第8話 ヴァイネッケンと引率

 実習が始まる四月の一日いっぴ。午前8時を少し周った頃。

 ミーアの姿は学校の大講堂にあった。


 初等部から高等部までの全生徒が入り切ってもまだ十分に余りある、最大収容四千に迫る石造りの巨大な講堂。黒い木目の長机と長椅子の座席が等間隔でしつらえられ、それらはステージから見て扇状おうぎじょうに広がる。また、階段状になっているため、奥に行くにつれて講堂を広く見渡せるようになっている。さらに一階部分の奥からはその上に二階席が。天井は上方に弧を描くようにくびれそこにホールを形成し、その最高点は見上げるほどに高い。壁にはところどころに、あえて華美さを排した簡素なステンドグラスが嵌め込まれ、ステージの奥には歴史の深いパイプオルガンが佇む。


 都市の教会や大聖堂のように豪奢ごうしゃな雰囲気でこそないが、重厚さと厳格さにおいてはそれらと比べても遜色のないものが、この講堂には確かにあった。


 今日、この講堂の地下にある禁足領域が特別に解放され、そこからミーアとシャロ、そしてリッタを含むこの学校に属する5名の天使が移界いかいによって人間界へと旅立つ。


 刻一刻と迫るその時を前に、ミーアはただ一人、差し込む朝日に照らされた講堂の前列席に腰を預けていた。実習生以外の登校が禁止されているこの日、ここに姿を見せたのはまだミーアだけだ。移界はその身一つで行うため、周りには荷物もなにもない。


 果てしない静寂が、その身に降り注ぐ。

 でも、嫌な感じはしない。その静寂も、肌を撫でる冷気も、頭の中の余計なものを取り除いてくれるような気がして、清廉な心持ちになっていくようだ。ただ、心の深奥しんおう。そこにいる自分にだけは、それらを届かせることはない。


 しばらくして、遥か後方からタッタッタッ、と快活な足音が聞こえてきた。

 振り返るとシャロが「おーい」と声を反響させながら、ミーアに走りながら近づいてくる。その少し後ろには移界に立ち会うであろう教師が4人、何か話しながら歩いていた。


「ミーアおはよっ!一番乗り?」

「おはよ。そうみたい」


 溌溂はつらつと挨拶を交わすシャロが着ているのは制服。ミーアと同じように荷物などは何もない。かくいうミーアも制服に身を包んでいるのだが、これは制服以外での移界が認められていないからである。


「ということはリッタはまだ来てないってことか」

「……そうだね」


 昨日の夜を思い出し、少しほろ苦い気持ちになる。

 大講堂の神聖な空気に当てられ澄んだはずの心が、わずかに濁るのが分かった。

 先に来てくれたのがシャロで良かったかもしれない。今リッタと二人になってしまうと、正直どうすればいいのか分からなかった。


 と、顔を俯かせたい気分になったところで、もう一つ近づいてくる足音。


「おうミーア!随分と早ぇじゃねえか!」


 ミーアの心中などまるでおもんぱかることのない粗野そやな声。

 声のした方に目を向けると、黒い口髭と顎髭をたくわえた長身の男がすぐ近くまで来ていた。


「おはようございます。ヴァイネッケン先生」

「もうネッキー声大きい。うるさい」


 選抜の時に散々見た顔は、この学校の高等部で教師をするヴァイネッケン・ダットハルト。仲の良い生徒や教師からはネッキーと呼ばれている。その粗野な声にたがわない風貌は、良く言えば人間界における昔の海賊、悪く言えばただのゴロツキのような印象だ。豪放磊落ごうほうらいらくな性格は、規律や協調を重んじる教師にはおよそ似つかわしくないが、実習志願者の指導主任を任されていることなどからしてその手腕は中々に評価されているのだろう。その服装も普段は教師とは思えないほどラフで、それをまたさらに着崩していたりするのだが、今日のヴァイネッケンはどこか様子が違う。


「てか、どしたのネッキーその服装?年度替わりで心機一転みたいな?」

「馬鹿野郎が、んなわけねえだろ。移界の立会い用の正装だよ。お前らのために着てやってんだ感謝しろ」


 黒いフロックコートを羽織り、その内側にはシルエットにぴったりのベスト、さらに首元には真っ白なシャツが覗いている。黒いスラックスにはのりがきき、ダークブラウンのブーツはよく磨かれ艶が出ている。


「立ち会いって正装が必要なんだ」

「当たり前よ。なんてったって御使みつかいが来る」


 それを聞き「ほえ〜」と得心するシャロに「前に話しただろうが」とヴァイネッケン。その様子を見ながら、ミーアは御使について思い出す。


 御使。

 それは天宮使てんきゅうしとはまた異なる、最天上さいてんじょうで神のもとに仕える天使。神の側近とされ、時にその権能をも与えられるという御使は天宮使よりも謎が多く、そもそもどのようにその座につくのかは明らかになっていない。ゼラ家のような天界の名家の中の、とりわけ優れた能力を有する限られた天使だけがその任を務めることができるとか、専門の養成機関が秘密裏に存在しそこから輩出されるとか、色々な噂を聞いたことがあるが、どれも推測の域を出ないというのが正直なところだ。


