第4話 追憶と恐怖

『努力は必ず報われる』

 人間界にもこの手垢てあかのついた文言はあるのだろうか。

 だとしたら、一体どれほどの人間がその言葉を信じているのだろうか。そもそも、信じるに値する言葉として流布しているのだろうか。これをいたずらに繰り返し唱える者から漂う白々しさや空々しさを、人間も感じ取ることがあるのだろうか、と。


 幼いながらもそんな益体やくたいの無い思考に走って現実逃避をしてしまうくらいには、ミーアにとっても魔法の訓練は厳しいものになった。


 朝は早いし、夜は遅い。セトは相変わらず優しかったが、教えるその内容は厳しいのなんの。精神的な消耗は座学の比ではなく、食事が喉を通らない時もあった。


 だからこそ、最初に魔法を使うことに成功した時の喜びは言葉にならなかった。


 ただ物体を5秒間だけ宙に浮かせるだけの魔法。魔力のある天使なら、単純な数字の足し引きよりも簡単にやってのける初級も初級の魔法だったが、ミーアはその時のことを今でも鮮明に覚えている。


 皆が帰った後の誰もいない教室。

 燃えるような夕焼けだけが部屋の中を茜色に照らし、幼いミーアの影をめいっぱい引き伸ばす教室の真ん中。整頓された机を少しずつずらして作ったスペースで、何となく黒板消しを宙に浮かそうとしていた。


 だって、鉛筆も消しゴムも、何度やってもうまくいかない。

 だからちょっと気分を変えて、黒板消しにしてみた。

 わたしをいつもバカにしてくるあの娘の水晶玉でもよかったけど、そこは我慢してあげた。


 ぱふん。ぱふん。こつん。

 こつん。ぱふん。こつん。


 ちょっと浮いては、すぐ落ちて。いけるかなって思っても3秒が限界。

 いつしか、はぁ、というため息すらも出なくなっていた。

 でも、自分の力でどうにかできるはずである以上、諦めるという選択肢はミーアにはない。


 もう一度、右の手の平に魔力を集中させ黒板消しを浮かす。

 すると、制御を失った黒板消しはミーアの頭上に。まずい、と嫌な予感を感じて思わず顔を上げた時だった。

 今思っても、こんなことは絶対にありえないのだけど、その時ミーアは確実に黒板消しと目が合ったような気がした。黒板消しの中に息づく何かがいて、それがこちらを見ているように思えたのだ。それと同時に、魔法を使えるようになるということはこういうことなのかも、とも直感的に理解した。


 で、そんな錯覚を起こしているうちに5秒が経過。ぱふん、と鼻頭に黒板消しが落ち、ミーアはその拍子に尻もちをつく。粉まみれになった顔もそのままにしばらく茫然自失の状態が続き、やがて風が窓の外の木々を撫でる音で我にかえる。


 5秒、経ってた?

 いまわたし、ちゃんと宙に浮かせてた?

 ……浮かせてた!


 ようやく状況を把握すると、言葉にならない喜びが込み上げてきた。

 ただこういう時、正直どうすればいいのかその時のミーアには分からなかった。ガッツポーズをしてみればいいのか、飛び跳ねてみればいいのか。ここ数年は、どちらかと言えば辛いことの方が多かったから。


 それでもこの抑えきれない気持ちをどうにかしたくて、立ち上がって両手で胸の前に控えめに拳を握り、そのままステップを踏んでみる。

 右に、左に。前に、後ろに。

 そうしているうちにどんどん楽しくなって、フフ、と声が漏れた。

 やがてぎこちないなりにもリズムが出てきて、まるで覚えたての遊び歌を踊るように教室の真ん中で小さな身体が跳ねる。


 たん、たん、すたん。すたん、たん、すたん。


 刻むその足音は教室から漏れ、人気のない廊下にも響き渡る。

 ミーアはどことなくその音を、祝福の音だと思った。まるで様にはなってないけど、わたしの魔法が初めて成功したことを祝福する音。


 だからもっと。

 もっと響かせよう。


 すたん、たん、たかたん。たたっ、すたたん、たたんっ。


 その音はミーアの意思に呼応するように、次第に大きくなる。

 廊下に抜け、階下を突き、階上に響く。やがて、校舎中に伝わっていく。

 それが何だか楽しくて、嬉しくて。


 その日、小さな踊り子は疲れ果てるまで宙を舞った。

 とめどなく湧き上がる歓喜の衝動に任せて、祝福の音を奏で続けた。


 そしてミーアの知らぬところ。セトはひっそりと、廊下でただ一人その演奏に耳を傾けていた。


 それが、ミーアが魔法の訓練を始めて1年弱が経った時のことだった。

 そう、ミーアは初めて魔法を成功させるまでに約1年の歳月を要していた。


 それまでの日々には、色々なことがあった。


 魔法の訓練を開始してすぐのこと。

 魔法の授業で気を吐くミーアの意気にあてられて、魔力の少ない天使の中にもミーアに続かんとするものが現れた。人付き合いならぬ、天使付き合いが得意な方ではないミーアが彼らと群れることはなかったが、どこか胸が熱くなるのを感じたのは確かだった。


