5.寒椿の姫君
『学園』の屋上からは海と、夜毎それを照らす灯台とが見える。距離にすればそう遠くは無い筈なのだが、何故かそこへ行ったという話は誰からも聞いたことが無い。
真冬の今なら当然だが、それがこの三年の間一度も、というのは奇妙だと感じるのは私が内陸の地方で育ったから殊更なだけなのかもしれない。新しい映画が公開されたから観なければならないわけでもないように、或いは事故などの理由で遊泳を禁止されている可能性もある。
その辺りの背景を、給水タンクにもたれて私には見えないだろう遠くに向けて目を細めている立川君なら知っているだろうか。
『呼び出してごめんね、忙しいのに』
つい先日振られたばかりの相手の呼び出しに不平不満を言わず、何かを要求するでもない彼には幸せな恋をして欲しいと心から願う。幸人のように突如怒りとも悲しみとも不安ともつかない感情を置き去りにしない、素敵な相手と。
『忙しいから、サボりたくなる時もあります。……良い口実で、こっちも感謝ですよ』
悪戯っぽい笑顔の作り方がどこか、幸人に似ている。男の子は皆、こうなのだろうか。
『俺、ときどき思うんです。いつかあの海の向こう――どこまでも旅をしてみたい、って。そしていつかこの町に帰ってきて、見聞きしたものを色々な人に話したいって』
『その旅が終わって帰ってきたとき、学園……この町自体がなかったらどうする?』
『町が、無くなる……?』
『正しくは、立川君の知っている町じゃ無くなる。親しい人も見慣れた町も、この学園さえも全く別のものになっていたとしたら?』
『うーん、まあ。それならそれで、新しい学園で。新しい出会いとか、ところどころに残ってる懐かしい何かを探しますよ』
……そんなふうに、割り切れるものなのだろうか。私は、どうだろう?
いなくなった幸人を探そうともせず虚無だけを抱えたまま卒業までの日々をただやり過ごすのか、別の何かで埋め合わせるのか。――そこに罪悪感は無いのか。
夢のなかで、彼はどこかへ登ろうとしていた。夢。かたちのない、理想でも願望でもない不定形の、視覚では無い何かが捉えるもの。私は、気がかりだったことを口にした。
『――変なこと、聞くね。立川君、最近どんな夢見た? あ……ほら、寝てるときのね』
『……ゆ、め?』彼は怪訝な顔をして、その二文字を口にした。
『ゆ、め……ゆめ……ユメ――? はは……なんです、それって?』
それは例えば、犬という動物の存在を知らない人が初めてその呼称を聞かされて、どんな(生き物であるとすら知らないにもかかわらず)姿をしてるか答えてみろ、と問われた時のような困惑と恐れの入り混じった表情だった。
保健室で、螺子と名乗る老婆は語った。貴方は夢が見られるのか、と。つまり、見ることの出来ない人間が存在する。それも彼女の口ぶりだと、見られる人間のほうが稀なようだ。そして立川君はどうやら夢を見られない。彼と私に、どんな違いがあるというのだろう。
『出来やしないことを、そう――ゆめ、って呼ぶんですかね』
立川君は、突如真顔になって呟いた。その目は遠い海を、或いはその先に広がる世界を見ている。けれどそこには海も、大地も、生物さえも映っては居ない。
怪訝な顔をする私に、彼は言葉を続ける。
『……さっきの話。バカみたいだから、忘れて下さい。あれは俺にとってのゆめ、ですから』
夕刻を告げる鐘が鳴り、どこか悲し気な表情の立川君は足早に去ってゆく。私はそれを止めようとせず、彼とは入れ違いに屋上に姿を現わした何者かの視線に足を張り付けられたように動けなくなった。この前のように、身体に激痛が走るということは無い。
けれど私には、それが眼前に佇む少女の仕業であることが直ぐに理解できた。
彼女が、螺子の語っていた
夕闇の中でなお、風に吹かれるたびに艶めく黒髪。それは腰のあたりまで
長く、血の気の無い顔をほぼ半分覆いつくしている。大きめの黄色いリボンと臙脂色のブレザーが印象的な制服(そんなものは『学園』には無い筈なのだが)を
釘と螺子。見た目も用途も似ているけれど、ならばどうして別々に存在しているのだろう?
『……何か、用?』
そう尋ねるのが精一杯だ。
『被験体ヘノ干渉ニアタッテハ職務上必要不可欠ト判断サレ且ツ直属ノ上長オヨビ課長職以上ノ了承ヲ得タノチ上限ヲ24時間トシ此ヲ可能トスル。尚次ニ該当スル場合ハ特例措置トシテ先ニ挙ゲタ手続キヲ省略シ職員判断ニテコレヲ可能トスル。1.自然災害等ノ被害ニヨリ設備及ビ被験者ニ損傷ノ恐レアルトキ。2.被験者ノバイタルニ異常事態ノ発生シタル時。3.被験者ト夢ノ遊離ヲ確認サレタ時。4.被験者自ラガ夢、又ハ其レニ準ズル思考ノ暴走ヲ発生サセ――』
思わず丸くなってしまう私の目を、前髪の隙間から一瞬覗く夕暮れよりもなお紅い瞳が見返して、それが数回瞬いたあと顔全体に驚きが浮かんだ。
『あ、ごめんごめん! アタマん中で事務連絡確認するの癖になってるから……ってナニ言ってるのか、わかんないよね』
少女もひとりで喋って、ひとりで納得したようだ。
保健室でのことを思い出して、何かを答えるのが躊躇われる。
【寒椿の姫君】
とても可愛らしい少女がどこからか現れる。注意して目を凝らさなければその存在に気付かないほどにひっそりと、ただ可憐な笑顔を見せている。何かを話かけてくることはなければいけないから。その心安らぐ笑顔を遠目に眺めているだけで、清掃人は何かが満たされるような、仕事を始めてから知ることのなかった感情に支配されそうになる。その正体はきっと、遠い昔に彼は知っていたのだから。
ここで清掃人はひとつの問題を抱え込むこととなる。
いかにして、その少女を清掃するべきか。
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