第16話 踏み出す一歩

 日もとっぷり落ちた午後七時半過ぎ。


 真静は幼馴染である東崎虎大とうざきこおの自宅の玄関を千秋と共に出る。

 そして、もう一人。二人に続いて外に出たのは、虎大の母親――美咲みさき

 彼女はいつも、真静たちがこの家に来た時はこうして見送ってくれる。


「真静くん、それに千秋ちゃん。今日も本当に、ありがとう」


 柔和な笑みを浮かべてから、頭を下げる美咲。

 息子の友人への所作のひとつひとつにも、その人柄の良さがよく現れている。


「いえ、そんな感謝されることでもないです。俺は自分がただここに来たくて、お邪魔させてもらってるだけですから」


「そうだよ美咲さん。わたしもこーくんと美咲さんに会いたくて来てるだけ。だから、そんなかしこまらないでよ」


 真静と千秋の言葉に、美咲はゆっくりと顔をあげる。

「ありがとね」と変わらない笑顔をこちらに向け、それから家の二階――虎大の部屋の窓に少しだけ目を移した後、「でもね」と続けた。


「やっぱりふたりにはこうして感謝を伝えたいの。あの子は――虎大は、あなたたちの前では決して口に出さないだろうけど、ふたりには絶対に感謝してる。ふたりのおかげで今があるって思ってる。母親だから、そのあたりは見てて分かるわ。だから、今はまだ素直になれないあの子の代わりに、ありがとうって言わせて欲しいの」


 そう言って虎大の部屋を見つめる横顔は、どこまでも子を想う母の顔で。

 真静と千秋は一回だけ静かに頷いて、その気持ちを受け取った。


 そのあとふたりは「また来てね」と手を振る美咲に「また来ます」と軽く会釈をし、家路についた。


 しばらく、ふたりして無言のまま歩く。


 その間、真静は美咲がついさっき自分と千秋に向けた言葉を反芻していた。


 また来てね。


 帰り際にかけられた、よく交わされる社交辞令のような、さりげない一言だった。

 おそらく、側から聞く分にもそう聞こえるような。


 でも、真静には分かってしまった。

 あれは、そんな軽い言葉ではないと。もっと重みのある言葉なのだと。

 そこに込められた想いや願いが、どれほど切実かが、痛いくらいに。


 だからこそ、言外に「もう行くな」と言った大志のことを真静は許せない。


 虎大のこと、美咲のこと。そしてあの一家が過ごしてきたこの数年のことをまるで知らない父が、一方的に虎大を軽んじるような発言をした上で、そういう決定を自分たちに求めてきたことは許せないのだ。


 ただその一方で、真静は他でもない自分のことも許せずにいた。


 今日、父が虎大の話をしたあの時。

 もし千秋がそばにいなかったら、自分は間違いなく父に掴みかかっていた。

 感情のままに気持ちをぶつけて、またすれ違って、さらに溝を深めていたはずだ。


 父のことを一方的と非難しながらも、一方的な態度でしか父に向き合えない自分。


 真静はそんな自分のことが嫌いで、許せなかった。


 このままじゃいけないのは分かってる。

 冷静になろうと心がけてもいる。


 しかしどうしても、父に対してはブレーキが効かないのだ。


「ねえ」と、少し先を歩いていた千秋が振り返った。


「静兄、今、お父さんが言ったこと考えてるでしょ」


「……まあ、ちょっとな」


 勘のいい妹だと思う。

 まあ、父に関することで思い詰めている時は大体いつも見破られてしまうけど。


「さっきも言ったし、いつも言ってるけどもう一回。お父さんの言うことは右から左でいいの。いい? 分かってる?」


「分かってるよ」


 それに、優しい妹だとも思う。

 だから、口では千秋の常套句にはそう返す。

 分かっているよ、と。大丈夫だから、と。


 でも、心の中では違うことを考えている。

 右から左じゃ何も変わらないだろうと。ちゃんと向き合わなきゃいけないと。

 そうすることが最も、千秋を安心させることに繋がるだろうと。


 遠くに、見慣れた家の外装が見えてきた。

 自宅と虎大の家は歩いて五分ほどの距離。もうしばらく歩けば、家につく。


「………………」


 近づくその姿を見つめながらゆっくりと、歩幅を狭めていく。

 あともう少しというところで、完全に足を止めた。


「千秋!」と前を行く背中に声をかけ、ポケットから鍵を取り出し、弧を描くように投げた。


 そして、それを器用に受け取りこちらを見た千秋に、


「もう少しだけ、歩いてくる」


 そうとだけ、言った。


 千秋は、何も理由を聞かずに微笑んで、


「いってらっしゃい」


 と、返してくれた。




 駅にほど近い商業施設の中にある、大きな書店。


 軽めの夕食を済ませたミーアは、その中を当て所なく歩いていた。


 白い半袖のブラウスに、インディゴブルーのデニム。

 そして、足元には低めのウェッジソールというシンプルな出立ち。


 なるべく目立たないように。

 そういうつもりで選んだ服装であったが、その飾り気のなさが逆に自分の素材をこれでもかと引き出していることに、ミーアは気づいていない。与える印象を少しでも薄めようとかけた黒縁の伊達眼鏡がダメ押しになっていることにも、全く。


