8.語らない樹氷
『――おはようございます』
毎朝の『挨拶運動』に初めて参加した私を奇異の目で見るものは無く、友人、知人、全くの初対面の相手でさえ気持ちの悪い笑顔と心臓が澱みそうな声色で応えてくれた。
何度目だかはわからない卒業までの時間はあまり無い。だからなのかも知れないが、やけに校門から下駄箱、昇降口に至るまでには生徒が心なしか多い。あれだけ煙たがっていた『学園』の慣習にわざわざ参加してみようと思ったのは幸人の何気ない誘いがきっかけなのだが、その光景の不快さは想像以上だ。
『ま、嫌がるのもわかってるけどさ。……もしかして、まだ怒ってるのか? 夏休みのこと』
『怒ってません。別に人間嫌い、ってわけでもないし。ただなんか……』
『なんか?』幸人は校門脇で残っていた雪が溶けきらずに氷になっているのに気づかず、またも足を滑らせて転びそうになった。
この幸人も、夏休みには私を自慢してまわり、『学園』の裏口で私を待ち伏せしてくれて、『凍れる湖』のレコードを貸してくれたのだ。そして、恐らく明日か明後日には姿を消すのだろう。
『乗り物酔いみたいな感じがするの、ここにいると』
『それじゃ仕方ない、さっさと教室行くか』
慣れてゆくのが怖い、違和感を抱かなくなってゆくことが怖い。
釘と螺子の姿は初対面の時以来、一度も見ていない。けれどかれら、そして目の前の幸人もまた私以外の誰かの夢を形作る、世界を彩る音を鳴らし続けているのだ。
――音。
そう言えば、『凍れる湖』のレコードは結局のところただの一度も聴いたことが無い。単純に再生機器が存在しないからというのがその理由なのだが、CDあるいはカセットテープといった媒体は無いのだろうか?
『ない』
幸人はそんな私の期待を瞬断した。尋ねる間もなく。廊下を駆けてゆく靴音。すれ違う誰かの鼻歌。どうでもいい事で響く笑い声。筒抜けなのに気づかないのは話してる奴らだけの噂話、または陰口。ノートを叩きつけるように書き込まれる鉛筆の文字。白い煙を掃きながら擦れる黒板消しの音。すべてを黙らせるチャイムの音。
そんななか、聴くことが許されない『凍れる湖』。変わるようで変わらない、私の毎日。夢。
『なんか今日の聖、変じゃね? 具合でも悪いのか』
教室の席に座った途端、幸人が心配そうに私のおでこに右の掌を当てる。
『別に、熱なんか無いよ。さっき、ちょっと人の多さにあてられたかな。……保健室、行ってくる』
『慣れないことすっからな……したくないことは無理しないで良いんだぜ』
考え事がゴミ捨て場のように堆積していて、何から整理すればいいのかわからない。幸人の同行を固辞して、私は教室をあとにした。階段を下りる足元がふらついたりしていないあたり、彼の言うほど体調は悪くない筈だ。
『――失礼します、少し具合が悪いので』
あの螺子という老婆が出てくるかと思っていたが、応対にあたってくれたのは見知った顔の校医の先生だった。微熱があることを確認したうえで、少し休めば大丈夫だ、との言葉に安心しベッドに身体を横たえる。寒暖差のとくに激しい時期だから、風邪でもひいたのかもしれない。
――眠ろう。もう夢をみることは無いのだから。
おやすみ。凍れる湖のその下で、死んでることにさえ気づかず生きてる私よ。
【語らない樹氷】
最早清掃人は、その職務を放棄するよりほか少女をどうすることも出来なかった。荒れ放題、散らかり放題、汚れ放題の部屋をもとに戻すより先に、かれの寿命が尽きてしまうだろう。いや、それさえ気にしなくても構わない。清掃人のなり手など、他にいくらでもいるのだから。
何者でもなくなったかれは、寒さに震えながらも少女と身を寄せ合いながら建物の周辺を眺める。何もしなければ湖を滑るように吹き付ける風にあっという間に体力を奪われてしまうだろう。
――何処へ向かうべきか。うかつに厚い雪のなかへ踏み出せば、すぐに行き倒れてしまうだろう。かれには既に時間の概念はなかったが、比較的空の明るい今は昼なかば、といったところだろう。陽が沈むのは極端に早いので行動は急がなければならない。
ふと少女はある方角を指差した。見るとその先に生えている木々の周りから水滴がしたたり落ちている。雪が溶けているのが早い。
南、か。かれは少女とうなずいて、その方角へ力強く歩き始めた。
誰かが、北から訪れる。
それは私の故郷よりも遥か遠くから音よりも速く、言葉よりも確かに。その目的が定かである筈は無いのだけど、辿り着く場所はきっと『学園』だ。五分眠れば五分で完結する想い出を見る。そして、そんな辿々しい記憶の残滓こそ物語であって、鳴り響く音楽だ。
その調べが、いつまでも何度でも繰り返される私の世界。
私の『学園』。
私の白く清浄なる部屋。
私はその清掃人。
だとしたら、幸人は私を導く少女? 何の為に? 愚かな妄想から目覚めるよう、
針を刺すような痛みの、螺子を廻すような軋みの、釘を打つような騒々しさの記憶。
それが縋りつく遠い昔のことなのか、逃げ出したことさえ思い出せそうな直前のことなのか。
いずれにしても私は、北から訪れる何者かに逢わなければならない。それが勿論、幸人では無いとしても。保健室の壁掛け時計は夕方の五時を指していて、空は既に暗く染まっている。
『そうだな、聖が初めてここに来たときみたいに』
幸人――針、が保健室の引き戸を開けて立っていた。
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