第12話 憂鬱と天使バレ

 終業式が終わって、最後の授業――ホームルーム。

 授業というよりは、先生が長期休暇の過ごし方や連絡事項を話したりするだけの、もう夏休みに片足を入れてしまったような、そんな時間。


 来たる1ヶ月以上の自由に、どこかそわそわと落ち着かない空気が教室に流れている。普段、授業中にはほとんどない私語も、どうにもこの時ばかりは多くなりがちだ。担任の先生も、特にそれを注意する素振りは見せない。まるで、最初からこうあるのが自然かのように、この時間は過ぎていく。


 開け放してある窓から、優しく風が吹き込む。

 それにそっと流されるようにして、教卓に向けていた視線を、わずかに教室の右前に移す。

 そうやって、窓際の後ろから二番目の自分の席に座っている女子生徒――小松美亜ミーアは、廊下側の前から二番目の席に座っている男子生徒のことを見つめる。


 ――藤沢真静。


 男の子にしては柔らかい、深い茶色にけぶった髪。

 頬杖をついて手元のプリントを見るのは、二重瞼の下にある黒い瞳。

 襟元から覗くうなじは、わたしとは違う、健康的な肌色で。


 その様子を見て、ミーアはなんとなく視線を窓の外に移す。


 そこに広がるのは、この学校に入学してから何度も見た景色。

 ミーアはこの景色に、幾度となく救われた。こうやって窓の外を見ていれば、誰かが話しかけてくることはほとんどないから。


 だから、この窓際の席はお気に入りだ。

 人付き合いが得意ではなく、ある一件を機に人付き合いを避けなければならなくなったミーアにとっては、打って付けの定位置。


 でも最近は、少しだけ味気ないと思っている。

 キラキラと光る湖面を見つめながら、そんなことを思っている。


 そして、その味気なさの正体も知っている。

 つつみ隠さず、恥も外聞も無く白状してしまえば――ミーアは寂しかったのだ。


 天界にいたときは、自分を敬遠する天使がいる一方で、シャロとリッタがいた。

 お昼を一緒に食べたり、放課後の時間を共にする友達が、いつもそばにいた。


 べつに、独りなんて慣れっ子だ。


 長いこと両親がいない生活をしていたし、父が帰ってきてからも家ではほとんど一人で過ごしているようなもの。だから、孤独や寂しさなんて感じる性分ではないと思っていた。


 けれど、いまこうやって寂しさを感じているのは偽らざる事実であって。

 自分がこんな単純に寂しさを感じるなんて、思ってなくて。

 それが、どうにも情けなくて。


 ミーアはそっと、ため息をつく。


 本当は、自分にもひとりやふたり、親しい人間ができるのではないかと思っていた。


 ――自由に走り出せ。


 移界する前のあの部屋で、ヴァイネッケンに背中を押された時。

 そして、祖父――セトの言葉を思い出した時。


 人間界での生活を少しは楽しんでもいいかも、と思えたのだ。

 その中で、誰かと親しくなることがあってもいいとも。


 でも、実際はそうはならなかった。


 それはこの4月、初めて登校したあの日。

 その時の出来事で、ミーアのその後の学校生活は大きく変わってしまったから。


 ミーアは窓の外に視線を向かわせたまま、湖面に当時の情景を映すように、その日のことを思い返す――。




「――――――天使だ」


 目の前にいる男の子がそう口にした時。

 ミーアはその言葉が意味するところを、すぐに理解することが出来なかった。


 おかしな話だ、と思う。

 今に至るまで、自分でも何度となく口にし、耳にしてきた――ましてや自らの存在を指す言葉が、分からないなんて。


 でもその瞬間は本当に、どうしようもなく、そうだったのだ。

 頭が真っ白になるとはこういうことか、なんて、余計な思考だけは働くのに。


 やがて、男の子がはっと我に返ったような表情を見せて。

 その様子が目に映ってようやく、ミーアの頭も徐々に活動を再開する。


 ……今、この男の子は《天使》と言ったの?

 ……他でもないわたしに向かって、《天使》と?

 えっと、でも、それは……ありえないんじゃ、ない?