 なのでやはり、今日も今日とてミーアは人目を引いてしまう。

 すれ違う人たちの視線が、この世のものではないようなその容姿に吸い寄せられていく。


 しかし、今のミーアにそんなものは気にならない。

 慣れたというのももちろんあるが、ここは書店――本の海だ。

 それを前にすれば、自分に向けられる視線なんてもう意識の外だった。


 ざっと店内を一周してから、気になった本があった漫画コーナーの一角に戻る。


 人間界に来る前は自分には縁がないと思っていた漫画も、リッタから何冊か貸してもらっているうちにその面白さが分かるようになっていた。


 夏休みを機に読む冊数を増やしてもいいかもしれない。

 学校に友人がいなくて、敢えなく夏休みの予定がほとんどまっさらなわたしにはもってこいだ、なんて自嘲しながらそう思う。


 平積みになってる本を一冊、手に取る。

 タイトルは『さようなら毒親、はじめまして本当の自分』。


 以前からこの書店に来るたびに、気になっていた本だ。


 まず《毒親》という天界にはない単語が新鮮なのだ。調べてみると、定義はさまざまであったが、とにかく父――ガレスがそれに該当するようなので、それだけで気になって仕方ない。あらすじを読んでみても、どうにも興味が唆られる内容だ。


 ずっと買おう買おうとは思っていた。けれど、漫画を買うのがなんとなく恥ずかしかったミーアはその機をずっと逃してしまっていたのだ。


 今日こそ、これをレジに持っていこう。

 でも今は混んでるし、もうちょっとしてからにしよう。


 そうやって逡巡しながら、改めて裏表紙のあらすじを読んでいると。


「――もしかして、小松?」


 そんな声が、近くで聞こえた。


 その声に、ミーアはなんの気なしに振り返る。

 本に集中してたあまりそれは仕方ないことであったが、振り返った瞬間、思わず身体が跳ねた。


 それもそのはず。なぜなら、ミーアの目の前にいたのはよりによって、目下の監視対象――藤沢真静であったからだ。


 なんでここに?

 こんな不意打ちって無しなのでは?

 というか、今わたし話しかけられて――。


 ばっと、手に持っていた漫画で急いで顔の下半分を隠す。

 きっと自分は今、間抜けな顔をしている。手遅れかもしれないが、もう見られたかもしれないが、ミーアは真静にだけはこれ以上そんな表情を見せたくはなかった。


 ただ、そのせいで漫画の表表紙をバッチリと。

 まるで強調するかのように真静に向けてしまい、


「さようなら毒親、はじめまして本当の自分……?」


 タイトルをガッツリと音読されてしまう。


 カーッと、体温が上がっていくのを感じる。

 恥ずかしい……、恥ずかしい……! 恥ずかしいっ!

 とてつもない羞恥が、全身を駆け巡る。


「あ、えと、これは」なんて、目を泳がせながら見るからに取り乱して。

 それでも顔は隠したいから、本をもとの場所に戻すわけにもいかなくて。

 せめてもの抵抗は、その表と裏をひっくり返すことくらい。


 けれど、それも実は悪手。自分の首を絞める、とんでもない自爆行為で。

 なんとこの男、何をとち狂ったのかこっちに近づいてきたと思ったら、そこにあるあらすじを読み始めたのだ。大きくはないが、声に出しながら。


 ……嘘でしょ。

 なんなのこの状況。

 わたし、読み終えるまでずっとこの格好?

 シャロの実習先じゃないのだけは助かったけど。

 いや、もうシャロに助けてもらえた方がマシだったのかも。

 というか、こんなことになるならもう少しおしゃれな服装が良かったのに……。


 頭の中は、ひたすらにパニックだ。

 恥ずかしさを感じるまにまにパニックだ。

 次から次に頭を引っ叩かれてポロポロと記憶がこぼれ落ちていくように、一秒前に考えたことも、もう次の瞬間には覚えていない。

 ……あれ? リッタがゲームセンターでやってたのは何だっけ?

 ああ、あれはワニワニか……じゃなくて。


 ――まだなの?


