第10話 旅立ち
ヴァイネッケンが
それによってミーアと、案の定、机から転がり落ちていたリッタは徐々に平静さを取り戻していく。
神気の想像以上の凄まじさ。
権能を与えられた
そんな疑念がミーアの頭を掠めたところで、御使が口を開いた。
「あら?なんだか誤解をされている気がするので言っておきますが、向こうで神が常に神気を発しているということはありませんよ?これは、
それは、まるでミーアの心を読んだかのように。
ミーアは御使の超常的な様子に、
初めてまともに見る御使は、女性の天使。
シャロよりも淡い金髪がその質量を感じさせないまま、ふわりと背中のあたりまで広がっている。古びれた教室にはおよそ似つかわしくない純白の装束に身を包み、まるで白光を纏って見えるのは神より権能を与えられた故か。微笑をたたえるその顔は、あどけない少女のようにも、子を慈しむ母のようにも見えて。
「迷惑ねえ。それを言うなら、その実習生とやらの子守りをするしかねえ俺が一番に
不敵に笑いながら、準備の催促をするヴァイネッケン。
あれだけ粗相がないようにと言っていた割には角が立ちそうな物言いに、ミーアは少し肝が冷える。
しかし御使は手を口元に当て「ふふ、そうですね」と笑いながらあっさりそれを肯定し、
「では先生の仰る通り、移界の準備に移らせていただきましょう」
と、宙で左手を払う仕草ひとつ、何も置かれていなかった部屋の床の部分に3つの魔法陣を出現させた。
複雑な紋様が青白く光るその様子に、ミーアたちは呆気に取られる。
「まずは、
「ああ。すっかり忘れてそうなやつに心当たりがあるんでな。そっちから改めて説明してもらえると助かる」
「分かりました。では、改めて」
ヴァイネッケンの注文に目を閉じるように頷くと、御使は
「みなさんにはこれから、その額に天印を刻ませてもらいます」
「これは不可視の印なので、誰かから見えると言うことはありません」
「天印を刻み終えた時点で、その身体は人間のものになります。正真正銘、人間になるわけです。自由に魔法を使うことはもう出来ません」
「しかし、天印が額にあるかぎり、その身体は天使としても機能させることが可能です。一例を出そうと思うのですが、みなさんは実習生が人間界において例外的に使用を許可された魔法があることを覚えていますか?」
「はい、そうです。『護身魔法』と『治癒魔法』ですね。これらの魔法は、天印に託された魔力を介して扱うことができる仕組みになっています。魔法を使っている間は、その身体が天使として機能しているという事を覚えておいてください。また、それらの魔法を放っている時は幻術が展開されるので、人間に天使だと感知されることもありません」
「特別に使用が許可された魔法を扱えるようにすること。それがまず一つ、天印の大きな役割です。そしてもう一つ、忘れてはならない重要な役割がありましたね」
「それは、実習における定めを犯したかどうかの判別と、犯した場合の強制送還魔法の展開です」
「ご存知かと思いますが、実習中、実習生ひいては人間界への最天上からの干渉は一切ありません。監視などを含め、何もないと思ってもらって大丈夫です。しかし、監視が出来ないとなると最天上が本来把握すべき実習生の動向、つまり実習生が定めに触れたのかどうかの
「仮にですが、強制送還が行われた場合は実習終了とみなし、その時点からは実習生と関わった人間の記憶への干渉が行われますので悪しからず」
「以上が、天印についての大まかな説明になります」
思い出していただけましたか?
