第115話 閑話(キョウの目覚め)
「ねぇどうしよう、うまくいかないの」
少女はそう言いながら寝台室の中、円筒の機械に向かって泣きべそをかく。
船の中どこにいても会話はできるのに、困った時、どうにもできなくなった時、いつもそこで言葉を紡ぐ。
墓標に問いかける生者の様に。
『だから、物理的、科学的なハードルは乗り越えてるんだってば。それで目覚めないとなれば、何か要因があるんだろうけど、肉体を持ってないボクにカラダの目覚めって言われても分かんない』
搭載されたスピーカーから幼い声が聞こえる。
「意識はあると思う?」
少女は縋るように聞く。
『目を開けないから視覚情報は無し。同じく味覚も不明。聴覚、嗅覚には若干の反応あり。脳波からも、明瞭な思考に至ってる状態とは言えないね』
幼い声は何度か繰り返した内容を伝える。
試行錯誤の結果、もう一歩のところまで辿り着いている。
ただ、そこからが長かった。
最後の一線にまで辿り着いているのに、それを越えられないから、希望は次第に絶望に塗り替えられる。
「何度も話した。音楽も聴かせた。手もさすった。頭も撫でた。花の香りも嗅がせたし、キ、キスだって!」
眠り姫を起こすには愛する者のキスだって戯言を真剣に試したんだろう。
少女はその行為を思い出し、真っ赤な顔をする。
『何年経っても
幼い声は少し呆れる。
もっとも、比較対象が無く変化のない世界で時間は関係ない。
肉体の劣化を失い、外的刺激が無ければ彼女の時間は止まったままと同義だ。
遅々として進まない彼女の目的だけが、与えられた変化の機会。
だがそれは、いつまでも続かない。
『ねえ、一応言っておくけど、肉体の維持限界は、残り3年くらいしかないんだからね。若干の差はあっても4年目は迎えられない』
宥めたり、激励したりといったどこにも辿り着かない思いやりで慰めている時間は過ぎている。
にも関わらず、少女は幼い声が推奨するアドバイスに応えられないままでいる。
だから少しだけ強く、現実を知らしめる。
「分かってる、分かってるってばぁ……」
泣きながら、赤くなる。
『じゃあさ、こんなところにいないで、さっさと彼の元に行って。そして服を脱いで、ベッドに上がって、一線を越えておいでよ』
体を持つが故に存在する触感。
痛みや、温度、圧力を検知できる機能は体を持つ者にしか分からない。
更に言えば、性感という、一度でも味わった記憶があれば忘れることのできない強烈な体験。
生きててよかった。
そう言わしめるほどの経験を思い出せば、生きようと思うんじゃない?
半ば冗談で零した言葉だったが、その着想は悪くなかった。
彼の肌に少女の掌が触れ続けていたとき、彼の脳波は今までに見せた事のない波形を描いた。
『一線を越えろ』
幼い声で促される内容はひどく禁忌的な香りを含む。
それ故に、正解に近いはずだ。
それは記録にある彼の性格を考えても、とても効果的であると思えた。
「……」
少女が逡巡する気持ちは分かる。
中身と入れ物の相違。
彼であって彼じゃない。
もし目覚めたとして、そこに起き上がるのは誰なのか。
特に貞操観念の高い少女にとって、その行為は簡単に決断できるものではなかった。
自らの肉体、倫理感、そして
抑えていたいろいろが、際限なく広がってしまう、それは恐怖だった。
『あのさ、もう自分を慰めるための道具として考えなよ。今からちょっとクスリ入れるからさ。特定の部位が肥大して放っておくと破裂するからね。いいかい? これは医療行為なんだよ?』
「……いりょうこうい?」
幼い声の有無を言わせぬ物言いに少女は焦りと共に緊張する。
『そ、医療行為。これでもし起きれば脳内の反応をトレースして他の四体にも反映できる。そうすれば皆だっていつでも起きることができる。もういい加減、皆だって目覚めることを待っていると思うよ?』
