第5話 隔絶と憎悪

 父がいるであろう居間パーラーを目指す階段の途中で、ミーアはいつの日か病床のセトと交わした会話を思い返していた。


 病に倒れど、まだセトに話ができる余裕があった頃。

 ベッドの上でミーアに手を握られながら、先立つ不幸をどうか許して欲しいと前おいて、セトはこんなことを話した。


 これからおまえは、独りになってしまうと嘆いているのかもしれない。

 でも、おまえにはまだ父がいるということを忘れないでほしい。おまえはきっとやつをよく思っていないだろうね。それはそうだろう、おまえの母の葬儀にもこなければ、きっとこのまま私の葬儀にもくることはなさそうだ。我が息子ながら、どこかで育て方を間違えてしまったらしい。そこは、やつの親として謝らせて欲しい。


 そう言って、セトは神妙な面持ちで目をつむった。

 その言葉は、そのまんまの謝辞のようにも聞こえたし、深い懺悔のようにも聞こえた。そして、その流れでこうも続けた。


 でもね、ミーア。遠い未来か近い未来か、いつかきっと父が帰ってくる時があるだろう。これまでのやつは、おまえにとっては良き父ではなかっただろうし、仮に帰ってきた後も良き父になるとは限らないかもしれない。


 そう語る表情に浮かんでたのは沈痛か、それとも懇願か。

 それから最後に、セトはミーアの手に自分の手を重ねながら、こう残した。


 ただそれでも、おまえにはやつのことを「父さん」と呼んであげてほしい。


 この話をしたセトの真意を、未だミーアは計り知れていない。

 でもこれは、セトと交わした大事な約束。だからこの約束を守るときに、余計な私情は挟まないと決めた。


 やがて、居間パーラーの正面扉にまでたどり着く。

 変な意識をしないようにそれを開けると、中央に設けられた大理石の長テーブルに、仕事で使うであろう資料を新聞のように両手で広げ座っているガレスの姿があった。窓から差し込む早春の斜陽は、今この瞬間に限ってはほとんどその温度を感じられない。


 ミーアは何も喋らないままガレスの目の前ではなく、その隣にまで移動する。

 そこで改めて見る、ガレスの容貌。


 齢40を前にしても、弛むことなく筋の通った端正な顔つき。目元は彫りが深く、歌劇俳優として舞台に立っても違和感を覚えさせないような印象。加えて、前髪をかきあげた額に髪が一束だけ流れる様子は、妙に艶かしい。ただ、その長髪はミーアとは異なり鉄紺に染め上げられている。ダイゼル教のシンボルカラーである、鉄紺に。


 それを見て、忘れかけていた忌々しい気持ちがミーアの中に湧き上がる。

 肌に爪をたて、唇を噛み締め、髪を掻きむしりたくなるような仄暗い激情。

 思わず表情に出そうになったところで、咄嗟に意識を切り替えた。


 そして、悟られないように息を整え、その横顔に話しかける。


「父さん。話があるって聞いたけど、何?」


 できるだけ、普通に。変に刺々しくならないように声をかけたつもりだった。

 それでも、心なしか下がったような部屋の温度や、すぐに言葉を返さないガレスの態度が、二人の間に血が通ってないことを如実に表す。


 資料のページが、ひとつふたつと捲られる。

 みっつと捲られたところで、ようやくガレスが口を開いた。


「どうやら無事に、実習生に選ばれたようだな」


 圧を感じずにはいられない、低くおなかに響くような声。

 ただ、その視線は依然として目の前の資料に注がれ、ミーアを捉えてはいない。


「まあ、選ばれてもらわないと困るのだがな。ただ、それほど心配はしていなかったというのが正直なところか。どうせ、あの男に相当仕込まれていたんだろう?」


 あの男、と言うのはセトのことだ。

 父はその父のことを、父と呼ばない。


 そのことに関して、今さら怒りを覚えるようなことはなかったが、


「にしても、今年の実習生選抜は少し甘かったんじゃないか?ゼラの娘はともかくとして、あのフランネールの娘が選ばれてるような始末だ」


 話がそこに及んだ瞬間、ミーアの眉間に険がさす。

 とても不本意なかたちで親友のことを引き合いに出されたことに怒りが込み上げ、脳が痺れる。


 選抜が甘かった?

 断じてそんなことはない。今年も多くの天使が、その厳しさに耐えかねて脱落していった。そんな中で、もとよりそこまで座学が得意ではないのにも関わらず、あの子は誰よりも努力し実習生の座を勝ち取った。それをこのように軽んじられるのは我慢ならない。


 氷点下で煮えたぎるミーアの眼差しが、ガレスのこめかみに刺さる。

 しかし、ガレスはそれをまるで意に介さない。


「まあ、それでもいいだろう。実のところ、誰が選ばれたかなんてさして興味もない。大事なのは、私が以前お前に言ったことをお前が覚えているかどうかだミーア。どうだ、ちゃんと覚えているだろうな?」


 そこでようやく、ガレスがミーアに向き合う。その際確かに目があったはずだが、ガレスは「どうなんだ?」と返事を促すばかり。ミーアの気持ちは置き去りに、話をどんどん進めようとする。そのことに余計に腹が立ち、少し語気を強めて答えを返した。


天宮使てんきゅうしのことでしょ」


「そうだ。確認するまでもなかったな」


 天宮使。

 それは、人間実習を完遂した際に就業を確約される特定の高位職業の一つだ。

 言ってしまえば神仕えのようなもので、天界から神のいる最天上さいてんじょうに赴き、そこで20年の任期を終えるまで働く。待遇は破格で、任期を満了するまでにはその家族が一生分生活できるほどの財を手に入れることができる。また、年に2回、1ヶ月ずつ天界に帰ってくることができ、ずっと最天上で働きづめということもないこの職業は、ほとんどの実習生が目指すところとなっている。


