#17

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 11月25日の夕方。

 八津ヶ崎高校の屋上には、強い風が吹いていた。門倉桃慈は転落防止用のフェンスの鍵に、予め用意しておいた手斧を振り下ろす。二度、三度と続ける内に、ガキン、と言う音と共に、鍵は唐突に割れて地面へと落ちた。荒々しく息を吐く桃慈を、桜は哀しい表情を崩さず、濁った瞳で見つめていた。今自分の目の前にいる男が、天国へと導く神の使いか、冥界へと落とす悪魔の化身か、計りかねていた。

「ありがとう、桃慈君」

 言葉だけのお礼を飛ばすと、受けた桃慈は涙でグシャグシャに濡れた顔を上げた。

「ああ」

「やっと、終わるのね、この苦しみが……」

 濁った瞳に光が宿る事は無く、さりとて唇は確かに笑顔の形を象っている。生身の色をしていなければ、彫刻と見間違えても仕方がない程に、桜の瞳からは生気が見られなかった。

 袖で涙と鼻水を拭う桃慈の横を、桜が歩いて行く。フェンスのドアを押すと、ドアは呆気なく開いた。

「桜!」

 桃慈は叫び、土下座をした。

「今まで、本当にすまなかった! 俺は、見ていたのに、何も出来ずに! お前の事より、俺は、自分の事を、優先してしまった……。許してくれ! 許してくれ!」

「許さない!」

 桜の瞳に、少しだけ光が戻る。その光の正体は、怒りや憎しみによって点った、炎の光だった。

「桃慈君、私は貴方を絶対に許さない! 私がどんな気持ちだったか解る? あんなに苦しくて、悲しくて、惨めで、哀れで、辛くて、辛くて、辛くて辛くて辛くて辛くて辛くて! ああぁあぁぁああぁぁっぁあああああ!! 解る訳無いよね!! そんなの解る訳無いよね!」

 悲鳴にも似た怒号を放った桜は、土下座をしている桃慈に近づき、しゃがんで、耳元に優しく囁いた。

「ねぇ、桃慈君。トイレに落とされたお弁当の屈辱的な味が貴方に解る? 風の強い日に、びしょ濡れの制服で帰る惨めさが貴方に解る? 一日中柱に縛り付けられて、自分ので汚れた制服や下着を、授業までに急いで洗っても間に合わなくって、臭いって、汚いって声が漏れ聞こえてくる辛さが貴方に解る? まるで実験動物の様に観察され続ける気持ちが貴方に解る?」

「すまん、許してくれ! 許してくれ!」

「許す許さないとかどうでもいいの! 私の気持ちが解るかって聞いてるのよ!」

 錯乱した桜は、桃慈を突き飛ばし、そのままフェンスの扉をくぐって屋上の縁に立った。

「もういや! 終わりにするの! 全部終わりにするの! 助けて! 誰か助けてよ!! 助けて、もう無理なの、助けて……」

 靴を荒々しく脱ぎ捨て、遠くの景色に目を向ける。夕日に照らされた町並みは綺麗で、子供の笑い声や、商店街から威勢のいい呼び込みの声が聞こえて来る。桜はその声に思わず耳を塞いだ。

「いやああああぁぁぁぁあああああ!! やだー、もうやだー、何で皆だけ幸せそうなんだよ! 私は、私はもう嫌だよぉ! 私だけ不幸なのはもう嫌だよぉお!! 辛いの、辛いよ、もう嫌だよぉ……」

 頭を抱えしゃがんだ桜の目に、校舎横のコンクリートが映る。自身が立っている屋上の高さに慄き、悲鳴を上げて後ろにずり下がった。

「あああぁっぁあぁぁあ!! やだー! 死にたくない! 死にたくないよぉ! もう辛いのは嫌だ! 死ぬのも嫌だ! でももう嫌だ! もう嫌だあああっぁあああああああ」

 桜の心は、完全に壊れてしまっていた。

「桜! 桜!」

 駆け寄った桃慈に、桜は縋り付いた。

「桃慈君! 助けて! 助けてよ! 私もう嫌だ! 辛いのも苦しいのも死ぬのも何もかもが嫌だ! 助けてよ! 助けてよぉ!」

 桜はそこで、何かを閃いた様な顔をした。

「そうだ! 桃慈君! 許してあげる、許してあげるから、私の事、手伝ってよ!」

 夕闇に照らされる桜の顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、顔の至る所が痙攣しており、尚且つ、満面の笑顔だった。

「私、目閉じてるから! 桃慈君、私を押して! 私が目閉じてる内に、私の知らない内に、私を殺してよ! 私を助けてよ!」

 桜はいそいそと、脱ぎ散らかした靴を揃えて、その手前に、ポケットから取り出した遺書を置いた。桃慈は混乱し続ける頭で、何とか平静を保とうと必死だった。

「桜、俺には無理だよぉ。 俺にお前を殺せって言うのかよ! 出来る訳無いだろぉ!!」

 桜は勢い良く屋上の縁に再び立ち、外側に体を向けて目を瞑った。

「さっさとやれよ! 許してやるっていってるでしょ! 早くやってよ! お願いだからぁ!」

 夕日を浴びて屋上に立つ桜の背中は薄闇に包まれ、まるで後光が差したかの様に神々しかった。桃慈はパニックになり、桜の背中を押そうとしたり、手を引っ込めたりを繰り返した。

 ――無理だ、でもやらなきゃ。嫌だ、桜、すまない。許してくれ。許される為に、やらなきゃ、だけど、やりたくない。やりたくない! 助けてくれ! 誰か助けてくれ! やらなきゃ! 桜……! すまん! 俺は……! 出来ない、やっぱり出来ない!

「さっさとしろって言ってんでしょ! 助けてよ!! 早く助けてよ!!!」

 葛藤を繰り返していた桃慈に業腹の桜は、目を閉じたまま後ろの桃慈に文句を言おうと振り向いた。それが、桜の背中を押そうとしていた桃慈の手をかわす形となり、勢い余ってバランスを崩した桃慈は、そのまま倒れそうになった。桃慈は咄嗟に桜に抱きつき、一瞬二人の影が、屋上の縁の上で一つとなった。

 その刹那、今日一番の強風が、屋上の縁に立つ二人の背中を押し、身体を救い上げた。宙に放逐された二人は、耐え難い重力の手に掴まれ、逃げる事を許されなかった。

「ぎゃああああああああっぁああああああぁぁぁああああああ!!」

 どちらのものともつかない悲鳴が、夜の帳を切り裂いていく。折り重なった二つの影は、そのまま暗闇の中へと落ちていき、数秒の後、ぐしゃ、と言う音を立てて地面に広がった。

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