第2章
第11話 真静と美亜
7月22日。
夏――日本。
大きな湖のほとりにある、人口15万程のとある地方都市。
10日前に梅雨明けを迎えたこの地域は今日も晴れ渡り、青空には綿を千切ったような雲がぷかぷかと浮かんでいる。白い帆を広げた何艇ものヨットが南南西から吹き込む風を受けながら湖面を滑り、夏の日差しがその周りを目を細めてしまうほどに
天気予報によれば今日は一日中晴れ。
流れる汗を
どうやら夏本番の暑さは、明日から始まる夏休みにとっておいてあるようだ。
開け放した窓から、夏の匂いが風に乗って入り込んでくる。
ここは、県内有数の進学校――
小高い丘の上に立つこの学校のこの教室からは、夏にさんざめく湖面を一望することが出来る。
その眺めは、青春の1ページにはとっておきのようで、でもやはり、まだ情緒の何たるかを理解できるほど成熟していない自分みたいな高校生にはもったいないような、そんな景色。
――だから、この景色を眺めるのは、ああいう人間が似合うのかもしれない。
終業式を終え、ホームルームを残すだけとなった休み時間。廊下側の前から二番目の自分の席に座っていた男子生徒――
――小松美亜。
風を纏い、サラサラとなびく銀髪。
窓の外に向かわせた、淡い青をたたえた瞳。
夏服から覗くその肌は、どこまでも透き通るような白で。
その様子を見て、思わずため息が
ただそれは、ひとえに彼女の美しさに魅せられて溢れたものではない。
それ以上に、今年の4月、年度が変わってから初めて登校したあの日。その時に起きた出来事の、淡く、ほろ苦い記憶を思い出したが故でのものであった。
真静は正面に向き直り、頬杖をついてその日のことを思い返す――。
4月7日。
まだ肌寒い春の朝。
真静は人影の無い校門を、自転車で風を切りながらくぐる。
クラス替えがあるこの日、真静は普段よりかなり時間を早めて登校した。
そうでもしないと、クラス表が張り出される昇降口が混み合ってしまうからだ。
人混みや喧騒があまり好きではない真静にとって、それは避けたい事態だった。
敷地内にある小さな桜並木を抜け、まだ物寂しい駐輪場に自転車を止め、校舎へと向かう。
昇降口が近づくにつれ、そのガラス戸に大きな白い紙が何枚も張り出されているのが見えてくる。クラス表だろう。周囲には誰もいないので、人が集まってくるまではゆっくり見ることが出来そうだ。
クラス表が見えるところまで近づき、AクラスからFクラスまでのどこに自分の名前があるのかを確認する。
真静の名字は藤沢。
表を下から見ていった方が早く見つかるので、まずはAクラスの名簿の一番下を見る。ジッとしてると少し寒いため、制服のズボンのポケットに手を入れ、首を下から上に動かす作業を繰り返そうとし、思ったよりも早い段階で自分の名前を見つけた。
『2-B 出席番号29 藤沢真静』
今年のクラスは、どうやら2-Bということらしい。
それから、次は上から順に同じクラスになった生徒の名前を眺めていき、上の方に数少ない友人の見慣れた名前を見つける。「今年も一緒か」と少しだけこの先の未来が明るくなりそうな予感を感じ、その少し下、今度は見慣れない名前に目が止まった。
『2-B 出席番号12 小松美亜』
――こんな名前の生徒、この学年にいただろうか。
少なくとも、毎試験時に校内に張り出される成績優秀者一覧では見たことがない。それに、その名前が去年誰かの口から出るのを聞いたことも、全く。
そのことに少し疑問を覚えつつも、でもまあ、と鞄を肩にかけ直し、真静は思考を切り替える。
もとより誰かと話すことが多くない自分が耳にしなかっただけかもしれない。
それに、そもそも同じ学年の生徒の名前を全て覚えているわけでもない。その中の一人かもしれないし、転校生の可能性だってある。
よくよく考えればそこまで気にすることでもないか。
そう思い、下駄箱の方へ足を向ける。
と、その時。
すぐ近くにふわりと誰かの体温を感じた。また、それと同時、白百合のようにみずみずしくほのかに甘い香りが、ふいに真静の鼻をくすぐる。
誰か側に来たのだろうか。
不思議に思い、ゆっくりと視線を隣に移し――。
――そこで真静の現実は、息を止めた。
そこからの数秒は、春のまどろみの中か。
あるいは、出来すぎた虚構の中か。
サアァァァと、銀色の風がそっと吹く刹那。
少女のかたちをした
降り注ぐ春光がその輪郭を滲ませたかと思えば、浮かび上がらせて。
吹き抜ける風がその白銀をなびかせたと思えば、スカートの裾を膨らます。
目に焼き付くような透き通る白に、覆われて。
押し寄せる淡い青の波に、呑み込まれる。
そのまま身体は
銀、白、青が溶け合う、
手足を投げ出すように、ゆったりと。
羊水の中で聞く鼓動のように、ゆっくりと。
沈んで、沈んで、沈んでいく。
どこまでも、どこまでも、どこまでも。
やがて、遠くの
溢れたあぶくが行き着く先に。
少女の影を見たような。
なぜか、そんな気がして。
――ああ、これは。
幻、なのだろう。
なにかが連れてきた、白昼夢のような。
そしておそらく、それを連れてくるのは。
神か、悪魔か。もしくは――
「――――――天使だ」
それが自分の声だと気付くまでに、たっぷり5秒。
真静は自分の口から溢れた言葉にはっとし、我に返る。
そして再び、少女と目が合う。
――そう。目が合った。
