凍れる湖

岡元 奏

SIDE:A

1.ICE

 目に映る世界が昨日も今日も変わらぬ姿であろうとするのは、誰の為だろう?


 ひとつ、交通事故や道路工事のひとつに行く手を阻まれ無駄に苛立つ短気な者の為。

 ふたつ、価値観が違う他者に遭遇したというだけで争い事の撃鉄を容易に起こす危険な者の為。

 みっつ、限りなく白く、或いは黒く染まることに安寧を感じるこの世の凡その人々の為。


 移ろう季節の存在や抗うことの出来ない天災とは別次元に求められる普遍的な願い、とされる。

 けれど実際に訪れる昨日や今日が、全く変わらない一日だったことなどあるだろうか?

 そして明日を同じ呼吸、同じ食事、同じ身体や精神の好不調を抱えながら生きることなどできるだろうか。

 

 私たちにとって一日一日は、入る度に構造の変わるダンジョン――そんなものテレビゲームのなかくらいでしかお目にはかかれない筈だけれど――のようなものだと考えたほうがいい、そのほうが何もかもを楽しめる。そう教えてくれた人がいた。


『楽しめるの? そんなの』


『楽しいだろ。モンスターハウスでフクロにされても、十段階強化した剣が一瞬で無くなっても。じゃなきゃ四十年も似たようなゲームを作る奴はいない』


 彼の進路希望にはいつも『ゲームクリエイター』と書かれていた。それは今日日きょうび珍しいことでは無いのだけど、私には何のことだかわからない専門用語を頻繁に聞かされるのはあまり愉快なことでも無かった。


 あと、たった二か月。この冬を過ぎれば私と彼はこの『学園』を卒業する。ほんのわずかな夕暮れ時に澄み渡る冷たい風。屋上はいつでもふたりきり。

 それを覗き見してSNSのささやかなネタ、或いは噂話として消費しようという変わり者も、禁じられてもいない遊びを咎めに来る教師やらが見回りにくることもない。


 仮に、他愛も無い話をする私と彼を見て恋人同士だと早合点するはそもそも自分と、人生の一点でほんの少しかすり合う程度の他者との関係を全て明確に言語化できるだろうか。

 同級生、教師と生徒、上司と部下、売り手と買い手。最大公約数的に分類すればそんな言い方もできるのだろうけど、恋愛感情が数値で表現できるのはそれこそゲームの世界だけだから。

 何より、卒業すれば私は生まれた街へ帰る。そこは遠く遠く北にあり、世界がその均衡を保つべく今日も努力を続けているならば、分厚い雪の壁が一帯に残されていることだろう。冷たい町だ。今よりはるかに不便な暮らしを強要されることは目に見えているが、かつてはそれが当たり前の生活でもあったのだ。

 彼の望む明日と風に舞う雪の結晶のような(それはいつ消えてもおかしくない)私の未来が交わらなくなる日がもう二か月後には訪れる。


『寂しいか?』唐突に、彼はそう尋ねてきた。それこそ、恋愛映画でするように。


『寂しくない、って言って欲しい?』だから私も、記憶の底にあった映画を真似た台詞で返す。

『たとえそう答えられても、寂しいって言われたことにする。せいは噓つきだから』


表情は変えずに、声だけで彼は笑う。ゲームはいつだってご都合主義。だから嫌いだ。


幸人こうとのほうじゃない、嘘ばっかりつくの。去年もその前も他の子と廻ってたでしょ、文化祭。よくもぬけぬけとうちの部の出展なんか見に来れたものね』


『見に来いって言ったの自分じゃん。なかなか楽しかったぜ、あの――ホラー喫茶』


『……私の企画じゃないし、アレ』


 思い出したくない黒歴史をほじくり返されて、黙るしかなくなった。


『俺は、寂しい。世の中が誰にとっても平穏無事で、会いたい人と会いたいときに一緒にいられれば良いのにって思う。――だから本当は、毎日何かが起こらなくて、退屈なのが当たり前で。けど世界は誰かの組んだプログラムじゃないから。チートも乱数調整も無いんだよ』


『言ってること違うじゃん。……やっぱり、嘘つき』

 例によって専門用語はスルーするけど、胸に縋りついて泣きたい衝動を抑えて精いっぱい笑う。

 男の人の前で泣くことと、食べ物を粗末にすることは、女が決してやってはいけないことだから。


 そのとき初めて、私は彼のことを恋人と呼びたいと思った。


 私たちにとって一日一日は、入る度に構造の変わるダンジョンのようなもの。

 

 そう言っていた八木幸人やぎこうとは翌日、突然に『学園』から行方不明になるという事実を残してそれを証明した。


【ICE】

 澄んだ空気。それは彼のような清掃人が生きる為の必須条件だった。

 彼には食事も水分も必要が無かった。このとてつもなく白く清浄な部屋が彼の住処であり、そこから出ることは許されない。することといえば文字通り、清掃である。床を掃いても掃いても、目には確認できないほどの砂粒が舞い落ち、外界と繋がる唯一の窓はそれを押しつぶさんばかりに積もった雪が隙間もないほど敷き詰められているのだが、室内との温度差から付着する水蒸気は拭いても拭いても消えることは無い。彼の呼吸や発声さえ部屋を汚してしまいかねないので、彼はいまや言葉というものが何だったのかを忘れてしまうほどに長い長い沈黙を続けていた。

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