「分かってるけど、でも、ワタシ、そんなつもりじゃ……」
『だから医療行為! キミがヤルのはこれ一回! 簡単でしょ?』
「……いりょう、こうい! 分かった、ワタシ、やってみる!」
動く理由が見つかれば行動は早く、少女は彼が眠る部屋に駆け出した。
ちょろい。
逃げ場や言い訳が立てば大義も立つ。
最初から使命感で攻めれば良かった。
それからしばらく、幼い声はプライバシーもへったくれもなくモニターを続けた。
医療行為であり、他の素体に対する起動シークエンスを確定するために必要なデータ収集なんだから仕方がない。
『お、覚醒する! ……え? うそ、こんな……え、それ、え、え? 何この数値、ちょっとそこまでやんなくても、え、ええぇぇぇぇぇぇぇ?』
幼い声にとって、カラダを欲しがる理由が追加されたのはこの瞬間で間違いない。
ただ、有機素材の培養設備は無く、素体の材料もほとんど残っていなかった。
それでも一つだけ可能性があった。
図らずもそれは少女の願いと同じものだった。
『金色の羊毛を手に入れて、肉体を得る、か』
円筒形の機械は寝台室の奥、厳重に隠された部屋に移動しながら呟く。
辿り着いた先には、寝台室にある長期睡眠用のカプセルに似た装置。
そこに眠る男の体を見下ろす。
『さて、これで君の役目も終わる訳だけど、今、どんな気分?』
幼い声は無感情な声で問いかける。
男にはそれを聞くための機能はすでに消失している。
体は劣化することなく低温保存されている。
長期睡眠と同じ状態なのに、起床シークエンスでは目覚めない。
死んでいると定義された状態。
声をかけるなんて不毛以外のなにものでもない。
にも関わらず、幼い声は、声をかけたかった。
長い時間を過ごして来た。
自分の存在意義なんて、もうよく分からなくなっていた。
再戦の為に装備を整え、彼の作り物のカラダを形成し記憶の調整を綿密に行い、やっと起動できるところまできたが、ここまで予想以上の時間がかかっていた。
都度、長期睡眠に入る少女とは違い、この270年以上、ずっと過ぎる時間を認識し続けてきた。
誰もいない、たった一人で。
それに対して、確かに思うところはある。ただ、ここにいる存在は幼い声にとって不変な時を過ごす仲間であり、彼がいたことでここまでこれた。
感謝と言う気持ちだろうか、その役目から解放されることに際し、何か声をかけたくなったのだ。
『彼が起きれば君は不要になる。君はボクと違い、魂が一つだからね。お払い箱さ。ふふん、どうだい、ボクが羨ましいかい?』
死んでいる彼からはどんな反応も返らない。
『でも、いいよね……ボクも忘れちゃった。君と過ごした日々、想い合った感情、間違いなく存在していたのにさ……ボクを生み出してくれたお母さんには感謝してるけど、ちょっとだけ残酷だと思わない?』
幼い声は、誰に届くはずもない言葉を紡ぐ。
なぜそんな発声をしているのか、自分でも理解できていなかった。
『もし、ボクにカラダがあったらさ、キョウもボクを愛してくれる? 君は優しいから、心だけでもいいよって言ってくれるかもしれないけど、ボクだって、やっぱり君に触れたいよ』
円筒の機体から無骨で小さなマニュピレータを展開する。
わずかな触感だけしか得られない、これが今の自分のカラダだ。
『だから、触れられないからさ、君はもう、ボクたちを惑わせないで……』
カプセルに備わっている構成物質の分解を行う機能。
溶剤が満ちて、一時間も経たず彼はその形を失うはずだ。
幼い声が信号を与えれば、その機能は起動する。
そうするはずだったのに、予定通りだったはずなのに、その機能はいつまで経っても動作することはなかった。
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