第7話 憂慮と団欒
三人で「ごちそうさま」をし、至福の余韻に浸るひと時。
ミーアは誰かと食事をする幸せを改めて感じていた。選抜の最終試験前は忙しく一人でいる機会が多かったため食事もどこか味気ないものになっていたのだが、実習前の最後の晩餐はこれ以上ないものになったと思う。
サラダにピザにポレシェー。
決して豪勢ではないが、ミーアにはこれでよかった。
自分の家での食事はアイリスには悪いがあまり味がしない。そもそも囲む食卓がないし、と心の中で自嘲気味に笑った。
肌触りのいいカーペットに手を置くと、眠気が誘われる。
時計を見ると、その針は夜の8時半を指していた。帰って眠るにまだ早いのでまだしばらくここにいるだろうが、このままここで眠ったらさぞかし気持ちいいのだろうと思う。
この部屋は暖かく、温かい。
小さなシャンデリアが照らす部屋の中は淡い蜂蜜色。乳白色のマントルピースの内側で小ぶりな炎が控えめに燃え、壁に掛かる
帰りたくないな、と思った。
このままここで朝を迎えたい。それがダメでも、ガレスと顔を合わせないまま明日からの実習に臨みたい。そこまで考えて、また父のことに意識を攫われ苦々しい気持ちになる。
表情に出てたのか、シャロが恐る恐るといった感じでミーアに声をかけてきた。お気に入りのくまのぬいぐるみを抱きかかえるように持っている。
「……ミーア、どうかした?」
「大丈夫、なんでもない」
すぐに平静を装い、短く返す。
しかしシャロはあまり納得がいってないようで、ミーアのことを心配そうに見つめ、一拍あけてから「聞いていい?」と訊ねた。ミーアはややあってから、それに首肯する。
「その、ミーアのお父さんって、ええと、まだミーアに
口ぶりから、シャロが気を遣っているのが分かる。
ガレスの話題を出すことに後ろめたさを感じているのだろう。
ミーアとガレスの不仲は周知のことだ。
そのため、普段シャロがガレスに関する話をすることはほとんどなかった。それだけに気を遣い、緊張までしているみたいだ。
ミーアはそれを
「そうだね、相変わらず。でも大丈夫。わたしが天宮使になることはない。シャロはそれを心配してるんだよね?」
「う、うん。もし本当に天宮使になっちゃったら、なかなか会えなくなっちゃうから……」
天宮使は長くても年に2ヶ月しか天界にいられない。それ以外の時は神のいる
「うん。わたしも二人と会えなくなるのはイヤ。だから、ほんとに大丈夫。天宮使には絶対ならないから」
今度は力強く、ハッキリと。笑顔も作ってシャロを見据えた。
その様子を見て、シャロは「よかった」と一言。ただ、まだ表情は冴えなくて、
「なんか、最近不安だったんだ。天宮使にならないって前にも聞いたはずだったんだけど、選抜が始まってからのミーアはさっきみたいな顔、することが多かったような気がして」
どこか、いつものミーアじゃないような気がして。
少し悲しそうな表情のまま、ポツリとそうこぼした。
その言葉にミーアは思わず押し黙った。ここに来る前に見た、鏡の中の自分の顔が蘇る。でも、今頭に浮かべている方の顔で合っているのか分からない。いつものわたしらしくない顔は、どっちだった?
