第15話 千秋と大志

 学校を終え、真静は自転車で家の近くまでやってきていた。


 どこにでもあるような住宅街。

 誰に聞いてもそんな感想が返ってくるであろう町並みではあるが、真静が住むこの地区は数十年前に湖の一部を埋め立てて整備された土地だ。


 湖とそれに流れ込む川に、周りを囲われるように縦長に伸びた土地で、川辺から湖畔にかけては遊歩道が設けられている。真静のたまの散歩にも欠かせない場所だ。


 やがて自転車で角を折れると、ブラックやグレーの、形の異なるブロックがいくつか組み合わされて造られたソリッドな印象の家が見えてきた。


 これが、真静の家。

 真静が小学生に上がるタイミングで父が建てた、注文住宅。

 年数は経っているものの、モダンな造りが年季を感じさせない。


 ただ、真静はこの家があまり好きではなかった。

 この家からはあまりにも、父の色が染み出ているような気がして。


 自転車を止めようと、広めのガレージに自転車で乗り上げる。

 すると、既に自転車が一台そこに止まっているのを見つけた。


 どうやら、妹はもう帰宅しているらしい。


 自転車に鍵をかけてから家のドアを開けると、玄関には見慣れたローファー。

「ただいま」と声に出すと、案の定リビングの方から「おかえり〜」と返ってきた。


 真静もローファーを脱ぎ、そのままリビングへ。

 風を通しているのか、廊下とリビングを隔てるドアは開け放されている。

 ドアを抜けると、ダイニングテーブルの向こうのキッチン――そこに立って料理の支度をしている妹の千秋ちあきの姿が目に入った。


 肩口で切り揃えられ、緩くウェーブする真静と同じ色の茶髪。

 アイロンでふんわりと整えた、柔らかい前髪。

 その下にある二重瞼は、今もなお海外で単身赴任をしながらバリバリと働く母の遺伝を大きく受けた、デキる女の目。


 まだ中学三年生ではあるが、身内びいきなしにしても高校一年生、ないしは二年生に間違えられてもおかしくないような印象だ。


 それもやはりイマドキなヘアアレンジと、見るからに要領の良さが窺えるその顔立ちが手伝って、というところが大きいのだろう。


「あー、静兄しずにい。冷蔵庫から梅ドレ取ってもらっていい?」


 ちょうど麦茶を飲もうと冷蔵庫に手を伸ばした真静に、千秋が声をかける。

 真静はいつものようにそれに応じた。


「はいよ――手伝おうか?」


「サンキュー。じゃあお願い。それに火、つけてもらっていい?」


 申し出たところ快諾されたので、真静は手を洗いに洗面所へ向かう。

 丁寧に洗ってからキッチンに戻り、千秋の隣で水の入った鍋を火にかけた。


 藤沢家では真静と千秋が料理当番を担当している。

 母は海外で単身赴任、父も会社員として夜まで働いてくるのでふたりでローテーションを組みながら毎日の食事を用意しているのだ。


 そんな生活もかれこれ三年。

 ふたりとも、料理にはだいぶ慣れてきた。

 とんとんとん、と隣で小気味いい音を立てながら綺麗な細切りになっていくキュウリがその証拠だ。


 ちなみに真静はここまで手際良くできない。

 でも、落ち込むこともない。千秋のスペックの暴力には幼い頃から晒されてきた。


「なに作ってるんだ?」


 お湯が沸騰するまでの間、麦茶を飲みながら千秋に尋ねる。


「んー?これはねー『梅ドレで食べるキュウリと鶏むねのヘルシーそうめん』でーす!」


 そう言ってキュウリを切り終えた千秋は、エコバックからそうめんの袋を取り出しじゃじゃーんとそれをこちらに突き出した。それから「これお湯の中入れて二分ね〜」と、そのまま真静にそれを手渡す。


