第4話 境島署のいちばん長い日2
黒い影が一瞬視界を覆ったが、すぐに消えてしまったので、ユリウスは雲が陽の光を遮ったのだと思った。
その時、胸の無線機が鳴った。
≪ユリちゃん、今の見た?≫
犬飼からの無線だった。心なしか声が震えているような気がする。
「え? 影ですか?」
≪違うって! 何か、めちゃくちゃでかい鳥みたいなのが、すんげえ勢いで飛んでった……≫
「な、何ですかそれ……」
念の為、窓から首を出して上を見るが、何もいない。
真上から少し西に傾いた陽光が、夏の終わりを感じさせない強さでじりじりと顔を焼く。
眩しさにこれ以上は上を見られず、ユリウスは車内に戻った。
「なんにもいないですけど……でっかいトンビとかじゃないですか?」
≪そうかなぁ……トンビにしちゃあデカすぎたようなきがしたんだよなぁ≫
釈然としない風の犬飼であったが、何もいない以上どうしようもない。
そのまま、パトカーとセダンは法定速度で本署へと戻っていった。
その遥か上空を凄まじい速さで飛ぶ巨大な影には、この場の誰も気が付いていなかった。
――――――
「ええ~、何があったのこれ~」
「いや僕も、わからないです……」
二人が署に戻ると、何故か署内はてんやわんやの大騒ぎで、ユリウスと犬飼は事情も分からずぽかんとそれを見つめていた。
地域デスクは課長係長共に電話と無線の対応に追われ、警務係長である浅野と副署長の川嶋がその凶相に拍車をかけるように殺気立った表情で何かを話している。
ただならぬ雰囲気に何か重大な事件でも起きたのかと二人が顔を見合わせていると、運転免許係であるダークエルフの黒田が「ちょっと! ガーランド君!」と血相を変えてユリウスを呼んだ。
「なになに黒田ちゃん?大事件?」
好奇心丸出しの犬飼を無視し、黒田がユリウスを気遣わし気に見つめた。
「ガーランド君、猪熊官舎だったよね」
「あ、はい」
管理している官舎は署によっていくつかあるのだが、ハイツ○○などの名称が無い所は、建っている地名で呼ばれることが多い。
ユリウスが住んでいるのは境島市猪熊と言う場所にある官舎なので猪熊官舎と呼ばれている。
「なんかさ、半壊したんだってよ、官舎。けが人はいなかったみたいだけど」
「へ?」
「なにそれ怖っ」
突然の自分の家が半壊したという情報に脳がついていけない。犬飼が更に黒田から情報を得ようとした時、地域デスクの方から杉本地域課長が二人を呼んだ。
「ガーランド君、犬飼君。丁度良かった。聞いてますか? 猪熊官舎が半壊したというのは」
杉本が銀縁のメガネを直しながらそう言った。官舎が半壊するなどという超絶イレギュラーな事案にもかかわらず、冷静な態度を崩さないのは流石と言うべきか。
ちなみに杉本も猪熊官舎に居住しているのだが。
「あ、黒田さんからざっくりとは聞いてますが……」
「二階から上の窓ガラスは全滅だそうです。お気の毒に」
「うっ……」
杉本の部屋は一階である。だからこその余裕なのかとユリウスは心的ダメージに耐えながら思った。
「官舎に人はいなかったんすか?」
犬飼が軽く手を挙げて質問した。
「黒柳刑事課長が居たそうです」
「えっ、刑事課長、大丈夫なんですか?」
官舎の半壊に巻き込まれなど、大事である。彼の安否が気がかりだった。
だが杉本はバインダーの書類を見つめながら、肩を竦めて溜息を吐いた。
「軽い火傷だけの軽傷ですよ。カップ麺を食べようとしたら巻き込まれたそうです。あの人も存外しぶといので平気でしょう」
常ならぬ杉本の言い方にユリウスは困惑したように犬飼をちらりと見上げる。
(ほら……課長、昔刑事課長に新人の頃めっちゃしごかれたらしいから……)
犬飼のひそひそ話に地域課長はじろりとこちらを見つめ、「犬飼君、何か言いましたか?」と絶対零度の声音で言い放った。
どうやら彼にとって黒柳との昔の話題はNGらしい。
「いえ! 何でもありません!」
「なら結構。お二人は先程の放置車両の報告書を仕上げてから、官舎の片付けの手伝いをお願いします。ガーランド君は自室の片づけもありますからね。ああ、そうだ。犬飼君。君は会計課から催促の書類が未提出のようですが」
「やべっ! すぐ出してきます!」
「……はい」
バタバタと駆けてゆく犬飼の背を見ながら、ユリウスは己の部屋がどうなっている事かと思いを馳せた。せっかく独り暮らしの為に揃えた家具や家電も滅茶苦茶な事だろう。今日が快晴なのがせめてもの救いだ。
がっくりと項垂れながらデスクに掛け、パソコンを立ち上げる。
すると、ことりと机の隅に栄養ドリンクが置かれたのに気づく。
見上げると、杉本がいつもの無表情ですぐ傍に立っていたので、思わず「ヒェ……」という情けない声が漏れ出てしまった。
「元気出してくださいね。警察官やってれば、こんな事もありますよ」
そして、いつもの冷静な口調で慰めのような良くわからない言葉を掛けられた。
警察官やってたら、自室が半壊する以上の事が有り得るのだろうか。
そんな事を思いながら、ユリウスは「あ、ありがとうございます」と頭を下げた。
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