9.【 】
『どのくらい前のことかはわからないけど、平穏を望むひとりの人間がいた』
子供におとぎ話を聴かせるような口調で、幸人は語り始めた。『人種、性別、出自、身体の強弱、富や貧困、それらに根差す幾つもの不平等。競争、差別、支配と弾圧。世界はつねに、そんなものに溢れていた。誰もが疲れて時に倒れながら、決してそれを止めることはしない。なのに時に人は助け合う。協力する。互いを友と呼び、愛し合うことさえする。そんな世界の矛盾を一掃するために、その人はすべての音を止めた。いっぽうで永遠に繰り返される、目覚まし時計みたいに全てが規則的な音を生み出した。――ちょっとわかりにくいか?』
『それは人間、ううん――神様じゃないの?』
『人間は誰でも神様になれるよ、自分自身に対しては』
幸人は言いながら、校医の先生が座る椅子に腰を下ろして、それを一回転させて私のほうを見た。背もたれの軋む不快な音がする。
『その人――平穏を望んだ人は今、どこに居るの? 何をしているの? 私がずっとこの『学園』で同じ時間、同じ人と過ごすのをどこかで見てるの?』
『ああ、見ているよ。とても幸せですばらしい夢をね』
(あなたは夢のなかで、夢を見ていたの)
釘が、いつしかそう言っていたのを思い出す。確かに夢はその人だけのもので、平穏だ。理想郷では無いとしても、夢を創り出している限り矛盾は矛盾の形態をとることは無くそこに湧きあがるいくつかの不条理(おそらく件の挨拶運動とかがそれにあたるのだ)や混沌も、私自身の存在を脅かすものではない。望んで、耽溺し続けたものが夢であったとして、それを誰に責められるというのだろう? 実際に『学園』は突然消失したり――消失?
『だとしたら幸人、どうしてあなたはいつも居なくなるの』
一瞬、世界から全ての音が消えた。本来与えられるべき白く、清浄で、透明な空気。そこには幸人も、私さえも居ない。その峻烈にして穏やかな瞬間は、真にそれを欲した
『――被験者は常に不足を感じなければならない。満ち足りてしまえば個人は神になり、他者はそれを死と呼ぶから。俺が聞かされてるのは、そんなところだ』
ひけんしゃ? 私を夢見ているあなたのことか?
つまり、『学園』が恋人や親しい友人に囲まれ、何もかも私を傷つけることなく、誰かが私の所為で不快になるようなことがなくなれば私はこの二度と目覚めることのない夢に耽溺してしまうということか。
『――全ての人間が夢を見ることを覚え、あらゆる事を
どこからか、螺子のしわがれた声色がした。
『一年ニ一度ヲ基準トシ、被験者ノ内的体験ニハ欠落ヲ設定シナケレバナラナイ。欠落ハ第三条一項ニ定メラレタ『凍レル湖』ヲ以テ執リ行ウコト。……随分抽象的なハナシよね、でも仕方ないでしょ? 何を求めていて何が足りないのかなんて、人それぞれなんだから』
今度は釘の、小鳥が囀ずるかのような声だ。
『学園』が誰かの見ている夢だとして、それはいつかは覚めるように、溺れないようにする為の仕掛けが存在するのだ。
それは、おそらく複数。そのどれも、私を目覚めさせることは無かった。だから仕掛けのひとつに違いない『八木幸人』は何度でも私の前から居なくなるし、ある時全てがなかったことのように始まるのだ。朝霧聖の、かけがえのない恋人として。
『あんたは、失ったものが大きすぎて、求めるものもまた多かった。でも、何も置いていない部屋にはモノを入れてはいけない。それが小さな汚れを生むから。その清浄で純粋な聖櫃を守る為に、楽しいことや大事なものだけに囲まれた物語を欲した。それは珍しいことじゃありません。よくありすぎるからシステムが出来て、それを運用する為の法と管理者が生まれたって事ですよ』
幸人の口調が変わった。いや、彼は既に私の知らない誰かだ。そもそも彼や私が想像やイメージによる被造物だとして、本物の八木幸人なる人物は別に存在しているのだろうか?