「了解。美味うまそうだな。ちょうどさっぱりしたものが食べたかったとこ」


「でしょー!材料たくさんあるから、いっぱい食べてね〜」


 見ると、エコバックの中には二人分以上の材料。


「何でこんなに?」


 不思議に思い、その旨をうかがう。

 すると、千秋は口元をにまにまとさせ、含みのある視線を向けて言う。


「だって〜、今日は静兄だれか連れてくるかもしれないと思ったから〜」


「だれかって、だれ?」


「ん〜、そうだな〜。例えば――千束せんぞくちゃんとか?」


 千秋はそこで、にぱっと大きなスマイルを向ける。

 いや、にぱっ、ではないだろうと真静は千秋に呆れ気味に向き直る。


「……どうして千束の名前がここで?」


「どうしてって〜、それはどうしてでしょ〜?」


 妙に鼻につく、とぼけた声音。

 真静は沸騰した鍋にそうめんをパラパラと落としながら、嘆息する。


「……まあいい。とりあえず、今日だれかが来るなんてことはないから余りそうな材料はちゃんと冷蔵庫に入れておけよ」


「はいはーい。かしこまりでーす。――はぁ、一学期中に何かしらアクション起こさないと、残念夏休みになっちゃうぞ〜ってあれだけLINEしたのにな……」


「何の話だ?」


「なーんでもありませーん」


 千秋はそう言うと、そそくさと作業に戻る。


 真静は追及のタイミングを失い、仕方なくそうめんが踊る鍋に目を落とす。


 そのままお互い作業を続け、盛り付けを終える段階まできたところで千秋が口を開いた。


「静兄、あの予定って今日でいいんだよね?」


「ああ。そうだな、夕方になる前には出ようかなって思ってる」


「分かった!じゃあ、あたしそれまでに夕食も作っちゃうから、それから出よ?」


「ん、了解」


 これからの予定を確認し終わると、千秋は「できた!」と盛り付けの終わったそうめんをテーブルに持っていく。真静もそれに続き、そこに座った。


 四人がけのダイニングテーブル。

 向かい合って座る真静と千秋の隣には、ひとつずつ席が空いている。


 それを見て、ほぼ無意識。

 もし今ここにあいつがいて同じ食卓を囲んでたら、なんて想像が脳裏をよぎって。

 真静は、箸を手に持ったまま一瞬だけ動きを止めた。


 目の前でちゅるちゅるとそうめんを食べ始めている千秋に視線をやる。

 そして、余計なお世話なんだよな、と心の中で独りごちる。


 本当は、分かってはいるのだ。

 千秋が彼女の名前を出した理由も、あのような言い方をする理由も。


 でも、自分と彼女は千秋が思っているような関係ではない。

 いや、正確にはそういう関係にならないようにしている、というところなのか。

 そのあたりのことは、正直まだ自分にもよく分かってなくて。

 だからこそその部分をつつかれると、どうにも歯切れの悪いことしか言えなくなる。


 でもまあ、今すぐどうこうという問題でもないはずだ。

 これから時間をかけてゆっくり、向き合っていけばいい。


 てことで、ひとまずこの考えから離れようと。

 真静はいただきますも言わないで、勢いよく最初の一口を流し込む。


 やけに酸っぱく感じるのは、多分きっと、気のせいだ。





 ガチャンと、玄関のドアが開く音がした。


 真静が先に外に出たのだろうかと、千秋は二階の廊下の窓から家の前を覗く。

 すると、ガレージにはさっきまでなかった黒いセダンが。


 そう言えば今日、お父さん早く帰ってくるって言ってたっけ。


 大事なことを思い出し、千秋は外に出る準備もほどほどに急いでリビングに向かう。


 今そこには、真静がいる。

 千秋はなるべく、兄と父を二人きりにさせたくなかった。

 普段からあまり上手くいっていない二人は、ここ最近はまた輪をかけて仲がよろしくない。放っておくと衝突しそうな雰囲気があるくらいには、そんな感じだ。


 リビングのドアのところまで来ると、既に父――大志たいしがネクタイを緩めながら真静に話しかけているところだった。


「真静、この前渡した予備校の夏期講習のパンフレットには目を通したか?」


「……してない。そもそも、俺は予備校に行く気はないって言ってるだろ。成績はそれなりの位置をキープしてるし、これからも独学で問題ない」


 顔には出さないが、心底めんどくさそうに返事をする真静の姿が目に映る。


 このまま話が続いても、あまりいい方向に行かなそう。

 そう思った千秋は、二人の気を逸らすように話に割って入ることにする。


「あ、お父さんおかえり〜。夕食はもう食べれるようになってるから、おなか空いたら適当に食べて〜」


「おお。ただいま、千秋」


 そしてそのまま「そう言えばさ〜」と、他愛もない会話でその場をつなげる。

 その間に真静は千秋の横を通り過ぎ玄関の方へ。


 兄に甘いと言われるかもしれないが、これでいい。

 要らぬいさかいの芽を摘んだのだ、こっちの方がよっぽどわたしらしく、賢い。


 やがて、大志が千秋のよそ行きの格好を見て「どこか行くのか?」と聞いてきた。


 それに千秋は、


「そうそう。ちょっと静兄と、こーくんの家まで」


