SIDE:B

6.許しを乞う人

 目に映る世界が昨日も今日も変わらぬ姿であろうとするのは、誰の為だろう?


『一言でいえば、セラピーなの』

 

 釘はおよそ――失礼な言い方をすれば妖しげな容姿に似つかわしくない親し気な声色をしていた。

 セラピー、と言われても耳にすることは多いが実際どのようなことが為されるか、あまり考えたことなど無い。アロマオイルとか、植物とか犬や猫、そういったものが何となく頭に浮かぶだけ。そして、それは現在誰が誰に対して行われているのかも、唐突過ぎて何を言い返せばいいのかもわからない。


『――ハ、常ニ被験者ニトッテ理想的カツ最善ノ環境ヲ事前ノカウンセリングニテ調査、分析シ提供サレルヨウ努メナケレバナラナイ。被験者ハ特定ノ人種、性別、年齢、思想信条等ヲ問ワズ各公的機関ヘノ申請ニ基ヅキ選出サレル為、特例ヲ用イルコトナク複数ノ類型的モデルケースヲ運用スルコトトスル第二項ノ条文ニ必ズシモ合致シナイ例モ存在スル。別紙1ニテ想定サレル質問オヨビソノ回答ヲ――』


『ちょっと待って、また意味わかんない』


『……っと、ごめん! またやっちゃったみたい……』


 釘は深々と頭を下げて、思考の窺えない笑みを浮かべた。


『少し、私の話を聞いてくれる……のかな』


 相手が軽く頷くのを確認して、私は軽くひと息ついた。とはいえ、何から尋ねたら良いのだろう。最優先は行方をくらました幸人のことなのだろうが、保健室の彼女――螺子の言うことにはかれらはという。釘が語る怪しげな言葉の羅列は、それを端的に証明しているように思えた。私が子供の頃を過ごした雪と氷に覆われた北国と、この『学園』とは異なる軸にあるというのだろうか? だとしたら『学園』とは何なのだ?

 ――そして何より、私は何故ここにいるのだ? 少なくとも三年間、友人知人、さして親しくもない相手の存在を私は認識している。幸人がそのなかでも特別な存在だというだけで、彼も――私の知らないどこかから現れて、どこかへ消えてしまったのだろうか。

 もう卒業まで、そう長い時間があるわけでもないのに。


『……やっぱゴメン。ちょっと、海へ行こうか? 口でごちゃごちゃ説明するの苦手なんだ、螺子のババアと違って』


 釘はこちらの返事を待たずに、視線を屋上の隅へ向けた。やはり私の話を聞いてくれる気は無いのだろうか?


『そんな、怒った顔しない。ちゃんとわかってるから、あなたの考えてることは』


『怒ってるのわかるなら、何かひとつくらいちゃんと答えなさいよ』


『百聞は一見に如かず。それともまた、えーと……6月15日の議事録ニヨレバ――』


 また意味不明で長い話を聞かされそうになったので、大人しく引き下がることにする。


『海って言ったって、あそこ誰も行ったこと無いよ。ていうか道とかわかってるの?』


『わかんないけど、行ける』


 そう言うと釘は、どこからか取り出した――スマホにしてはサイズがやや大きい、板状の機械を取り出した。最初は持っている右手の空いた指だけで操作しようとしていたが、どうもそれでは扱いが難しいようで左手も使ってしつこく画面を叩いている。


『それ、モノリスってやつ? もしかして』


 軽口に少しだけむすっとしたようで、左手の動作をよりスピードアップさせる。


『ああもう、メモリ少なすぎ。やっぱり『機能のコンボイと、性能のミカン』だなぁ。……絶対買い替えたるっ』


 その悔しそうな口調と同時に世界が暗転する。呼吸が止まる。音が、匂いが、冬の冷たい空気が消える。目の前も足元も、釘の存在すらも消える。消えたんじゃない、感じ取れないのだ。重力からも切り離されて、私は私の存在を除くすべてを失う。

 無と有、その狭間を漂うこと――およそ30秒。


 幸人は私と比べると交友関係が広かった。

 『学園』が夏休みの時期に入ると、早速近隣のプールがあるレジャー施設に誘われた。まさか『学園』指定の水着では様にならないから、と思って彼には極秘に用意しておいたその頃人気だった若干、というより自分でも冒険だな、と思う派手めな水着を用意して参加したところ、幸人は驚くと同時にその幅広い友人知人、諸々の関係者に自慢するように私を紹介した。過剰な注目を集めたことに驚き、恥ずかしい思いをし、それ以上に見世物のように扱われたことに憤慨して早々に制服に着替えてしまい、寮へ帰ってしまった。

 以降一週間くらい、寮まで毎日謝りに来た幸人には決して会おうとはせず。

 彼と喧嘩らしい喧嘩、といっても一方的に私が怒っていただなのだが、今となってはそんな恥ずかしさと怒りさえも、懐かしい感情に思えた。


 真冬の海に冷たい潮風がすっかり暗い影に覆われた海面から吹きつける。

 そこは誰も来ることのない、海。灯台は煌々とした光を放ち、夜とそれに伴う危険の訪れを告げている。


『なんで、この場所に誰も来ないかわかる?』


 釘の呼びかける声で、私は感傷から我に返った。


『なんでって……みんな大して興味が無いんでしょ』


『違うよ、来る方法が無いの。ここは、夢の外だから』


 釘は右手の人差し指を夜空に向けて突き立て、見上げるよう促した。

それは頭上何メートル上だろう、鉛色の液体らしきものが揺らめいている。波打っている。寄せては返し、それはまるで海のように。

 ――海なのだから、当たり前だとは何故か思えない。

 私は視線をふたたび地上に戻して、砂浜に立つ釘の向こうに広がる光景を見た。

音のひとつも立てない波が、小さく跳ねた。


『あなたは夢のなかで、夢を見ていたの』


 釘の語る言葉、それは声ではあったが音ではなかった。

 屋上で逢ったときからずっとそうだったと、いま気が付いた。

 

【許しを乞う人】

 結局のところ清掃人は、少女をそのままにしておいた。しかし言葉を発すること、不要な音を立てること、更なるごみを捨てることは厳に禁じた。意思の疎通を図ることもなくふたりは、来る日も来る日もただそこに居た。清掃人は清掃人の仕事を続け、少女は置物のように微動だにしない。ひとりでなら耐えられる沈黙も、ふたりではそうはいかない。そのことに心を惑わせた清掃人はある月の無い夜、一度だけ会える主人の姿を見た。

 正しくは、思い出した。

 主人は少女の存在に大層怒り、清浄なる部屋は再び完全なる静寂を取り戻すまでには幾年、幾十年ともかかりそうな荒れ様となった。清掃人は己の無力を嘆くことさえ許されず、無為とわかっていながらも再び清掃用具を手に取った。

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