第14話 聞いてみたいこと

 始業時間がせまり人がまばらになった昇降口で、急いでクラスを確認する。

 自分の名前を2-Bの一覧に見つけ、ミーアはかけ足で教室のある三階へ。


 その間に、これからの学校での過ごし方について考えを巡らす。


 とりあえず、あの男の子は要注意。

 その他の生徒も――いや、先生も含めて最初のうちは警戒してもいいかもしれない。


 それだけを心に決め、三階までたどり着いたミーアは自分のクラスを探す。

 生徒がほとんどいない廊下を進み、やがて2-Bの札がかかった教室を見つけた。


 ドアは開いている。

 そこから見える同年代の人間たちの姿に多少緊張しつつも、ミーアはなるべく自然に、天界でするのと同じように、静かに教室に入った。


 最初に目に入ったのは、廊下側の席に座ってる男の子。

 見間違いじゃなければ、さしあたって最も警戒すべき、因縁の(?)相手。

 二年生のクラス表の前にいたから、こうなる可能性があることも考えはしたけど。


 ミーアは「嘘でしょ」と思いながらも、そのことはおくびにも出さず、ちろりと流し見るにとどめ、すぐに黒板に貼られている座席表を確認しに向かう。


 さっきまで賑やかだった教室は、今は水を打ったように静かで。

 背中にクラス中の視線が突き刺さるのを、ひしひしと感じた。

 覚悟はしていたが、居心地のいいものではない。


 座席表の、窓際の後ろから二番目に『小松美亜』の文字を見つける。

 ミーアは視線から逃れるように少し足早に、しかしきっちりとした足取りで自分の席まで向かい、そっと椅子に座った。


 次第に、教室の中に小さなざわめきが広がる。


 自分に向けられる好奇の目と、ボリュームは抑えているものの興奮したような声。

 あまりいいものではないが、そこに悪意は感じられない。

 ひそひそと陰口を言われたり、後ろ指をさされるのとはまた違う、初めての感覚。


 慣れない雰囲気に身をよじらせたくなったところ、ガラガラガラ、と教室のドアが閉まる音がした。どうやら、担任の先生が入ってきたらしい。


 向けられていた視線が、ひとつ、またひとつと外れていくのを感じる。

 まだざわめきは収まらないが、これで一旦、落ち着くことができそうだ。


 先生の声かけで、生徒たちが自分の席に戻っていく。

 その間、ミーアはその様子を眺めながら、心の中で自分にあるルールを課した。


 とりあえず、人間という存在がどういうものかを見極めるまでは――天使バレのリスクがないと自分で判断できるまでは、不必要な馴れ合いはしないこと。


 やっぱりバレちゃいましたなんて、話にならないから。

 これからがある他の実習生のためにも。

 とにかく、慎重に行動しよう。


 と、そう決めたのだった。




 そして迎えた今日――夏休み前の、最後の登校日。


 ついにミーアは、自分に課したルールを一度たりとも破らないまま、夏休みを迎えようとしていた。


 厳密に、いや、正直に言ってしまえば破らないもなにも、ルールなんて途中からあってないようなものになっていた。5月の連休以降、馴れ合うどころか自分に近づく生徒は、ほとんどいなかったのだから。


 警戒、しすぎたのだろう。

 慎重に、なりすぎたのだろう。


 結局なにも起こらなかった今、ミーアの胸ではそんな後悔が渦巻いている。


 窓の外に向かわせていた視線を、再び教室の右前に向ける。


 全ては、彼の「天使だ」という一言から始まった。


 もちろん、分かってはいる。

 これが身から出たさびであるということは。

 自分の無知と心配性が招いた事態であるってことは、分かっているのだ。


 けれど、ちょっとだけ思ってもしまう。


 あなたが変なことを言わなければな、とか。


 確かに、自分に向けられる《天使》という言葉には、その後も何度か遭遇することがあった。それは時に、遠巻きに。そして時に、衆目の中で。


 だから、ふたり以外に誰もいなかったあの日あの時の、まだわたしが誰かと関係を築く前の、そんな時に鉢合わせた一言だったのだから良かったでしょ、とも言えるのだろうけど。