螺旋階段で向かい合うふたつの人影。
遠く北の地から、こちらへどれだけの時間をかけたのかわからないほど長い旅を続け、私に会いに来る誰か。
廻り続ける、存在しないはずのレコードプレイヤー。鳴り響く日々の音。
『パスワードが、あります』
幸人、いや針はそれまで見せたことのない冷たく穏やかな目で、事務的な言葉を口にした。
『聖、あなたが
そう、ここは学ぶ園なのだ。
私がなんの為にここに辿り着いて、なんの為に幸人を始めとする人々との出会いを繰り返して、なんの為に同じ場所、同じ時間を走り続けることになったのか。その答えは『学園』の外にしか無い。
赦されなければならないようなことをしたのが、私を夢見る者が誰か。その人物に語って聞かせることのできる話は山ほどあっても、伝えたい言葉はひとつだけだ。
『ああ、それがパスワードだぜ』
『考えてること、読めるのね。やっぱりゲーム好きはこれだから』
『そっちこそ、俺の考えてることはわかるだろ? もうシステムを起動してられる時間は殆どない』
『次の被験者の為にシステムの設定から更新から、大忙しだものね』
それが幸人でも、針でも良かった。私はただ、他愛もないことで彼と笑い合いたかった。それだけで、それが最後に果たせたことに安堵して、大体の男女がそうするように名残惜しさに少し泣いた。抱きついたりはしなかったけど。
『――本当に大切なものは、心の奥底に仕舞い込んで。決して他の人には見せてはならない。見せてしまえばそれは、私だけのものでは無くなる。だから』
その続きを口にした私がやがて見るのは現実で、きっと別の夢。
あとのことは、あなたに頼みます。
私は針、いや、それは本当に八木幸人だったのかもしれない。彼の視線に応えるように最後の言葉を口にした。静かに。私自身にも聞こえないほどに。
『だから、これを見ることのできる君は――私の心だ』
夜空に星々が瞬き始めていた。『学園』から下り坂になっている階段を一歩一歩踏みしめる。背後を振り返ることは決してしない。夢の中で見る夢が、惨たらしく崩れおちてゆく光景など目に映す意味が無い。
ほんの数歩下ったところで不意に現れた人影に接触しそうになり、慌てて身を翻した。
『だ、大丈夫……です……か』
語尾が消え入りそうな、身体には似合わないか細い声で目の前の人物は言った。
その顔は私の知っている幸人とはだいぶ異なるのだが、螺旋階段の途中でつねに向かい合っていた人物は紛れもなく彼だった。
泥と水のようなものの痕が残る、うっすらと灰色がかった――多分、もとは白かったのだろう――ツナギを着た若い男は、冗談のように胸元のポケットに何やら花を挿している。無造作な髪と自分より頭一つくらい高い背丈。
『どのくらい、遠くから来たの』
彼自身にも判断は出来ないだろう質問を投げかけた。困った顔は錯覚を覚えるほど幸人を連想させる。
互いに無言の時間が、ほんの少し。
『俺、たどり着いたのか』
戸惑う声はどこか、安堵と寂しさ、そして取り返しのつかない悲しみの音がした。
人の感情さえ、音楽に変換されるシステム。だとしたら歌手は私で、幸人や立川君、校舎の入り口で挨拶運動をする生徒たちはバックバンドで――目の前の男は差し詰め指揮者、といったところかもしれない。
『……綺麗な、薔薇ね』
知りたいこと、聞きたいことは山のようにある。けれど遠く北の湖に佇む小屋から一輪の花だけをたずさえてやってきただけの人物に、それを問うのは無意味だ。
目の前の彼もまた、システムの一部に違いないのだから。
ツナギのポケットから一輪を取り出し、彼はそれを私の目の前に突きつけた。
『…………あげる』
やはり語尾が聞き取りづらい。よく見ると震えている軍手のなかで可憐な薄桃色の花を咲かせている薔薇は、ほのかな甘い香りを漂わせている。
そのまま凍え死んでしまいそうな表情のまま、彼はちらりとこちらを見据えていた。
『ありがとう、受け取ったよ。私の物語を』
私の知る八木幸人なら、『卒業証書』とでも冗談めかして言うのだろう。
その頬にはうっすらと涙を浮かんでいた。それを無機質なシステムの一部などと切って捨てることなどどうして出来るだろう。何かのバグだと冷たく割り切ってしまうくらいなら、私は『学園』を『学園』のままに占有しつづけていたことだろう。
私の脇をすり抜け、背後に広がる闇の中へと過ぎ去ってゆく姿を目で追うことも無く、掌に残された薔薇を思わず強く握りしめたその瞬間、指先に痛みが走った。
その痛みだけは。『学園』が、
螺子と、釘と、針。外見も用途も似通っているのに別々に存在する。
そんなものが、もうひとつ存在した。
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