ただ、それも一瞬。
ミーアはすぐに意識を切り替え、気丈を装った。
「多分、疲れてたんだと思う。さすがのわたしにもはあの怒涛の日々は厳しくてさ。座学まで天才のシャロみたいに、通常授業と実習補講を回してもけろっとしているのが無理だったってだけ。いつも言っているけど、シャロは自分のスケールで他の天使のこと考えたらダメだよ?規格外なんだから」
うまく振る舞えただろうか。否、誤魔化せただろうか。
あまりこんなことは、したくはないんだけど。
「んー、そっかあ。疲れてたならああ言う顔にもなっちゃうよね」
自分に言い聞かせるように、そして納得させるようにシャロが呟く。それから、ぬいぐるみを抱く両腕に力を入れて、こう続けた。
「けど、もしそれ以外に何かあったんだったとしたら、何かしてあげたかったな。それとあたし、友達に関する心配だけはやっぱり自分の直感を信じたい」
それは、少し困ったような遠慮がちな笑顔で。
ごめんと、そう思った。それと、ありがとうとも。
ただ、それを口に出すことはない。「うん」とだけ残して、ミーアも困ったような笑顔でシャロを見返した。お互いにそれ以上は何も言わない。
パチパチ、と暖炉の火が小さく爆ぜた。
リッタはその二人の様子を、何も言わないまま見ていた。
「そういえば、リッタも天宮使は目指さないんだよね?」
時計の針が9時を指した頃、シャロがリッタに話しかけた。
消臭魔法をシャロにかけてもらったクッションを抱いてうつらうつらとしていたリッタが、薄く目を開ける。
「んー?何を今さら分かりきったことをー……」
そして、寝ぼけ
「ある意味あんな自由そうじゃない仕事、するわけないっしょ〜。ふあぁ……。ていうか、わたしが実習先に何も選んでない時点でそれくらい分かるっぺシャロちゃん?」
「いや、一応の確認というか」
「そうかいそうかい。とにかく、年に2ヶ月しか自由がないなんてわたしには無理無理。あとそれに、なーんか言い知れぬ不穏さを感じるんだよね、天宮使って」
そう言ってリッタは、部屋の奥から使われていなかった
「「何してんの?」」
「雰囲気づくりよ〜」
思わずミーアとシャロの声が重なるも、手をひらひらとさせてそれを流すリッタ。
まあまあ寄って寄ってと、丸いローテーブルの周りに二人を集め、
「怖い話でもするの?」とシャロ。「ただの天宮使にまつわる話」とリッタ。「それが一番怖いまでありそう」とミーア。そのあと、少し間をおいてリッタが喋り出す。
「二人とも、
「知ってる。確かわたしたちがもう生まれてた頃」
「あたしも知ってるー」
移層とは、天宮使の天界と最天上間の移動のことをを指す。
年に2回ある1ヶ月間の帰還の時に往来するのと、天宮使となり初めて最天上に向かう時、天宮使の任期を終え天界に戻ってくる時に行われる。
その移層がかつて1年間だけ行われなかったことがある。確かその時は
移層も移界も、天使の一存で出来るものではない。
これは神の御業によってしか実現されず、もとより天使には行えないのだ。
そんな移層が、1年という期間行われなかったのだ。
天界はそれだけで大騒ぎとなったが、そこに加えて、
「確か、魔法治癒が困難な精神病が天使の間で広まったのもその時期だよね」
突発的な精神病の出現。
それが天界を更なる混迷に陥れた。
幸い患者の多くが早期の自然回復を果たし、その騒ぎはすぐに落ち着きを取り戻した。一部の天使には具体的な処置が見つからないまま、今もなお施設に収容されているものもいるらしいが。
「そうそう。で、移層が再開した1年後。久々に天界に戻ってきた天宮使がどんな様子だったかは知ってる?」
「それは、知らない」
「え?え?どうなっちゃったの?」
ちょっと気になるかも、とミーアはリッタの顔を見る。
シャロは少しだけ身を乗り出した。
リッタはそんな二人に、声に変な抑揚をつけることもなく「どの天宮使もね」といつもの調子で応えた。
「何事もなかったかのようにいつも通りだったんだって。それはもう不気味なくらいに」
なんかそれって怖くないです?