 あの日以来、わたしを気にする素振りをまるで見せないあなたは。

 きっと、あの時のことなんてもう忘れてるんだろうな、と。

 きっと、過ぎ去る日常の一幕にしか思わなかったんだろうな、と。


 そう考えると、ミーアは少しだけ腹立たしくなるのだ。


「はぁ……」


 頬杖をついて、誰にも分からないように小さくため息をつく。


 ――藤沢真静。


 この一学期、彼を見てきた。

 とりわけ5月の連休明けからは、彼だけを見てきた。


 他の生徒への態度を軟化させてからも、この男の子だけは油断ならないと、警戒すべき――もっと言えば監視すべき対象として、その行動に目を向けていたのだ。


 で、そうしているうちに二ヶ月とちょっと。

 ミーアは次第に、真静について分かることが増えていった。


 真静には、二人の仲のいい友人がいた。

 同じ2-Bの上高津潤かみたかつじゅんという男の子、そして隣の2-Cの千束彩乃せんぞくあやのという女の子だ。


 二人とも明るく溌剌とし、普段から人の輪の中心にいるような生徒で。

 彼には失礼かもしれないが、意外な組み合わせ、と思ってしまうくらいにはどちらも目立つ存在だった。


 ただ、彼を含めたその三人は中学校からの付き合いらしく。

 なるほど言われてみれば確かに、旧知の仲ゆえの気安さや遠慮のなさが、その三人の間にはあるのだった。


 特に彩乃とは休み時間に廊下で話していたり、たまに一緒に帰っているのを見かけたことがあって。


 その間柄は、恋人というよりは友達のように見えたけど、深い仲には変わりないのだろうな、というのがミーアの率直な感想だった。


 とにかく、彼らが一緒にいる時の空気は気取ってなくて、自然なままで。

 男女三人と女子三人の違いはあれど、まるで自分とシャロとリッタの関係をそこに見ているような、そんな気がした。


 けれど、彼が気を許したような笑顔を見せるのは、その二人だけだった。


 他の生徒とは、話をしているのをあまり見たことがない。


 べつに、天界でのミーアのように周りから敬遠されているわけではないのだ。

 今のミーアのように、周りからそういう人として距離を取られているだけ。


 本人もそれが自然であるかのように過ごしているし。

 波風を立てないように自分を押し殺している、という感じもない。

 むしろそこに関して言えば、彩乃と仲がいいことで一部の男子生徒の嫉妬を買っているくらいだった。


 親しい友人とだけ付き合い、周囲のことはあまり気にせず。

 淡々としているようでも、地に足をつけるように日々を送る。


 その姿には、どこか自分と重なるものがあるような気がして、ミーアは余計に強めてしまったりしている。


 それと、彼はかなり優秀な生徒だった。


 試験があるたびに、廊下に張り出される成績優秀者一覧の紙。

 そこで彼は、常に十番代の成績を収めていた。


 県内有数の進学校でもあるこの都和高校で、その二学年に在籍する二百名余りの生徒のなかにおいてそうなのだから、そう言って間違いはないだろう。


 気になるのは、それがいつもミーアのちょっと上の成績だということ。


 中間も。この前の期末も。

『小松美亜』の名前を少し上にたどると、そこには『藤沢真静』の名前。


 ミーアはそのことも、密かに腹立たしかったりする。


 まあ、天使なのに人間の高校生の試験でその位置につけてるミーアがもっとも優秀と考えることもできるが。


 それとこれとは話が別である。


「よーし、じゃあ、そろそろホームルームも終わりにするぞー」


 すでにお休みモードな先生のかけ声に、ザワっと教室の喧騒が濃くなった。


 上の空だったミーアも、視線を教卓へと戻す。


 やがて学級委員が号令をかけ授業を締めると、教室は弛緩した空気とお祭り前のような熱気に包まれた。


 今この時をもって、ミーアにも一ヶ月以上の自由が与えられた。


 彼への監視も、ひとまずここで中断だ。

 まあ今となっては、もう必要のないことなのかもしれないが。


 教室のドアを、見慣れた背中が通り抜けていく。

 どうやら帰り支度をもう済ませた彼は、今日もさっさと帰る心づもりらしい。


 ミーアはその様子を、号令の時に席を立ったままの姿で見送った。


 結局、この一学期に彼と直接なにかを話すことはなかった。

 どうせ顔を合わせたところでなにを話せばいいのかなんて、分かりやしないのだけど。


 椅子に座り、ミーアも帰り支度を始める。

 普段から物が少ない机の中を空にしながら、なんとなく、もう一度だけ教室のドアを見る。


 ……なにを話せばいいかは、確かに分からない。


 けれど、ひとつだけ、聞いてみたいと思っていることはあった。


 彼の横顔や背中を見る度に胸をよぎる想いが、ひとつだけ。


 でも、それは聞かない。

 と言うより、聞けるはずがない。


 だって、そうでしょ?


 あの時どういうつもりでわたしに天使って言ったの?――なんて。


 聞けるはずが、ないのだ。

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