2.恋は風に乗って ~Album version~
そもそも『学園』は全寮制で、そこに通う生徒たちの行動は課外活動から寝食に至るまで概ね管理されている。概ね、というのは厳格な行動指針の存在するいっぽう禁止事項や罰則が存在しないこと、個々のプライベートは確約されているところにある。
例えば「無くそういじめ 言葉の暴力」という標語は『学園』の至る所で目にする最低限にして最重要に位置づけられている規範の筈だが、実際にはあちらこちらで行使されているし、それを咎める者、罰する者はいないのだ。
強い言葉を題目として掲げながら、行動は緩く、遅い。それがこの『学園』を『学園』たらしめていた。
幸人ひとりが既に一週間以上姿を見せなかったとしてもそれが騒動に発展するような事態になっていないことは、最も親しい間柄だと自他共に認めていたつもりの私の周りに生徒たちが集まって様々な質問を口々に投げかけるようなことが起きていない辺りからも窺える。
けれどその様子は、幸人と私の関係を知っていてあえて気を遣っているようなどこか痛々しい雰囲気ではなく、穏やかな風の存在すら感じるような何事も無い、気だるささえ漂っていて、まるで幸人の存在など初めから誰も気にしていないようにさえ見えた。
いや、彼らは八木幸人じたいを知らなかったのだ。
『
『学園』の放課後に、居残る生徒はほぼいない。そのことが互いに幸いした。
――思うのだが、そんなことは全く意に介さない、というよりそんな事実はまるで存在しないことのように堂々とした言葉なのだ。
『立川君さ、私――彼氏、って言っていいのかどうかわからないけど――好きな人、いるって言ったよね』
彼の驚いた表情は、(そんな話は聞いたことが無い)というニュアンスを隠そうともしなかった。
『そう、だったんですか。どんな人だか知らないけど、羨ましいな』
『え? あ……幸人。八木、幸人……名前までは、言って無かったっけ?』
『八木、さんですか……? いえ、初めて聞きましたけど』
狼狽した様子もなく答える立川君は、思いついたかのようにタブレットを取り出した。
『……ほら、検索にも引っかかりません』
私も含め生徒たちに割り振られている端末には、『学園』側からの連絡等に利用される様々なアプリケーションが組み込まれている(追加、削除することは出来ない)。そのなかの生徒名簿に、幸人の名前は確かに無かった。
『何か理由があって……そうだよ、名簿のバグじゃないの』
『それなら、連絡板に告知が出るはずですけど』
当初私は、幸人は風邪でもひいて寮で休んでいるものだとばかり錯覚していた。誤信でも先入観でもいい、なぜ彼がこの場に居ないのか、にその日一日私は思いを馳せることが無かったのだ。
立川君は怪訝な、あるいは心配そうな表情をして私を見ている。彼の言葉は正しい。
緩いとはいえ、管理はいまこうしている間にも行われているのだから。
『八木さんって、どんな人なんですか』
雰囲気を変えるように、わざと立川君は明るい声を出す。彼には他に、選ぶべき女性がいる筈だ。
『どんな、っていうか……私の知らない、面白いことを知ってる奴……かな』
『例えば?』
『……立川君、LP盤って見たことある?』
『音楽のレコードってやつでしょう、実物を見たことはありませんけど』
実際、音楽の授業でクラシックやオペラ等を聴く機会はあってもそれらは今やデータ音源が主流で、CDすらひとむかし前の遺物に挿げ替えられつつある。オーディオマニアでも無い私には、どうせ違いなどわからないのだから些事に過ぎないことなのだけど。
立川君の告白は明確に断って、私は寮への短い道を駆け出した。
いつの間にか降り始めていた雨が、私の迂闊さを
雨は人を孤独にする。傘と傘のぶん、人の距離も離れてしまうから。
【恋は風に乗って ~Album version~】
ささやき声。そもそもそれを誰に聞かせようというのか。清掃人はそれを考えていた。
ここから出して欲しい。助けて欲しい。それは、彼の心からの願いなのだろうか。
清掃人が清掃をやめたら、何をすればいいのだろう。むしろするべきことがあるだけ、彼は幸せなのではないだろうか。
自由になるとは孤独になること。孤独になるとは願いを失うということ。すなわち彼は言葉を求めたその瞬間に、何者でもなくなるということ。
……それは、怖いことなのだろうか。清掃人にはその感情が理解できなかった。
遠く窓の外から、耳障りな遠い昔の流行歌を口ずさむ少女の声がする。
彼が記憶している、遠く僅かな少年期の歌を。
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