ゆらゆらと揺れる蝋燭の炎に先に、リッタの口元がそう動いたのが見える。
天界が
「それに、その1年のうちに最天上で何があったかを聞いてもだーれも教えてくれなかったんだって。まあ、最天上のことは基本的に
「な、なんかちょっと怖くなってきたかも……!」
シャロがそっと自分の肩を抱く。
「まあ結局、何が言いたいかっていうとさ。天宮使になったら、自分が自分じゃなくなっちゃうような感じがするんだよね。ぶっちゃけ、最天上に行った天宮使って神様に頭の中いじられてそうじゃない?」
そんな罰当たりなことを言ってのけ、リッタは話を締めくくった。
しん、と部屋が静まりかえった気がしてミーアは息を呑む。シャロは急いで、シャンデリアの灯りをつけ、
「ねえ、ちょっとこの話やめない?なんかさ、楽しい話しよ!楽しい話!」
と、話題転換を試みる。
リッタも「そうだね」と一言、蝋燭の火にフッと息を吹きかけた。
話題はそのままシャロが主導し、人間界で楽しみにしてることに移る。
「リッタはさ、何が一番楽しみ?」
「そりゃもう全部ですよ。でも一番はやっぱり娯楽だよね」
「清々しいくらい正直……。実習先選んでないから、当然といえば当然なんだろうけど」
どうやらリッタはミーアとシャロが実習に
「で、その中でも動画が気になるよね。なんてったって絵が連続して動くんだからさ!実習から帰ってきた先輩たちもよく噂してるし、めちゃ気になってるのよ。去年卒業した知り合いの先輩は『YouTube Premium』と『Amazon Prime』は加入して損なしって言ってた」
「でも他の先輩は時間泥棒だからやめておけって言ってたよ?」
「所詮学生の
「うわあ、なんかダメ天使感がすごい……」
天界では人間界の事情も、実習生の報告書にある記録でおおまかに把握している。それらの記録は毎年蓄積されまとめられ、天界にある書院で手に取ることができるようにまでなっていた。いまや天界にある人間界に関する情報はなかなかの量になっていると言えるだろう。こうやって、天使が違和感なく人間界の話ができるのはそのためだ。選抜試験の兼ね合いで、人間界の事情を覚えさせられることもあるので尚更である。
「もうこのダメ天使はいいや。ミーアは何が楽しみ?」
鼻息荒くなってるリッタをよそに、シャロが今度はミーアに話を振る。
「わたしは、本かな。いろんな本があるのは知ってるけど、やっぱり現地で実際に手にとって読んでみるとまた違うだろうから」
「あたしもあたしもー!あっちでは色んな本に触れたいな!天界じゃ知ることのできないことをいっぱい知りたいんだ!」
ミーアの話に、シャロが食い気味に乗っかってくる。
この子は本当に本が好きだ、それが天才である所以でもあるんだろうけど。
ミーアはそんなシャロの様子に微笑みを返し「それから」と話を続ける。
「人間界の海は、見てみたい」
わずかな静寂。少し経って、その言葉にシャロとリッタも「やっぱりそうだよね」と言わんばかりに顔を合わせ、自然と笑顔になった。
海。
呆れるほどの水で満ちた紺碧の平原。
ミーアはいつかそれを自分の目で見ることを楽しみにしていた。
天界にも海はある。ただ、それは雲海だ。
天界は大小異なる大陸や島がいくつも雲の海に浮いて出来上がっている世界。湖こそあれど、人間界のようにどこまでも果てしなく広がる水の海というのはなかった。
シャロもリッタも楽しみにしてるらしく、海と聞いてはしゃぎ始める。
「フジツボ!海賊!バミューダトライアングル!」
「いやいやシャロちゃん、なんか偏りすぎてない?そこは、ナンパ!ビキニ!アバンチュール!でしょ」
「それはそれでリッタもどうなの……?」
「じゃあ、ミーアは何を思い浮かべるのさ?」
みょうちくりんな連想にこめかみを抑えているミーアに、リッタがすかさず切り返した。虚をつかれたミーアはなんとなく慌ててしまい。
「えと……。かき氷、砂のお城、バナナボート?」
非常に不本意な連想をしてしまう。
「あ、あはははははは!ミーアもあたしたちのこと言えないじゃん!」
