第36話 ケビンの工房
自分の工房を造る。
会長の説明に脳の処理が追いつくまで、五秒ほど掛かった。
「え、えぇぇぇぇ!?」
次いで出たのは、ここ最近どころかケビン・オーティアとなってから初めての驚愕と絶叫――。
「い、いやいやいや、ちょっと待ってください! 話が大きすぎて何が何だか……。 何がどうしてそんなことに? 大体、僕の時計を工房でなんて――」
「前にも言いましたが、君の時計の評価は決して低くない。 それは私だけでなく、商会の者全員が太鼓判を押している」
「それはとても嬉しいです。 いや、ですけど……」
「それに、需要と供給が追いついていないと言ったでしょう。 私が交渉に出向く先で、いつも何て言われているか知っていますか? “オーティアの時計なら、いくら出しても構わない”です。 ケビンの時計は、既に多くの顧客の心を掴んでいる」
「ですが、工房なんて規模になると、僕の手には負えませんよ……。 それこそ、僕の時計を贔屓にして下さっている方は良い顔をしないのでは?」
自分の作る時計のクオリティーにはそれなりの水準以上だという自負はある。 しかし、自らの手から離れたものには責任は持てない。
「もともとケビンの時計を愛用している人たちはそうでしょう。 ですが今回のターゲットはもっと大衆に向けたものです」
「大衆……」
「そうです。 モータリゼーション同様、各家庭、個人にも時計が普及し始めていますが、こと懐中時計という分野では、まだまだ個人での所有が難しい時代です」
「それは、価格の問題ですか?」
「はい。 複雑な機構を手のひらサイズに納めるという行程はどうしても人の手が必要で、しかも相応の技術力をもった人間にしか行えない。 故に、どうしてもその価格は時に乗用車と並び立つほどに高額となってしまう」
「確かに、日用品というよりも工芸品という側面の方が強く現れていますね」
それを知らなかったケビンは時計をつくりはじめた当初、練習目的で組み上げた時計をバーンウッドの人々に何の思惑もなくプレゼントして回り、その際正気を疑われる程度には驚かれた。
当然の反応だろう。 なにせ、突然バーンウッドの新顔が現れたと思ったら、まるで華でも配るかのような素振りで車一台と同等価値を持つ懐中時計を無償で手渡してきたのだから。
「手の平に収まるほどの時計は、個人が所有するにはあまりに高価です。 他所から来た人間がこのバーンウッドを観れば、その異様さに舌を巻くでしょう。 民の殆どが一級品の懐中時計を手にしているのですから。 これは、ある意味革新へと向けた足掛かりです。 全ての人々が、時間を身近に感じられる時代を、あなたが作るのです」
「そこまで評価していただけるのは、本当にありがたいです。 手引書があったとはいえ、独学で作り続けていたものに、そこまで言っていただけるとは……。 ですが、やはり僕に工房を回していけるだけの能力はありません。 僕の時計作りは、いうなれば趣味の延長にも近くて、それを会長の厚意と手腕で売りさばいていただいてる状態というのが実情です。 それを大衆用にというのは……個人で時計を作るだけで精一杯ですよ」
「ええ、私たちもあなたからライフワークを取り上げようとか、変に責任を押し付けようなどとは微塵も思っていません。 時計のブランド力には君のオートクチュールが必要不可欠ですからね。 だから、君には大量生産を行うための工作機械を作るために尽力していただき、さら監修として名ばかりの役職に就いてもらい、あとは基本自由です」
「そういうことだケビン、時計のブランド力と信頼性はキルベガン領の公爵とリュネットのカクラム商会が押していくから、お前は今まで通り、好きに時計を作ってくれればいい。 だが、リュネットの言うように、役職には就いてもらうぞ」
「……」
もはや、何と返答すればいいのかも分からない怒涛の展開に、当のケビンは二の句がなかなか出てこない。
自分は素性の知れない、町はずれの一介の時計職人
だったはずだ。 それも趣味の延長であり、ただ、その日を生きていけるだけの日銭を稼ぐ為にやっていた時計作りが、まさかの自分の知らないところでとんでもなく大きな話になっていたのだから無理もない。
