第3話 境島署のいちばん長い日1
その日、境島警察署刑事課長の黒柳敏明は、当直明けの重い身体を引きずりながら官舎の自室にて遅めの朝食を作っていた。
「ったくよ〜。今日こそ早く帰れると思ったのによ〜」
昨日は初っ端からあまり幸先が良くなかった。人身事故、喧嘩、車上荒らし、極め付けには認知症の高齢者の行方不明とありがたくない満員御礼であり、さまざまな報告や書類の処理をしているうちに正午を大幅に回ってしまった。
帰宅しても着替える気力が出ず、そのままの姿でぶつぶつ言いながらカップ麺の容器にお湯を注ぐ。
容器と割り箸を手に、殺風景な居間に向かう。引っ越してから一度も開けていない段ボールたちを足でどかし、小さな座卓にカップ麺を置く。テレビのリモコンを取り、電源を入れたが一向に点かない。
「んだよ。テレビつかねえじゃん~」
テレビが壊れたと思い込んでいる黒柳は、この一帯が停電している事など、黒柳は知る由も無かった。
暫くリモコンと格闘している時であった。
何か黒い大きな影が窓の外を過った気がした。
この瞬間の事を、後に黒柳はこう語る。
『ガス爆発が起こったのかと思った』
凄まじい風圧が、黒柳と座卓とカップ麺に襲い掛かった。
胡坐をかいて座っていた黒柳の身体がその風圧で吹き飛ばされ、ごろごろと転がって隣の部屋の襖を突き破った。
真夏の暑さに窓を全開にして、網戸だったのが幸いだったかもしれない。窓を閉めていたら、夥しいガラスの破片を浴びる事になっていただろう。
官舎には偶然にも黒柳だけしかいなかったわけであるが、この時、二階以上全ての部屋のガラスが吹き飛とんでいた。ちなみに、二階のユリウスの部屋も悲惨な事になっている。
暴風か竜巻に襲われたような惨憺たる部屋の中。畳にはラーメンが無惨に散らばり、食器や家電が軒並み下に落ちている。部屋の奥で倒れていた襖がもぞりと動いた。
のっそりと、黒柳が呆気にとられた表情で起き上がる。
「え……何????」
その時、漸く自分のスマートフォンからけたたましい着信音が鳴り響いているのに気が付いた。
―――――
一方その頃、ユリウスは、県道に繋がる農道でワーウルフ族の犬飼巡査部長と共に事故処理をしていた。
一本道のその農道は、普段は地元の者しか通らない程に細い道であるが、その日は麦畑の中に前半分突っ込んだ車がいると所有者から通報があったのだ。
行ってみると、見事に頭を半分突っ込んだ状態の乗用車がそこにあり、麦畑の所有者らしい女性が困ったように駆け付けたユリウス達に言った。
「今朝来たらこうなってたんですよ。機械も入れられないし、困ってて」
この地域は麦畑を持つ人も多く、稲と同じ時期が少し早めに種をまき、多くが夏が終わる前に刈り取る。残暑の陽光を浴びて、黄金色に色づいた麦がさわさわと風に揺れていた。
突っ込んだ車を犬飼が確認しに行ったので、ユリウスは女性から話を聞き始めた。
「中に人はいなかったんですか?」
「一応近くまで見に行ったけど……ホラなんていうの、真っ黒な窓でしょ? 怖い人が出て来たら嫌だから」
「ああ……。ですよね」
「でも昨日の夜はいなかったんですよ。犬を散歩に行く時は必ずここを通るので」
「成程」
女性の言葉をメモに書き留めながら、ユリウスは車を見た。フルスモークのセダンは確かにこの辺りでは異質だ。
足回りも改造しているようで、ナンバープレートも異様な角度に折れ曲がっている。
あまりお近づきになりたくない手合いが乗っていそうだと女性が戸惑っても頷けた。
「駄目、誰も乗ってないわ~。ナンバーで照会してるけどどうかね~」
両手でバツ印を作りながら、犬飼が言った。この場合、盗難車である可能性も非常に高い。事故を起こした後、警察に届け出ず、そのまま行方をくらましてしまうパターンも多いのだ。
「どうしましょう、このままにはできないし」
ユリウスは犬飼を見上げながら眉尻を下げた。
所有者や事故の当事者に連絡できないとなると、自分たちで警察署に運ぶしかない。
犬飼がおもむろにセダンのドアハンドルに手を掛けると、あっけなくドアが開いた。
すると中から芳香剤と饐えた匂いが混ざり合ったような嫌な臭いが鼻をつき、たまらず二人は腕で顔を覆った。
「あ、開いたわ、うわっ、クッサ!」
「何だろうこの匂い……遺体は無いみたいですね」
直ぐに思いついたのは変死体がある場合であるが、ライトで照らしてもそのような痕跡は見当たらなかった。
思いの外、車内が綺麗だったことに二人は安堵した。
「取り合えず、引き上げないとな」
「犬飼部長、これ、キーついてますね」
「マジか。エンジン掛るかな」
「やってみます」
ユリウスが斜めになった運転席に乗り込み、何回かキーを回した。
ぶおん、と改造しているのか、大きなエンジン音が鳴り響く。
「やった。かかりました」
「じゃあ俺、頭から押すからさ、バックで踏んで」
「大丈夫ですか?一人で」
「こんくらいのセダンなら余裕」
「さすが」
リザード族の毒島程ではないが、ワーウルフの膂力は人間を遥かに凌駕する。普通乗用車くらいなら軽々と持ち上げる犬飼は、ユリウスにとっても頼りになる先輩だ。
ユリウスはそのままギアをバックに入れ、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。それと同時に、犬飼がフロント部分を押す。
ゆっくりとであるが、車両が畑から引き上げられる。それを見守っていた所有者の女性が「わー!凄い!力持ちねえ!」と手を叩いた。
がごん、とついに車道に完全に4本のタイヤが乗った。ボンネットは結構な凹み具合だが、エンジンに支障が無いのが救いであった。
「オッケーです! お疲れさまでした犬飼部長」
「はー、この前のトラックよりは軽かったな! お疲れ!」
そう言いながら、犬飼が帽子を脱ぎ黒い獣毛にくっついた藁や土を払う。
ユリウスは車から出て、安堵したようにこちらを見る女性に言った。
「じゃあこの車、私達がお預かりしますんで、またご連絡しますね」
「ありがとうございました」
この後の処理や連絡先などを簡単に説明して、一旦二人は車両と共に現場を離れることになった。
「ユリちゃん、俺パトで先導するから車両運転してくれる?」
「了解です」
パトカーとセダンにそれぞれ乗り込み、ユリウスが犬飼が運転するパトカーに続こうとした時であった。
轟、と車体が揺れる程の強い風が吹き抜けた。
その時一瞬、黒く大きな影が、視界を覆ったような気がした。
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