4.月の囁き(Instrumental)
目に映る世界の姿は、昨日も今日も変わらない。天気はこの数日、雲一つない快晴が続いている。
私はいつも『学園』に登校するときは、人目を避けるよう古びた裏門からこっそりと入ることにしている。正門では大昔のテレビドラマでやっていたような、教師と一部の生徒による『挨拶運動』なるものが繰り広げられていて、知った仲だろうがそうでなかろうが
別に非難されるような行為では無いけど、いつ始まったのかもわからない異様で、不思議で、不快な儀式だった。幸人は別に気にしていなかったようだけど、わざわざ裏門で待ち伏せをしてくれたことがあった。
『やめてよっ、何か恥ずかしいじゃない』
私たちはまだ、恋人じゃない。
そんな気恥ずかしさが言わせた一言を、後悔し続けている。
私たちはもう、恋人にはなれないかもしれないのだ。
ふと脳内に不思議な暗雲がかかり、ずきずきとした痛みが走る。
それ以上思い出せないのだ、その時交わした言葉が。断片的な記憶さえ、目に見えない埃のようでそれが何を意味しているのかもわからない。
頭痛は次第に激しさを増して、何かを叩く音が耳元に響く。
見えない誰かが、私の頭を殴りつけているかのようだ。それも拳や平手などでなく、硬い石とか、鉄の鈍器のようなもので。
『助けて、幸人――』
いつしか私は、居るはずのない彼の名前とともに意識を失った。
真っ白な空洞のなか、天上に向かって続く螺旋階段の夢を見た。それをのぼってゆく誰かと、下ってゆく誰か。当然、かれらは道中で出くわして歩みを止める。すれ違うほどの広さは無いし、足を踏み外せばどこまで落ちてゆくのかわからない(当然、生きていられる保証もない)。対峙するかれらは互いにその譲りようのない場を動こうとはしない。
けれど争って道を開こうとか、互いに知恵を出し合って双方が先に進めるよう論じ合う様子もない。ただふたりは長く無駄な時間見上げ、見下ろしあっている。
私は幸人に、その螺旋階段を下り切って欲しいと思った。
天井には等間隔で並ぶ黒い点。『学園』に限らず珍しいものではなかったけれど、それに何の意味があるのかはわからないままだった。
何時の間にかベッドに寝かされていたらしく、周囲には薬瓶の入った棚や洗面台、書類が乱雑に積まれた事務机などが目に映る。あまり来たことは無いが、保健室であることに間違いは無かった。
『目が、覚めましたか』
聞き覚えの無い声のほうを振り向くと、真っ白で束ねているにもかかわらず所々跳ねた髪の、おそらく老婆が背もたれの無い丸椅子に腰かけ、こちらを見ていた。
この人が、私を助けてくれたのだろうか? そもそもこの人は誰なのだ? 校医の先生はもっと若い女性のはずだった。
『釘を、打たれましたね』
機先を制するように老婆は告げた。そうしなければ私の矢継ぎ早の質問で、自分の話が出来ないことを悟ったかのように。言われてみればそんな気もする。刺すような痛みと響き渡る鉄の音。
老婆は自らを、
そしてまたもこちらの質問を遮るように、あるいは先回りするように細い唇を開いた。
『釘は、形作るものです。同じように私、螺子も』
『つくる、って……何を、ですか』
『音を、鳴らす装置です』
螺子がこけた頬を震わせて、静かな口調で言葉を続けようとしたので私はベッドから半身を起こしたままの姿勢でそれを待った。窓の外には鳥のさえずりが、扉の向こうの廊下からは生徒たちの話し声が、一階上の教室からは軽音楽部の奏でるギターの音がする。
『生き物が存在して、それらが固有の意思を持ち――持たないものもいますが、何かの活動をするたびに音を伴います。逆に言えば音を鳴らすために、生命とそれを育む環境、言わば世界を創造してきました。そう、このような齢になるまで――長い、長い時間をかけて』
『私は、まだ夢を見てるんですか』
『夢を? 貴方は、夢を見られるのですか!?』
老婆は急に興奮した様子で、驚きを隠すこともなく叫んだ。
『そうでしたか、そうでしたか。だとしたらあの子の――釘のほうから、会いに来ることでしょう。近いうちに』
釘、というのも人の形をした何かの名前なのだろう。今に至って目の前の老婆を、私は私と同じ人間だと認識することができない。彼女は何かに感動したように両肩を震わせている。
空には満月が煌々と輝いていて、星の粒がいくつかその周りを漂うように浮かんでいる。眠っている間に一日が過ぎてしまったようだ。
【月の囁き(Instrumental)】
清掃人にとって最も厄介な塵芥のひとつが、音である。清掃人自らの意思に関らず作業着の
――清掃人に眠ることは許されているのだろうか?
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