どこまでも
それを少しずつ実感したところで、真静は自分の口をついて出た言葉が。
この状況で使う『天使』という言葉が、多分に誤解を招く可能性があることに気付き始めて。
そういう意味で使ったわけではないというか、そもそも彼女に向けたものですらないただの独り言なのだけど。
なにか言い訳をしなくては、と思い始め。
そんな時、少女の目が次第に大きく見開かれる。
そして、
「え、と、その……。違うの……」
もとより白いその顔を蒼白にして、
「わたしは……。わたしはっ……!」
ひどく
「――――ッ!」
少女は真静のもとから、全速力で逃げ出してしまう。
真静はただ、校門の方に駆けていく彼女の後ろ姿を見送ることしか出来ない。
「………………」
……やってしまった。
誤解とはいえ、初めて会う女子に、あんな言葉。
右手で顔を覆い「はぁ」と大きなため息をつく。
その際、落とした肩から鞄が滑り、地面を叩いた。
ドスっという音が、ただただ虚しく響く。
明日からあの女子に会うたび、どんな顔をすればいいのだろうか。
せめて、同じクラスじゃないといいけれど。
そう思う真静に、その少女こそ『小松美亜』なのではないかと察する冷静さは残っておらず。
真静は力の入らない左腕でなんとか鞄を持ち上げ、いつもより重い足取りで下駄箱に向かう。
ただ、その一方。
どんな顔をすればいいのか分からない、その一方で。
少しだけ残った頭の中の冷静な部分、真静は密かにこんなことを思った。
――べつに、そういう意味で向けていたとしても、全く違和感はないか。
それが、真静が小松美亜と初めて会った日のこと。
その日、美亜は始業時間ギリギリになって教室に姿を現した。
そしてクラス中の視線とため息を浴びるなか、真静を警戒するように一瞥してから自分の席に着いた。
真静はその時の情景を、敵意にも似た警戒を、今もまだ鮮明に覚えている。
それから月日が流れ、三ヶ月以上が過ぎた今日。
その警戒は、当初に比べればだいぶ
もしかしたら、もうほとんど無いと言ってしまってもいいのかもしれない。
少なくとも、ああやって窓の外に目を向けることができるくらいには。
ただそれでも、悪いことをしてしまったなという思いは残る。
聞けば、外国人の母親を持つ彼女は小学生の頃から去年まで北欧の日本人学校にいたと言う。生まれは日本とも聞いたが、こちらでの生活は久々ということらしく、転入前は学校での過ごし方に強い不安や緊張を感じてたとしてもおかしくはなかった。
にも関わらず、彼女の初登校日。自分が何をしでかしたかと言えば、出会い頭に「天使だ」なんて言葉を頂戴させてしまったのだ。それは動揺もするだろうし、軟派な男にいきなり目を付けられたと思って警戒したとしても仕方ない。
逃げられたことには多少驚きつつも、そのような思いから真静は未だに美亜に申し訳なさを抱いていた。
そしてそれ以上に、非を感じていることがもう一つ――。
真静は始業式が終わった時点で、こう思っていた。
これからしばらくは、彼女の周りは人で溢れる。
言わずもがな、あの容姿だ。お近づきになりたい生徒たちが殺到するだろう、と。
それは、たまに触れる漫画やアニメの知識から来る類型的な空想。
現実に持ち込むにはいささか違和感を覚えるようなものだったが、その理解がありつつも小松美亜という少女ならそんな空想も実現させてしまうんじゃないかと、真静はそう思ったのだ。
しかし、現にそうなることはなかった。
理由は明確。
美亜は、真静に向けたような警戒を学校にいる全ての人間に向けたのだ。
それ以来、美亜は一人だった。
4月のうちは、気を遣って話しかけにいく生徒がまだいた。
でも、彼女はそれにぎこちない笑みで困ったように返すばかりで。
5月の連休明け以降、彼女に私的な用で話しかけにいく生徒はいなくなった。
世話焼きなクラス委員も、やんちゃな運動部も、担任である教師さえも。
やがてクラスが、学年が、学校全体が、彼女に「一人でいたい子認定」を与えた。
それと時期を同じくして、その警戒が解けてきたものだから、やっぱりそういうことなのかと、さらに近づく者は減った。
そうやって今はいつも一人、対話もなく、笑顔もなく、漂うようにそこにいる。
もし、と真静は思う。
もしあの時、自分が変なことを口走らなければ、何か変わっていたのだろうか。
周りの人間を警戒することもなく、この休み時間のような賑わいの中に、その姿はあったのだろうか。
考えすぎなのは分かってる。
あの一言で、ここまでの事態になることはないってことも。
彼女はもとより、独りを好む人間だってことも。
しかし、真静はそういう人間なのだ。
人よりも少し繊細な部分があって、誰かが余計だと切り捨ててしまうものも気にしてしまう、そんな人間なのだ。
だからもし、万が一そうであったのだとしたらと思うと、真静はそのことに非を感じずにはいられなかった。
もう一度、窓際の彼女を盗み見る。
異邦の血が流れる、俗世から切り離された、目眩を覚えるような美貌。
その表情は、どこまでも物憂げで――。
夏休みが、明日から始まる。
せめて8月が終わるまでは、学校という喧騒から離れて。
ひとり静かにその羽を休めてほしいと、そう願った。
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