 と、自分と真静の幼馴染の名前を答える。


 大志は帰りにどこかのコーヒーチェーンで買ってきたであろうアイスコーヒーを煽りながら「誰だっけか?」と、どこかピンときてない様子だ。


「ほら、わたしたちの幼馴染の東崎虎大とうざきこおくんだよ」


「ああ、東崎さんちの」


 千秋の補足に、大志は「あの子か」とようやく思い出したよう。

 で、その流れでいろいろ思い出したのか、まるで言い淀む様子も見せないまま、それどころか少し嘲りを含んだ調子で、こんなことを言ってのけた。


「確かあの子、まだ学校行けてないんだったな。親御さんは大変だろうに。このままじゃ彼は完全に――


 ――まずい、と。

 千秋は直感的に、そう思った。

 その背後。玄関の方から感じる、声にならない静かな怒り。


 これ以上はダメ。

 そう思うも、大志は止まらない。


「もう随分と長いんじゃないか? 真静と同級生だから、五年以上になるか。これだけ長いと、ますます社会に戻りづらくなるだろう。中学高校に上がる時とか、心機一転できるタイミングで何度もあったはずなのに、彼は自分から何か行動を起こせなかったのか?」


 こういう時に限って、言葉が出てこない。


「で、今はその状況でバイトもしてないって話だろ? そう考えると、甘えてるように周りから見られても仕方ないよなあ。このままじゃ辛くなる一方だぞ。ま、それでもきっかけはどうあれ、今ある現状は自分で招いたものだから言い訳もできないだろうけど」


 この場を上手くまとめる、気の利いた言葉が。

 魔法のように一言で空気をパッと変えてくれるそんな言葉が、見つからない。


「まあ、他人ひとの家のことだからこれ以上は言わないが、自分の家のことを言うなら――千秋、?」


 真静もな、と。

 そう言って大志は、二人の我が子に冷ややかな視線を送った。


 後ろから、怒りを帯びた足音がこちらに向かってくる気配を感じる。

 千秋はそれを止めるように、慌てて大志に反論する。


「そ、そんな! ちゃんと選べよなんて! 確かにこーくんは髪染めてたりするけど、そんな悪い子じゃ――」


「別に、俺はそこを問題にしているわけじゃない。非行に走ろうが、それこそ引きこもろうが、ちゃんと行動を起こせるやつは自分から立ち直ることも出来る。ただ、それが出来ないようなやつに構ってる時間はあるのかって話だ。親の欲目かもしれないが、お前らはよくできた子だ。だから限りある時間は有意義に使って欲しい。一時いっときの気の迷いで無駄にしてほしくはないってだけだ。まあ、今日は約束してしまったんだから仕方ないとしても」


 これからはどうするか、ちゃんと考えろよ?


 そう残し、大志はキッチンへ。

「今日はカレーかー」などのんきにやっているが、千秋は二の句が継げなくなる。


「……千秋」


 強いて出来ることがあるとすれば、大志のもとへ向かおうとする真静の腕を握って、こうやってその場に引き留めることだけだ。


 やがてため息ひとつ。千秋は小さな声で真静に話しかける。


「はぁ……。もう、仕方ないか。静兄、行こ」


「いやこのままだとな……」


「いいから、行こ」


 手に入れる力を、少し強める。


「いつも言ってるでしょ? お父さんの言うことは右から左でいいの。バカ正直に真に受けるもんじゃないって――特に静兄はね。だからさっさと忘れちゃお」


「……分かったよ」


 握った腕から、力が抜けるのを感じた。


 千秋は手を離し真静の背後に回り、身体をぴったりくっつけるようにして玄関までその背中を押していく。


「……自分で歩けるって」


「いいの、これで」


 そのまま玄関まで進み、段差の手前で身体を離した。

 新作のストラップサンダルに足を通し、真静よりも先に外に出る。


「ほーら静兄、行こー!」


 カツカツと、あえて音を立てるようにサンダルを鳴らした。

 それから、デニムのハーフパンツ――そのポケットの中の鍵を掴んで、やれやれといった表情で出てきた真静に、ぽーんと投げる。


 真静は少し慌てながらも、しっかりキャッチ。

 ややあって、父がひとり残る家に鍵をかけた。


 ――そうだ、そうやって鍵をかければいい。


 千秋はその様子を見ながら、心の中でひとり思う。


 いつまでもずっとって訳にはいかないけど。

 苦しかったり耐えられなかったりすることがあるときは、少しだけ。


 そうして止まり木の上、羽を休めて。

 気持ちを落ち着かせて元気が出たら、また鍵を開けて向き合えばいい。


 そうしていくことで『静兄がいてもいい場所』が守られるのであれば。

 わたしはいつでも、その鍵を渡す存在でいたい。


 これはきっと、あの時の罪滅ぼしなのだろう。

 どこまでいっても、紛う事なきわたしのエゴだ。


 でもだからって、大人しく引っ込むのもそれはそれで違うと思う。


 それにもう、あんな想いをするのも、あんな想いをさせるのも。


 わたしは絶対に、どんなことがあっても嫌なんだ。

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