#18ー1

 #18


 桃慈の口が閉じられた後、病室に訪れた沈黙を破ったのは、素子が病室のドアを開く音だった。

「お母さん、すいませんっす。もう少しだけ待って貰えますか?」

 圭が素子の相手をし、頭を下げてもう一度退室を促した。そのまま電灯のスイッチを入れ、すっかり暗くなってしまった病室に明かりを灯す。

「目が覚めて、桜は死んだって事を聞かされて、やっと終わったんだとホッとしてしまった俺は、もう人間じゃないんだろうな」

 莉子は、傍らに置いてあったティッシュの箱から二、三枚を手に取り、桃慈の涙を拭ってやった。

「なぁ莉子。教えてくれよ。俺達は、一体何をしてお前の恨みを買ったんだ? どうして、俺は、あんな事をしなくちゃいけなかったんだ? 桜は、あんな目に合わなきゃいけなかったんだ?」

 その言葉を聞いた途端、莉子はたまらず、桃慈を強く抱きしめた。怪我の治りきっていない桃慈に抱きつく事は無論ご法度だったのだろうが、莉子の瞳から溢れる涙が、大樹と圭に、彼女の行為を止める事を許さなかった。

「なぁ大樹、教えてくれ。お前はどんな指示を受けていたんだ? 一体誰が、お前達にそんな事をさせたんだ?」

 莉子の胸の中で、桃慈は途切れ途切れに言葉を零す。

「莉子お嬢様が、あなた方を恨んでおいでです。指示に従わなければ、あなた方の家族や、関わるもの全て、菱川グループの総力を持って、潰すので、そのつもりで。では、今週の指示です」

 まるで壊れたテープレコーダーの様に。

 莉子の頭の中に、一人の男の顔がくっきりと浮かんだ。その瞬間、怒りの余り奥歯を強く噛み、圭に向けて叫んだ。

「おい! 三流ライター!」

「その呼び方止めて下さいっす!」

「その前にお前ら、病院では静かにしろ」

 大樹の言葉に反応し、自分を落ち着かせるように一つ深呼吸をした莉子は、そっと大樹の身体から離れた。

「約束だったろ、及川の正体を教えろ」

 圭が渋い顔をする。

「ここで、っすか? 秘密の情報なんすよ?」

「頼む。桃慈にも、教えてやりたいんだ」

 圭は暫し逡巡し、ぼりぼりと頭を掻いた後、そっと大樹の顔色を伺った。

「ぐっさん、今から言う及川の情報、聞かなかった事にして欲しいっす」

「何だ、ヤバい経路使って掴んだ違法な情報なのか?」

「……そう言う訳じゃないっすよ」

 圭の唇の形が限りなく数字の『3』に似る。

「お前、嘘が下手過ぎるだろ」

「ぐっさん、俺からも頼む。見逃してくれたら、その後の協力は惜しまねぇ。ってか、全力で協力する。頼むぜ」

「ぐっさん!」

「頼むぜぐっさん!」

 圭と莉子の眼光が、真っ直ぐに大樹を貫く。

「ったく、莉子嬢までぐっさん呼びしやがって……」

 二人の目力に根負けした大樹は、一つため息にも似た吐息を零し、耳を塞ぐような仕草をした。

「あー、何故だか解らんが、突然耳が遠くなったなー、何にも聞こえんなー」

 シェイクスピアも真っ青になるであろう驚きの棒読みには一切触れずに、圭は大樹に小さく頭を下げ、内ポケットから一冊のメモ帳を取り出した。緑色の表紙には大きく、秘密のメモ帳、と書いてある。逆に大事な秘密は書けなさそうなそのメモ帳をパラパラと捲り、圭は赤い付箋が張ってあるページで止めた。

「及川匠、1984年6月20日生まれ。幼い頃に両親から酷いネグレクトを受けるっす。隣人の通報で、5歳の時に両親が逮捕。児童相談所に保護され、施設に入るっす。保護された時、及川の体重は15キロに満たなかったと言う話っす。その後施設では、明るくいつも皆の中心にいるような少年だったらしいっす。当時の施設の先生に話を聞くと、とにかく自分が大切だと思った人や物を、どんな事があっても守ると言う強い正義感があったそうっす。彼にとっては、自分を両親から救ってくれた施設の人や、その施設の仲間が死ぬ程大事だったんでしょうね。だけど、中学卒業を機に施設を退所した後、斡旋してもらったパンの製造工場を脱走する事になるっす。理由は、そこの同僚を半殺しにするまで殴り倒してしまったそうっす。ちょっとミスをした及川に対し、『これだから施設上がりは使えねぇ』と嘲笑された事が原因らしいっす。同僚を殴り倒した後、相手の血まみれの顔を見て満面の笑みを浮かべたそうっす。それから工場長に深々と頭を下げ、『恩を仇で返してしまい、誠に申し訳ありませんでした』と言って、今まで貰っていた給料の殆どを置いて、工場から消え、それっきりだそうっす」

 そこで圭が一度咳払いをした。

「その後の消息は、22歳の時に、菱川グループに入社。菱川雷太の秘書に任命され、今に至るっす。そんで、その間とか、現在に至るまでは、ちょこっと情報は仕入れてるかもしれないっすけど、大体は、私の想像って言うか、妄想って言うか……」

「俺の事は気にすんな。莉子嬢に話してやれ」

 空気を読んだ大樹の言葉に、圭の唇がニヤリと歪んで悪人面になる。呆れた大樹の目に、真剣な表情の莉子が映る。

「あくまで噂なんすけど、及川がパン工場を逃げ出した直後の時期から、麻薬の売人に麻薬を仕入れる仲介業をしていた少年がいたらしいっす。ヤクザの親分さんに取り入って、未成年の自分が間に立つことで、売人と元締めの関係の目晦ましになる、是非やらせて下さい、とヤクザの事務所に直談判に言ったそうっす。はっきりとした情報では無いっすけど、その少年が、恐らくは及川匠だったと考えられるっす。こいつが間に入ってから、街中で薬を扱う売人を捕まえても捕まえても、皆口を揃えて、ガキから買った、の一点張りで元締めに辿りつけなくなり非常に困った、と警察関係者から聴いたっす」

 警察関係者、の言葉に、莉子の目がちらりと大樹に向く。

「言っておくが、俺じゃないぞ? 管轄外だからな」

 圭に情報を流した警察関係者の存在を、大樹は否定しなかった。言外に、マスコミと警察の関係を莉子は悟る。

「パン工場以降表舞台から消息を断っていた及川匠の名前は、その後、有名大学の名簿の中で見つかるっす。恐らくは18歳を機に売人の仕事からは足を洗い、堅気の世界に戻ったんでしょうね。少年法が適用されない歳になったからお払い箱になったか、若しくは、人の心が残っていた親分さんの親心かもしんねっすね。麻薬を売り捌くような非人道的な組織なんで、その線は薄いかもしんないっすけど。何はともあれ、恐らくは三年の闇社会生活でそこそこ貯めたであろう軍資金を使い、及川は大検を受け、某有名大学に籍を置くっす。そのまま新卒で菱川グループの企業に就職。その後は莉子さんも知っての通り、菱川雷太の秘書となり、莉子さんとも懇意の関係を築くっす」

 そこで圭は、パタンとメモ帳を閉じ、息を深く吐いた。

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