「ミーア。お前は無事に実習を完遂し、必ず天宮使になる。いいか、これはもう決まったことだ。異論は認めん。分かってるな?」


 いつの間にか、ガレスも険しい眼差しをミーアに向けていた。

 それでもミーアは気後れすることなく、鋭い口調で、


「分かってる」


 と、短く返した。


 そのまましばらく、無言のまま互いの視線が交錯する。

 1秒、2秒、3秒、そして5秒ほど立ったところでガレスが先に視線を切った。


 分かっているならそれでいいと、再び資料に視線を戻す。


 ミーアはガレスにもう用はないと見て、この場を立ち去ろうとガレスの下から離れる。しかし、その背中をガレスの低い声が捕まえた。


「くれぐれも、強制送還だけはくらわないようにしろよ」


 ミーアはその言葉に振り返ることなく、居間を後にする。

 数ヶ月ぶりの親子の会話は、時間にして2分にも満たなかった。




 自室に戻り、ミーアはベットにその身体を預ける。

 仰向けのまましばらく天井を眺めていたが、ふいに不吉なくらい鮮やかな鉄紺が脳裏をかすめ、右腕で目元を覆った。


 天界には、巷に大きく広まっている二つの大きな宗教がある。

 シンケード教とダイゼル教だ。

 教義はどちらもシンプルだが、それらをさらに簡潔にまとめるとこうなる。


 持つ者は持たざる者を助け、時として導いていく義務があると考えるのがシンケード教。一方で、生を受けた時点で持つ者は持つ者としての道を進み、持たざる者はその身の丈にあった生をまっとうすべき。持つ者が持たざる者を助け導く必要は基本的にはない、と考えるのがダイゼル教だ。ここで言う持つ、持たざるは想像に容易いかもしれないが「魔力と富」にかかっている。


 教徒の割合で言うと、半々というのが実情。

 いくつかの魔法の名家が率先してシンケード教を標榜するも、そこに対立する他の名家や中級天使の家系がダイゼル教を掲げている。依然として持つ者と持たざる者が二分されているという現状はやはり、この実情が反映されている部分がある。


 ミーアの家は代々、シンケード教を掲げてきた。

 魔力が少ないから魔力の大きい者の力に全てを委ねようという他力本願な考えのもとにではなく、自らが魔法の腕をあげ、他の魔力の少ないものを導くという考えゆえの標榜であった。


 そう、それはセトの考えにも通ずる気高い思想。

 ミーアはそれがとても誇らしかった。だからいつか自分も、その思想を体現する存在になるのだとそう思っていた。


 そんな時セトが死に、父が帰ってきた。

 ダイゼル教のシンボルカラーである鉄紺に髪を染め上げ、ミーアの前に現れた。

 そして、我が子と久々の再会を果たした親とは思えないほど冷徹な口調でミーアに告げたのだ。


 あの男がお前に教えたことは全て忘れろ。

 そしてお前はこれから天宮使を目指せ。


 反論する余地すら与えられなかった。

 今まで大切に積み上げてきたものを蹂躙されたかのようだった。

 憎しみとは時間の経過と共に輪郭を帯びていくものだと思っていたが、自分の場合はその限りではないとも知った。


 この男が憎い。


 黒く、ドロっとした感情が赤子が胎動するようにミーアの内側で疼く。


 それは今も、父の存在を意識する度に。


 父は今、ミーアが天宮使なる未来を見ている。

 学校でも優秀で、実習生の座まで掴んだミーアが天宮使になる未来を信じている。

 今まで、自分に異を唱えることのなかった大人しい娘が、自分が思い描く通りに天宮使になることを疑ってない。


 それでいい。

 そうやって馬鹿みたいに、今だけ都合のいい想像を膨らましていればいい。


 わたしはあなたの独りよがりに付き合うつもりなんて、毛頭ない。

 あなたが最終的にわたしに望む選択を、わたしは絶対に取らない。

 その時、あなたはどんな表情をするのだろう。少しはその顔を歪ませてくれるのだろうか。そしたら、今までいい子にしてきた甲斐があるのだけど。


 目元を覆っていた右腕を下ろす。

 滲んでいる視界も徐々にピントが合って、鮮烈にクリアになっていく。


 明日からの人間実習はその足掛かり。

 わたしが感じた痛みを、あなたにも味わってもらうための最初の一歩。


 ベットから身体を起こし、身支度をするためにワードローブを開く。内側に備え付けられている鏡に、自分の顔が映った。


 いい表情をしている、そう思った。

 いつの日か刻んだステップを踏みたくなるくらい、心が踊り出しそう。


 たん、たん、すたん。すたん、たん、すたん。


 身体はそのままに、足だけでステップを踏んでみる。

 うん、いい感じだ。


 たたん、すたん、たたたん。たたっ、すたたん、たん。

 今度は身体も動かしてもう少しだけ続けてみる。ただ、長くは続かない。鏡の中にいたさっきまでの自分は、いつの間にかいなくなっている。


 大人しく、スプリングコートを取り出し羽織った。

 そしてちょっとだけ、父が最後に自分に投げかけた言葉を反芻する。


 くれぐれも、強制送還だけはくらわないようにしろよ。


 フッと、思わず苦笑いが漏れる。


 頭の悪い理由で、か。

 そこに至っては、父と娘で同じ感想になるのだな、と反吐が出る思いになった。

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