 ミーアはとにかくこの時間が早く終われと、目を閉じながら耐えるばかり。


 しかし、真静は中々読み終えない。

 わざとなんじゃないかと思うくらい、ミーアにとってはゆっくりとあらすじに読み耽っている。


 とうとうミーアは耐えきれなくなり、痺れを切らして本を真静に突き出した。

「おっと」なんて言いながら体勢を崩しているが、知ったことか。こっちだって、もうなんか色々とグラついているのだ、精神的に。


「……読むなら、自分で持って読んで」


 羞恥に悶えながら、なんとかその一言だけ絞り出す。

 真静ははっとした顔になり、ようやく我に返ったのか本を受け取りながら「……悪い」とだけ溢した。


 そして訪れる、地獄の沈黙。


 あれだけ夢中になっていたのだから続きを読めばいいだろうに、なぜか真静はそうはせず、気まずそうに視線を泳がせている。


 そうされると、ミーアとしてもどうしたらいいか分からない。

 そっちから声をかけて来たんだから何か話すなら先に言ってくれと視線で訴えようにも、その視線が合うことはない。


 そうやって、お互いに気まずい空気に精神を摩耗させながら十数秒。


 近くを通りかかった子供の「ママ見てー、あそこほら、修羅場!」の声に耐えきれなくなった真静が、やっと口を開く。


「……ここにはよく、来るのか?」


「……うん。たまに、だけど」


「……そうか」


「………………」


「………………」


 ――地獄、アゲイン。

 何もこんなに早く、おかわりしなくてもいいじゃないか。


 ミーアは心の中で大きく嘆息する。

 ここまで困惑したのは、人間界に来てからは以来かもしれない。


 それからふと「そうか」とある事に気付く。

 やっぱりわたしの恙無つつがない日常を脅かすのはこの男の子なのか、と。

 そう思った途端、ふつふつと腹立たしい感情が湧き上がってきた。


 自分から声をかけておいて、そこからは放置とか。

 思えばあの時だってそうだ、勝手に爆弾を落としておいて三ヶ月以上もそのまま。

 処理だけこっちに任せて、あなたはのうのうと仲のいい友達とは楽しそうにおしゃべりして、ちゃっかり試験では自分よりもいい点数をとって。


 そんなのってなんか、フェアじゃないのではないか。


「……何も用がないなら、わたし帰るけど」


 気付くと突き放すような、冷たい声が出ていた。

 ちょっと角が立つ言い方になってしまったかなとも感じたが、それくらいでも丁度いいかと思い直し、このところ学校では見せていなかった冷たい視線で真静の瞳を捕える。


 目が合った真静は観念したのか「なんていうか」と前置いて、いつもの平淡な表情を取り戻しながらようやくまともに話し始めた。


「その、なんか……、気になってな。小松がこのコーナーにいるのが意外で。手に取ってる漫画を見たらもっと意外で……、なんかあらすじまで見せてくれるからますます意外で。で、もしかしたら小松も親とそんな上手くいってないのかって思ったんだけど、よく考えればそういうことって進んで人に訊くもんじゃないだろ? だから訊こうか迷って、中途半端な態度になってたっていうか。……とにかく、気を悪くしたなら謝る――ごめん」


 そう言って、目を伏せる真静。


 いや別に、あらすじは見せてあげたわけではないのだけど……。

 というか、そんなことより聞き間違いじゃなければいま彼は――


「……小松って、言った?」


 ミーアは首を傾げながらも、真静から視線を外さない。

 真静はしばらく「何のことだ?」という表情を浮かべていたが、やがて下手を打ったことに気付いたのか、すぐさまバツが悪そうな顔になり、


「あー……、いや、まあ……。……けど、大したことでもないから、忘れてくれ。えーと、邪魔したよな。これ、返すわ。……じゃあ、俺はこれで」


 なんて言ってミーアに本を手渡すと、踵を返してさっさとこの場から離れていってしまう。


 それを見て、また放置か、と。

 ミーアの胸は、面白くない気持ちでいっぱいになる。


 だって、そうじゃないか。

 あの時も、いつかの時も、今この時も。


 一方的にわたしが気になってばかりで、あなたが何かを答えることなんてなくて。

 わたしが悶々と考えてることなんて、あなたはつゆ知らずといった感じで。

 それはちょっとばかり、いや、すこぶる面白くない。


 手に持った漫画本を、元の位置に戻した。


 今まで見てるばかりだった背中に向かって歩き出す。


 もしかしたら、今この身を動かすのは面白くない気持ちだけではないのかもしれない。誰とも話す機会がなくて募らせた人恋しさもあるのかもしれないし、明日から始まる夏休みに柄にもなく浮かれた気持ちもあるのかもしれない。あるいは、ずっと見ているばかりだった人とようやく話すことができた純粋な感動も。


 だってそうでもないと、これからする行動には説明がつかないから。


 パシッとあえて強めに、前を行くその手を掴んだ。

 

 振り返ったその瞳が、驚いたように見開かれる。

 意趣返しのつもりもあったから、その反応は上々だ。


 それから、すかさず言葉を投げかけようとして。

 その前に、念の為の最終確認を心の中で行う。


 ――そう、これは決して彼に興味や関心とかがあるわけではなく、今この時ばかりどうにも引っ込みがつかなくなった感情に嫌々ながら突き動かされているだけだから、のっぴきならない事態に収拾をつけようとしているだけだから、


「――ねえ、もしよかったら今からふたりで……どこか行かない?」


 なんて、こんな言葉にも。


 他意なんて、これっぽっちもないのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あなたといつまで人間でいられるのだろう 乾クスハ @st7kusuha-i

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