第7.5話 ミーアと右手

 夢を見た。

 幸せな夢だった。


 庭に色とりどりの花が咲き誇り、木々の若葉がめいっぱいに太陽の日差しを浴びる季節。幼い日のミーアは家で食卓を囲んでいた。その側にはセトがいて、母がいる。そして、もう一人。顔は霞んでいてよく見えないが、長い銀髪の天使。


 セトが10日も前に予約したポレシェーを紙箱から取り出しテーブルに載せる。ミーアは右手にちっちゃなフォークを握り、目を輝かせながら椅子から身を乗り出した。


 その様子に微笑みを浮かべながら、ミーアにはまだ大きいからと、母がナイフで丁寧に切り分けてミーアの分を小皿にのせた。全部食べれるもんとねたが、お母さんにもちょっと食べさせて?と言われて、じゃああげる!とミーアは元気に応える。ありがと、と母はミーアのお皿にたっぷりのクリームとソースをかけてくれた。


 いただきますをして、小さな口でも食べやすいような大きさに切られたご馳走に、ミーアがはむっとかぶりつく。クリームの程よい甘さと、ベリーソースの爽やかな酸味が口の中に広がり、自然と顔が綻んだ。口の端に白いお化粧をしたまま、ミーアはもう次の一切れに口をつけようとする。


「もう、もっとゆっくり食べなさい」と母がナプキンでミーアの口元を優しく拭う。

「ミーア、カフェオレもれたよ」とセトが可愛らしい小鳥の模様が入った水色のマグカップをそっとテーブルに置く。そして、その隣。銀髪の天使は穏やかな笑みを浮かべ、その様子を優しく包み込むような眼差しで眺めている。


 みんながいる。

 みんながいて、その真ん中にわたしがいる。

 それが嬉しくて、幸せで。それからなんだか、その幸せを無性に誰かに分けてあげたくなって。


 ミーアはポレシェーを一切れ、フォークでとる。

 そして銀髪の天使にそれを差し出して―――


「お父さんも、一緒に食べよっ」





 実習が始まるその朝。


 ミーアはベッドで仰向けに寝たまま天井を見上げ、夢の余韻に浸っていた。


 カーテンの隙間から朝日が差し込み、まだ薄暗い部屋の中に一本の光の筋が通る。それはミーアの右手に重なり、ほのかな温もりをそこに落とした。おもむろに右腕を上げて、その手を見つめる。


 右手。

 夢の中でフォークを握っていた、右手。

 今はもう、あの時よりも大きい。ペンを握って文字が書けるようになったし、魔法も使えるようになった。時には、友に差し伸べることだって。そうやって、いろんなことが出来るようになっていった。


 その右手で、ミーアはため息ひとつ、顔を覆う。

 幸せな夢だった。幸せな夢だと、思ってしまった。嫌じゃないと、感じてしまった。そのことにどうしようもなく、嫌気がさした。


 身体を起こしベッドから出て、ワードローブを開ける。

 窓の外を馬車が通り過ぎ、その音が遠ざかっていくまでの間だけ開け放して、完全に何も聞こえなくなってからそっと閉じた。


 しばらく、その場に立ったままでいた。

 それから、机の上に置いてある時計を見る。時刻は6時半を過ぎたあたり。今ならまだ父は仕事に出る前だ。そう思い、足を部屋の扉に向かわせその取っ手に手をかけたところで、立ち止まる。


 何をバカなことを考えているのだろう。

 自分の頭の中に浮かんだことを、首を左右に振って追い出す。

 それこそ、魔が差すというものだ。待ち望んだ実習が始まる大切な朝を、ちょっとした出来心で台無しにする気か。


 取っ手から手を離し、そろそろとベッドまで戻り背中から倒れ込む。

 こんなんじゃ、ダメだ。うわごとのような呟きが、口から漏れた。目を閉じ、少しだけ騒がしくなった心を落ち着かせていく。


 もう一度、顔の上に右手を掲げた。

 この右手は今、あの扉を開けるためにあるものじゃない。冷静に言い聞かせて、心は本来の温度を取り戻していく。夜風がピシッと窓を打ち付けるような鋭さを思い出したところで、目を開ける。


 これでいい。

 そう思い、右手の甲を口元に近づけ、母親が寝付く前の子供の額にキスをするように唇を這わせた。


 それからわずかに口を開き、ミーアはそのやわい肌を浅く噛む。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る