 そんな御使の導きのもと、ミーアたちは移界する。


「とりあえず、お前ら御使の前で変なことすんじゃねえぞ?いいな?その場でこそ何かあるわけじゃねえと思うが、後で何されっか分かったもんじゃないからな」


「大丈夫だって〜」


「【書店員】に言われても説得力がねえんだよなあ……。ん?てか、一番やらかしそうなやつがまだ来てねえじゃねえか」


「だってリッタだよ?こんな早くに来るわけないじゃん」


「それもそうか。ただ、ここで待ってるのも面倒臭えな。先に下降りちまうか。おーい!ザガースキー!俺こいつら連れて先に下行ってるからよ!鍵は開けとくから、リッタが来たら後から連れてきてくれ!んじゃよろしく!」


 ヴァイネッケンはそう言うと「付いてこい」とミーアとシャロを先導する。

 講堂の上の方では、同じく高等部の教師である小太りのザガースキーが「ネッキーさん!?ぼく、これから他にやることがあるんですけど!?」と騒いでるがヴァイネッケンはお構いなしに歩を進める。


 ステージの脇の細い通路を進んでいく。

 やがて、右手に下に続く階段が見えてくる。それをしばらく下っていくと、目の前に重厚な木製の扉が現れた。魔法によって施錠されているらしく、ヴァイネッケンが解錠を試みようとして、


「そうだ、ミーア。これでシャロを覆い隠してくれ」


 何もない空中に魔法でパッとワインレッドの布を出現させた。


「これは……?」

「被せることで魔力感知を遮断する魔道具だ。これから唱える魔法は高度で複雑な解錠魔法だが、そこにいる天才に解読されかねん。だからそれをそいつにかけといてくれ」


 ……なるほど。

 こう言う時に天才がいると教師も苦労するのだなと思いつつ、ミーアはシャロをしゃがませてその身体に布を被せた。「そんなことしーまーせーんー!」と騒いでいるが、とりあえずほとんど隙間なく被せたのでこれで大丈夫だろう。


 それを見届け、ヴァイネッケンは扉に手を当てる。

 そして、魔法の高速詠唱。それは時間にして2秒ほどだったが、ガチャガチャガチャガチャ!といくつもの魔法の錠が開く音のあと、ゆっくりとその扉が開いた。ちなみにミーアには、ここまでで何が起こったのかさっぱり理解できていない。


「終わったー?」

「ああ。もう出てきていいが、さっき隙間からムカデが入っていったぞ」

「嘘っ!?いやぁぁああああああ!」


 ガバっとシャロが布を放り投げ後ずさる。


「嘘だ」

「このヒゲぇ!」

「ガハハ!日頃さんざん苦労かけられてるからな!こういう時くらい仕返しよ!」


 何をやっているんだこの教師は。

 ミーアは白い目を向けるが、それに気付いてるのか気付いてないのかヴァイネッケンは先に一人で扉をくぐる。そうして、後ろから反撃の極大魔法をとうとしているシャロに向き直り、


「シャロ!」


 少し強めの口調で、その名を呼ぶ。


「な、何?」


「ここからはもう禁足領域に入る。ふざけた真似は一切禁止だ」

「ず、ずるい!どの口が!」

「ほら、早く行くぞー」


 そう言って教師(ゲス)は扉の先の暗闇に消えていく。その声はなんだか反響していて。


「さむーい!」

「そうだね……。それにこの音……」


 続いて扉をくぐると、一段と肌に沁みる冷気に、


 ―――コオォォォォォォ。


 空気が流動する音が耳をかすめる。暗闇で聞くその音はどこか不気味だ。


 ミーアとシャロが完全に中に入ったところで、扉が閉まる。

 完全な暗闇が訪れると同時に、パチンと指がなる音。瞬間、目の前の壁に等間隔でかけられていた燭台の灯で一気に明るくなり、自分たちが今いる場所の全容が見えてくる。


 どうやらミーアとシャロは30メートル四方の部屋にいるらしかった。

 その中でまず目に入ってきたのは大きな縦穴。5メートルほど先の鉄柵の向こうにあり、柵から顔を覗かせるとそれは果てしなく下に続いている。


 右を向くと、鉄柵が途中で途切れ、そこから部屋の中央に伸びるように小さな橋がかかる。その橋の終着点から縦穴に沿うように、螺旋階段が限りなく下に伸びていた。部屋の壁の燭台が下方にも等間隔にかけられているので、その様子がよく見て取れる。


 なんとなく嫌な予感がして、ヴァイネッケンを目で追うとその姿はちょうど螺旋階段の始まりにあって。


「おーい!お前らこっちだ!早く来い!」


 声を反響させながら手を振っている。


「先生。もしかしてこの階段……」


「ああ、お前らが移界する部屋がある階層まで歩いて降りるぞ」


「えー!やだー!さっきの布にとっておきの浮力魔法かけるからそれに乗って一気に行っちゃおうよ〜!」


「禁足領域は許可のない魔法の使用も禁じられてるからダメだ。あと、俺の私物をそんな風に使うな」


「そんな〜!」


 隣でガクッとシャロが肩を落とす。ミーアも同じ想いだ。


 はぁ、とついたため息は宙に白く溶ける。

 まったく、厳しい実習生選抜はもう終わったんじゃなっかたのか。

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