 そうだきっと、《てんし》という発音の、全く違う意味の言葉とかで……。

 だってまだ、天使だと思われるようなことなんて。

 バレるようなことなんて、何にも。

 本当に、何にも――。


 じわり、と額が不自然に熱を帯びるのを、ミーアはそのタイミングで感じ取る。

 それは、御使によって天印が刻まれた場所に違いなくて。


 ――嘘だ。


 と、ミーアは全身から血の気が引いていくのを感じる。


 こんなことで、わたしのこれからが。

 いや、わたしだけじゃない――シャロの、リッタの、他の実習生のみんなの大切なこれからが。


 ――なくなってしまう。


「え、と、その……。違うの……」


 こんな言い訳も、もう意味なんかなくて、


「わたしは……。わたしはっ……!」


 そもそも、するにしたってどうやってって話で、


「――――ッ!」


 そうしたらもう、どうすればいいかなんて分からない。


 気付くとミーアは、全速力で走り出していた。


 昇降口を背に、男の子から逃げるように、ただひたすらに走る。

 不審がる守衛の視線にも気づかずに校門を抜け、そのまましばらく、足が回らなくなるまで通ってきた道を引き返す。


 そして、肺がちぎれそうになるまで走ったところで、身体を投げ出すようにして膝をついた。


「ハァ……ハァ……ハァ……」


 息を切らしながら、身体を折るようにしてその場にうずくまる。

 みっともなく、誰かに許しを乞うように手のひらを地面につけ、頭を下げ。

 情けない格好を晒しているんじゃ、なんて、頭も回らないまま。

 とにかく息が整うのをただ待つ。


 汗で頬に張り付いた髪が鬱陶しい。

 吸い込んだ空気が、肺を刺すように冷たい。

 かと思えば、勢い余ってアスファルトにこすり付けた膝は熱い。


 でも今は、そんなことはどうでもよくて。


「……どうしよう」


 ゆっくりと、知らない場所で目を覚ました時のように、顔を上げる。

 目の前には、見たことのない風景。

 どうやら走っているうちに、通学路からそれた道に入ってしまったらしい。幸い、周囲に人の影はなかった。


 少しだけ息が整って、ミーアは鞄からハンカチを取り出す。

 それから路肩の壁に背中を預けるように座って、それを擦りむいてしまった膝にあてて、


「……どうしよう、本当に」


 もう一度ぽつりと、どうにもならない心中をこぼす。


 コツンと、後頭部を壁にもたれかけさせる。

 目線の先、点滅信号の赤が、一定の間隔で明滅を繰り返す。

 いつか、赤のまま点灯する時が来たら、自分が――みんなが人間界からの退場する合図になるんじゃないか、なんて考えて。


「……そっか、もうここにはいられないんだ」


 おそらくこの後、天印を介して強制送還の魔法が展開され。

 自分たちは、何も出来ないまま――何も成し遂げられないまま、天界に戻っていく。

 これから本格的に始まるはずだった実習は、もうここで終わり。


 そこまで考えてふと、涙がこみ上げてくるのを感じた。

 でも、ミーアは唇を噛み締め、それをぐっと堪える。

 そしてそっと、目を閉じる。


 それは涙が出そうになった時の、ルーティーン。

 涙じゃ何も解決しないことを知っているミーアが、再び前を向くときのサイン。


 天使バレは、もう既に起きてしまった。

 そればっかりは、これからどうすることも出来ない。

 だからせめて、大切な二人の親友に心の準備だけはしてもらうことにしよう。


 そう思い、ミーアは鞄の内ポケットからスマホを取り出す。

 まだ使い慣れない薄っぺらの箱を両の手で抱え、遠くにいる人間と文字や音声で会話ができるアプリの、緑色のアイコンをタッチする。


 トーク一覧にある名前は、まだ二人だけ。

 これからもっと増えることもあるのかな、なんて思ったりもしたけど。

 どうやらそういうことも、もうないみたい。


 そんなことを考えながら、リッタとのトーク画面を開く。

 そこには、お互いに送ったスタンプがひとつずつ。

 結局、人間界に来てからもどこかお互い気まずい空気を感じ取って、まともに話さないまま今日を迎えてしまった。


 画面の右上にある通話ボタンに触れ、リッタに電話をかける。

 シャロは朝から実習で本屋にいるって聞いてるから、いま電話が繋がる可能性が高いのはリッタだ。


 スマホを耳元に持っていき、繰り返されるコール音を5回ほど聞いたところで、リッタが電話に出た。


『……ふぁ〜い?』


 スピーカーから漏れる、眠たげな吐息まじりの声。

 今起きたのか、それともこれから寝るのか。

 後者の可能性が高いと思いつつ、


「……もしもし、わたしだけど。大事な話、時間がないからちゃんと聞いて」


 そう前置いて、リッタの意識を覚醒させる。

 ミーアの真剣な声音に気づいたのか、リッタも声のトーンをそれに合わせる。


『……どうかしたの?』


 少し不安が滲んだ、何かを探るような声。

 ミーアはそれに、申し訳なさを押し殺しながら、簡潔に返す。


「ごめん、天使バレした」


『――――え?』


 通話口の向こうの、リッタの驚いた顔が頭に浮かぶ。

 罪悪感が急に押し寄せ、気丈を装うつもりだった自分の声が、少し震える。


「天使バレ、した。……ごめん、いきなり言われてもって感じだよね。でも、いつ強制送還になるか分からないから、最初に言おうと思って……」


 それでも、そのまま伝えるべきことを続けようとして、


「本当に、ごめん……。言いたいこと、色々あるだろうし、わたしも謝り足りないけど……、シャロにも一応連絡しないとだから、今はこの辺りで――」


『ちょっと待った!ちょっと待った!』


 話を締めくくろうとしたところを、リッタに止められる。


「……なに?」


『本当に天使バレしたの?ミーアの勘違いじゃなくて?』


「したと、思う。だって天印を刻んだおでこのあたりも、熱くなって」


『天印を刻んだところが?……うーん、まあいいや。とりあえず何があったか、わたしに教えてみ?』


「え、でもシャロに……」


『い・い・か・ら!全部は分からないけど、もしかしたらミーアの勘違いじゃないかっていう可能性で、ひとつ思い当たるところがあるからさ』


 少し強引に、さりとて、ミーアを落ち着かせるように。

 リッタは器用に声色を調整して、ミーアに何があったかを話すように促す。


 たぶんきっと、スピーカー越しのその表情はいつになく真剣だと。

 ミーアはそう感じ、リッタに事の顛末てんまつを話し始めた――。

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