「そう遠くないうちに、ケビンはマイスターとして認められるでしょう。 そうなれば、商会としてマーケティングをするうえで立ち回りの幅が広がるので、大いに助かります。 言うなれば、今回の話はその足掛かりの様なものです」
うんうんとリュネットが一人何かを納得しているが、それはギルバートも同様だった。
「おお、そうなれば私としても安心だ。 当人同士は気にせんだろうが、やはり世間体を考えると、一緒になるにはそれくらい箔があった方がうるさくないだろう」
「せ、世間体? 一緒にって、何を言ってるんです?」
その問いに、ギルバートとリュネットは鼻で笑って口角を上げていた。 ついでに意味もなく眼鏡の位置を治す。
「ギルバートの言う通りです。 それに、キルベガン公爵は各方面に顔が広い。 ケビンの過去を調べるという意味でも、そういったコネクションは、君自身が持っておいた方がいい。 きっと今後も役に立つでしょう」
「はい、それは……そうかもしれませんね……」
ケビンの情報は、未だに有益なものは何一つ集まっていない。 記憶を失ったあの事故から幾分時は経っているが、しかし、捜査に諦めを感じたことなど一度もない。
ならばリュネットの言う通り、自分の方から能動的に動ける土台を作っておいても、得になりこそすれ、悪い方には働かないだろう。
「それに、お前が稼いでくれれば、私の機械いじりに援助してもらえるかもしれんしな」
「そこが本命ではないことを信じていますよ、ギルバートさん」
こういうおちゃめというか、強さだけではない、童心を思わせるところが、領民から愛されている所以なんだろう。
「……ギルバートさん、会長、本当にありがとうございます」
この話は既に纏まっていて、先行きの見えなかった自分の未来を作るために多くの善意のもとで、最上の道を作ってくれた。
過去を失った自分が得るには、身に余るほどの厚遇。
現在のような状況を、結果を、望んで選択したわけではない。
しかし、ここで再びケビンとして生き、構成してきた根幹がこの結果を引き寄せた。
ここで遠慮して、折角の交渉を白紙に戻したところで事態が好転することなど無い。
この提案の先に本来の自分を取り戻そうと、そうでなかろうと、もはや受け入れないという選択肢はありえないのだ。
「喜んでお受けします。 正直、まだ戸惑いの方が強くありますが、精一杯頑張りたいと思います」
ギルバートはケビンの返答を聞いて、笑顔で頷いた。
「ありがとうケビン。 だが、変に畏まることはない。 何度も言うが、お前はこの領地と、私の家族を守ってくれた。 この程度の報償は足りないくらいだ。 どんと構えて受け取ってくれ」
そう言って満足げに背もたれへと体重をかける。
内心、断られたらどうするかなど考えていたのかもしれない。
ほっとした様子でギルバートとリュネットが目配せなどをしていると、応接室の扉がノックされる。
「父さん、王都からの使者が来た。 なんか、慰安だって言ってるけど」
神妙な顔つきをしたベルカが部屋に入るなりそう切り出した。
「何? それは……まずいな」
そして、娘と同じように神妙な顔をして口元を隠すギルバート。
「え、どうしてですか?」
「ケビン、私は未だ傷病で臥せっているということになっている。 王都からの要らぬ追及やいざこざに介入せんようにな。 しかし、それでも来たということは何かしら思惑があるのかもしれん。 だから、二人ともすまんがここで少し待っててくれ。 私は着替え次第、ベッドに潜らねばならん。 まったく、病の振りなど子供の時以来だ」
心底面倒だという顔をしたギルバート。 それを聞いたリュネットはソファーから立ち上がる。
「そういう事なら、私は商会に戻ります。 ケビンも、この後予定がないなら一緒に行きませんか? 先ほどの話を、少し詰めておきたいのですが」
「はい、僕は大丈夫です」
「なら決まりです。 そういうわけでギルバート、しっかり病人のふりを演じてくださいね」
「まかせろ。 そういうのは一度もばれたことがない」
ギルバートは今日一番のキメ顔でそう言った。
ただ、それを聞いてケビンが思ったことは、絶対にベルカには何度かばれているだろうということだった。
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