と、御使は柔らかな笑みをこちらに向けた。
事前に聞いていた通りだったので、ミーアはそれに首肯する。
隣ではシャロとリッタが、ミーアがしたように首を縦に一回振った。
その様子を見て、御使はゆっくりと頷き「では」とミーアの方を見た。
「ミーア・レイシアスさんですね?まずは、あなたから。天印を刻ませてもらうので、こちらに来ていただけますか?」
そう言って魔法陣の方へと手招きをする御使。
どうやら、天印はその上で刻まれるようだ。
ミーアは恐る恐る、青白く光り続ける魔法陣の真ん中に立った。厳かな雰囲気に、自然と息が詰まる。目の前にいる御使にも、まだ慣れそうにない。
「では目を瞑って、呼吸を深くして」
指示に従い、ミーアは目を閉じ息を整えた。
指で優しく前髪を払われ、もう片方の手の指が二本ミーアの額に触れる。じんわりと額が熱くなるのを感じると同時に、
「はい、おしまいです」
天印は意外にもあっさりと、その額に刻まれた。
目を開け、御使に促され魔法陣から出る。
特別に何かが変わった感じはまるでないが、この身体はもう、人間だ。
振り返った先にいるシャロとリッタとは、全くもって別の存在。
それはこの瞬間に限ってのことだったが、ミーアは言い知れぬ寂寥感を覚えた。
続いて、シャロとリッタもミーアと同じように天印を授かる。
粛々と執り行われ、二人とも何事もなく終わったようだ。
「うわあ。あたしもう人間なんだ……。なんかちょと怖いかも」
「ほんとだ、魔法使えない。命拾いしたなネッキー!」
「お前は俺に何をしようとしてたんだよ」
みなめいめいに、人間になったことを実感している。
それを見て、本当に始まるんだな、とミーアはどこか他人事のようにその様子を眺めた。今、自分の胸を染め上げる感情は期待か、不安か、それとも歓喜か、恐怖か。それはまだ分からない。
「天印に関する儀式は以上となります。ではいよいよ、移界の執行に移りましょう。みなさん、もう一度こちらへ来ていただいてもいいでしょうか」
御使が、再度ミーアたちを魔法陣の中に招き入れる。
三人がそれぞれにその中央に立つのを確認すると、御使は教壇の側にいるヴァイネッケンの方に歩を進め、みなの目にその姿が入る位置でこちらに向き直った。
そして、たおやかな様子で言葉を紡ぐ。
「移界は神の
御使はそう言うと部屋の端に移動し、目を閉じ、右手の指を左手首に添えた。
魔法を唱えに入ったのかもしれない。
「わー!なんだか怖くなってきた!あたし、あっちでうまくやれるかな!?」
ミーアの右後ろで、シャロが緊張を
それを見て、ヴァイネッケンが声をかける。
「まあ、そんなに心配すんな。言葉に関しては、普段お前らがこっちの言葉を使ってる感覚で【日本語】が使えるように天印が与えられた時点で調整されている。【日本】に関する事情は、選抜の試験勉強の一環で学んだり、各々で実習生の報告書から情報を得た通りだ。細かい部分は実際にあっちでキャッチアップしていくしかないが、人間との意思疎通が困難ってことはまずないはずだ。――リッタを除いては」
「なんでさ!?」
「お前は天使同士での意思疎通自体がまず怪しいんだよ!何するか分かったもんじゃねえ!リッタ!一応確認しとくが、故意に人間に危害を加えた場合でも強制送還ってのは覚えてるだろうな?」
「もちろん覚えてるよお!」
「あとひとつ伝えておくが、お前は俺の仲間内で行われている『強制送還レース賭博〜最後まで生き残るのは誰?〜』で最高のオッズを叩き出している!無論、俺はお前に全賭けだ!俺のためにも絶対にルールは守れ!そして実習を完遂して来い!分かったな!?」
「そこはかとなく最低だよこの教師!」
光り輝く魔法陣の中で怒るリッタの怒りは、いつもに比べて何割か増して見えた。
それにしてもこの教師の懲戒処分はいつになるのだろうか。それに、御使のいる手前この会話が聞かれても大丈夫なのか心配でもある。
「まあでも、今さら不安になってもって話だよね。やれることはやったんだし、堂々としてればきっと大丈夫なはず!」
頭の悪いやりとりを見て緊張が
魔法が物を言う天界で、その魔法に一度も困ったことがないシャロ。
魔法が使えない今、一番不安を感じているのはミーアでもリッタでもなく、もしかしたら彼女なのかもしれない。
そう感じ、ミーアはシャロに優しい声音で話しかける。
「シャロ。面白い本があったら、わたしにも教えてね」
「もちろん!ミーアも面白い本あったら教えて!」
顔を見合わせ、ミーアは微笑み、シャロはそれに満面の笑みで返して、「それから」と続ける。