「ぷっ、くすすすす……。一番精神年齢低いやつだコレ。くすくす」
そして二人に散々笑われてしまう。
ミーアはなんだか猛烈に恥ずかしくなって手近にあったクッションを手に取り、ボフッと顔を埋める。
うう、なんでその3つにしちゃったのわたし……。
「これはもうわたしの勝ちだね!優勝はナンパビキニアバンチュールのリッタさんでーす!」
「ええあたしそれに負けるの!?」
「アバンチュールだけででシャロの3つに勝てるもん」
「強すぎない!?」
「でも、実際そうでしょ〜。海といえば恋人たちのものよ」
それからリッタはまだ顔を上げられないミーアを見て、こんなことを言う。
「ミーア〜。海はいいけど、恋にはほんと気をつけるんだぞ。君はとびきり美少女なんだし、絶対人間の男が放っておかないんだから」
「……それは大丈夫。わたしにその気がないもん」
ミーアはそれに顔を埋めたままで反論するが、リッタの口撃はやまない。
「それはどうかなー。だって人間界でミーアが敬遠される理由ってないっぺ。魔法がないんだからさ。案外優しくしてくれる男の子にコロッといっちゃったりして」
だんだん苛々してきて顔をあげると、そこには口端をいやらしく吊り上げながらニヨニヨしているリッタの顔があった。
ミーアはそれに無性に腹が立ち、カーペットの上に放ってあった歯磨き粉を魔法で浮かし蓋を開けリッタの口に突っ込んだ。
「もがっ!?」
そしてそのまま、中身を押し込んだ。ざっと半分くらい。
「もにゃああああああああ!?」
リッタは目を
「く、くひの中があああああああ‼︎み、みじゅぅぅううう‼︎」
そして、シャロからハチミツを手渡され。
「んんんんんんんん!?」
さらに口の中が宇宙になる。いいぞシャロ。
リッタはようやく水を手にとり口の中をゆすぎ、それを暖炉にペッと吐き捨てる。
シャロに「汚い!」と罵られながらも、リッタはリッタで怒ったようで。
「なんでさ!ミーアが可愛いから、恋のリスクがあるってのはほんとのことじゃんか!確かにちょっとからかい過ぎたかもだけど、ここまでするかね!?」
「だからわたしにその気はないって言ってるでしょ。仮に誰かがわたしと恋人になったとしても、面白くもなんともないと思うよ。愛想ないし。だからわたしなんかと付き合ってもお互い良いことなんてない。はい、この話はもうおしまい」
「あー、そうかいそうかい!こっちは心配して言ってあげたのにな!そうやって、話を切り上げる。あーあ、出たよミーアの―――」
「―――その先は言わないで」
低く、鋭い声が出た。
同時に部屋の空気が凍てつく。
普段親友に向けることはない眼差しで、ミーアはリッタを黙らせる。アイリスだったら間違いなく震え上がるであろう絶対零度の視線で、容赦無く。
ただ、リッタは動じない。黙りはしたが、同じくらい鋭い視線でミーアを迎える。
ミーアよりも少ない魔力しか持たず生まれ、今ではミーアと同等のレベルの魔法を扱えるようになっているリッタの胆力と精神力は並じゃない。
慌てたのはシャロだ。
「ちょっとちょっと!やめようよ二人とも!ていうか、なんでリッタあんな事を言おうとしたの?ミーアが絶対怒るって分かってるのに……」
その声はにはわずかな非難が滲む。
リッタは先に視線を切らし、ムスッとしたままシャロを見て。
「何も言わないし、何も言わせないから」
それだけ残し、リッタは「ちょっとトイレ」と部屋を出て行ってしまう。
残された二人は、何も言えずただ下を向く。
それでもミーアは自分が悪いとは思わなかった。リッタの心配は余計なお世話だし、それ以上に一番聞きたくない言葉をこんなことでミーアに浴びせようとしたことが許せなかった。もう聞きたくないって、言ったはずなのに。
開け放たれた扉から、廊下の冷気が忍び込む。
暖炉の火も消え、あれだけ温もりに溢れていた部屋はすっかり冷え切っていた。
それからすぐして、この日の集まりは解散となった。
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