

「海面まで何マイルあると思う? そんなに大量の酸素ボトル、持っていけないよ」 

 提案はことごとく否定され、ソラは黙りこむ。どれも現実的でないことは分かっていた。もし海の上に行く方法があるならとっくに挑戦している。それが見つからないから、図書室の本を片っ端から調べていたのだ。

「そうだよなあ」

 なにかいい方法ないかなあ、とソラがぼやく。リクトは足場を蹴って海中に浮かびあがると足を動かしてその場に揺らめいた。

「一番現実的なのは、免許を取ることじゃないかな」

「それは考えたよ。でも、今すぐには行けないじゃないか」

「フィンで泳ぐよりは早く着くんじゃないか?」

 背を正して笑みを浮かべるリクトは、いつもの調子を取り戻したようだった。ソラも安心して立ちあがる。次から調べものをしていても隠さなくていいだろう。

「ほかの方法も探してみるよ。見つけたら教えるからさ」

「まあでも、僕はまだここにいたいかな」

 リクトは小さくぼやくと、ベルトに吊ってあるボトルに手をあてた。お互い大して酸素が残っていない。急いで家に帰らなければいけなかった。

「また明日」

「……うん、また明日。今日はありがとう」


 リクトは背を向けると長い手足を緩慢に動かして泳ぎだした。ゆらりゆらりとうごめく影は、すぐに輝石灯の明かりから外れてみえなくなる。ソラはその姿を見送ると、反対の帰路についた。

 どんなに暗くとも帰れる道を泳いでいくと、頭上でかすかに水の跳ねる音がした。雨だ。聞き慣れた音に見向きもせずソラは海中を泳ぐ。

 輝石灯の近くを通りすぎると、数人の大人は雨の音を見あげていた。空を知っている者たちの習慣らしい。 少しずつ海中に入りこんでくる雨の匂いにソラは顔をしかめる。濁った水のような独特な匂いが苦手だった。海面に出たらもっと強まるのだろうか。

 家の輝石灯が見えてきて、学生証をかざす。酸素ドームのなかに入ると匂いも遮断され、不快感が治まっていく。音だけ聞こえる雨に、ソラは大人たちに倣って上を見あげた。

「行くなら、雨じゃない日がいいなあ」

 

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