「ミーアの学校のことも教えてよ!何があったかとか、誰と仲良くなったとかさ!あと、それだけじゃなくて。ミーアがこれからその目で見て、経験していくことも教えて欲しい。――それに、何を感じて、何を考えてるのかも、ちゃんと」
打って変わってシャロの顔に浮かんだ真剣な表情。
ミーアはそれに一瞬だけハッとし目線を斜め下に逃がすも、次の瞬間にはちゃんとシャロの瞳を見て、微笑みも優しい声音もそのままに応えた。
「わかった。でも、そんなに期待しないでね?」
誠実な返事ではなかったかもしれない。
ただ、それでもシャロは「うん」と確かに頷いた。
たぶん今は、お互いにこれで十分なのだと、そう思った。
「みなさん、お待たせしました。これより移界を執り行います」
凛とした声に、意識が引き戻される。
最天上への伝達を終えたであろう御使がミーアたち3人を見据え、続ける。
「やがて魔法陣の光が強まり、光の粒子が現れますので、それまでは静粛に願います」
御使の指示に従い、みな口をつぐむ。
再び訪れた静寂の中、身体はしっかりと前を向かせ、ただその時を待つ。
黒板の上の壁に掛けられた時計の秒針が一周したあたりで、足元が濃密な光に包まれいくつもの光の粒子がふわりふわりと目の前に浮かび始めた。移界の時はもう、限りなく迫っている。
「さあみなさん、いよいよ移界の時です。しばらくすればそこはもう人間界。移界先はみなさんが生活をする自宅に設定されています。それでは――始めます」
御使が、両腕を身体の前に突き出し、両の手のひらで印を組む。
それを頭ほどの高さまで持っていくと、そこに凄まじい量の魔力が集中する。やがて濃密な紫に発光し、大気が震え、カタカタカタと教壇や机が揺れ始める。
「最後にまだわずかに時間があります。ヴァイネッケン先生。実習生に何かお話することがあれば今のうちに」
「そうか。あまりこういうのは得意じゃねえんだが、こいつらは特に思い入れの深い奴らだったからな。ありがたく時間を頂戴しようか」
御使に促され、ヴァイネッケンが揺れる教壇からまずはリッタに目を向ける。
「リッタ。まあ、なんだ。とりあえずお前は俺のために頑張れ」
「――……。ハァ、最後にそれかよ〜。なんか力抜けるっぺ〜。まあいいや、賭けには勝たせてあげるから、帰ったらたくさん奢れよな」
「ああ、約束する」
髭をたくわえた口端をにかっと持ち上げる。
そしてすぐ、そのままシャロの方を向き、
「シャロ。お前は――」
何かを続けようとして、やめる。
その時、ヴァイネッケンの表情に微かな苦悶が浮かんだように見えたのは気のせいか。ミーアはそれを不審に思うも、どういうことか考えを巡らせ始める頃には、その表情はもとに戻っていた。
「お前は基本的になんでも出来るやつだ。魔法が使えなかろうが心配することはねえ。まあ、満喫してこいよ。学生じゃないんだから気は楽だろ?で、それで帰ってきたら色々と話聞かせてくれ。楽しみにしてる」
「ありがと。あたしもネッキーとたくさんお話しできるの楽しみにしてる。こうして最後に見送ってくれる先生もネッキーでよかった。この1年ほんとにありがとね!」
シャロはそう言って、教壇に向かってウインクしてみせる。
ヴァイネッケンは鼻頭を指でこすり、それを少し照れ臭そうに迎えた。
そして最後に、ヴァイネッケンはミーアを見据える。
「ミーア。そうだな――お前はとりあえず、自由にやってこい」
「自由に……?」
「そうだ。自由に」
その真意を捉えきれないミーアに、
「ミーア。とにかくお前は、色々なものを抱えすぎてる。溜め込みすぎてるとも言えるな。事実、それはお前を突き動かす原動力になってるのかもしれない。だけどな、人間界には魔法はねえし、お前に良くも悪くも馴染みのある宗教もねえ。つまり、お前を縛るものはアホくさい実習のルール以外なんもねえ。だからよ――」
自由に走り出せ、ミーア。
そう言ってヴァイネッケンは大きく手を広げて、豪快に破顔した。
ミーアは少しずつ薄れゆく意識の中、その背後に大海原を見たような気がした。
見たことがないはずの、果てしなく
「――ありがとうございます。先生」
自由に走り出せ。
いつの日にか祖父がくれて、いつの間にかミーアが忘れていた、自分にとって大切な言葉。それは、胸にたゆたう白銀色の炎に溶け合って、再びミーアの内側で息づく。ミーアはそれを思い出させてくれた恩師に感謝を示し、
「行ってきます」
「おう!」
しばしの別れを告げる。
やがて身体は溢れ出した光に包まれる。
遠のく意識の中、もし夢を見るなら、夢の中の自分にも自由に走っていて欲しいと思った。
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