 ただ、それも最初のうちだけ。

 初等部2年次を迎える前には、彼らのほとんどは魔法の上達に関して全てを諦めるようになっていた。同時に、手のひらを返すかのようにミーアのことを「何だか必死になっちゃってるやつ」と揶揄するようになる。


 2年次からはクラスが魔力別に編成され、まだ魔法を使うことに成功していないミーアは魔法が不得手な天使たちと同じクラスになった。そこでも周囲から白い目で見られることは変わらず、何だかやけに必死なやつがいるとう噂は学年に広がり、魔法が使える別のクラスの天使からは「おめでた頭の勘違い天使」と笑われるように。


 彼らに言わせれば、魔力の少ない天使が魔法を自分たちと同じように扱えるようになるのは夢のまた夢。そんなミーアがいずれそのレベルに達すると信じているのは勘違いも甚だしい、とのことだった。


 やがて、ミーアにちょっかいを出す天使が現れ始める。

 ちょっかいと言えばまだ聞こえはいいかもしれないが、中にはいじめまがいなことをしてくる天使もいた。空気を弾く魔法で飛ばされて、怪我をしたこともあった。ミーアはただ、口をギュッと引き結んで耐えるばかりだった。


 揶揄する声にも、慈悲のないちょっかいにも、無関心を装って耐えた。決して相手にせず、自分がやるべきことにだけ集中した。

 おそらく神様は、そんなミーアを見放さなかったのかもしれない。

 魔法の訓練も上手くいかず辛いことが重なっていたこの時期に、ミーアは後の親友となる二人の天使との出会いを果たす。今振り返っても、この出会いがなければミーアはどこかで折れていたかもしれない。


 そして、初めて魔法を使うことに成功したあの日が訪れる。

 誰もいない教室で歓喜に酔いしれたあの日。そこからミーアの魔法の腕は着々と上達の一途を辿る。確実に何かを掴んだミーアは、より魔法に傾倒するようになる。


 3年次には魔法が少し扱えるクラスに入り、自分よりも魔力の多い天使たちと共に授業するようになった。ミーアを揶揄する声は「何だか最近調子に乗り始めてイキってるやつ」に変わった。


 やがて、4年次、5年次、6年次と年を追うごとにミーアの魔法の腕は上がっていく。一方で、周囲からの当たりは厳しさを増していった。


 そのせいか、ミーアの性格は歳を重ねるごとに苛烈さを帯びていった。

 魔法を完全に諦めた天使を尻目にかけるようになり、魔法を自由に扱える天使はやがて越えるべき敵とみなすようになる。その神経は研ぎ澄まされた剣の切先きっさきのように鋭く、冷たくなっていった。次第に笑顔も減り、氷の鉄仮面という言葉が付き纏うようになったのもこの頃のこと。


 セトはミーアのその様子を心配した。

 他の天使に対する態度もそうだったが、セトにはミーアがより自分に厳しくなっているように見えた。高みを目指し、完璧を求め、徹底的に自分を追い詰める様子を確かに見てとっていた。


 ただ、ミーアはセトのその心配を杞憂だと一蹴した。

 わたしがそうしたくてしてることだから心配しないで、と。

 セトにだけは最近めっきり減ったはずの笑顔を見せて、そう言ってみせた。


 そうして迎えた、初等部の卒業を控えたミーア12歳の2月。

 最愛の祖父セトが、病に倒れた。余命はもう、いくばくも残されていなかった。


 その時のミーアの悲痛は、どんな言葉を尽くしても言い表すことが出来ないだろう。

 一度は封印した涙も、「何で?」もこの時ばかりは止まらなかった。


 そしてミーアが中等部に入学した4月、あらゆる生命が息吹くこの季節、セトは静かに息を引き取った。ミーアの住む、セトとの思い出がたくさん詰まった屋敷。そこには、生前に積んだ徳がいかほどかが窺い知れるほどセトを看取る天使で溢れた。


 ただそこに、父の姿はなかった。


 セトの死後、ミーアは親友の家に間借して暮らす流れとなった。

 屋敷には使用人こそいたものの、夜には帰ってしまう。さすがにまだ中等部に通う女の子を一人で住まわすのはどうなのかと、親友の両親が気を利かせてくれたのだ。


 しかし、現実にそうなることはなかった。


 それは―――


 ―――トントン、と部屋の扉がノックされる音が聞こえた。

 ミーアは過去に巡らせていた意識を浮上させ、短く一言返した。


「どうぞ」


「失礼します」


 やがて、わずかな間をおいて扉が開く。

 メイド服姿の使用人が部屋に入り、うやうやしく一礼してミーアに告げる。


「お嬢様、旦那様がお呼びです」


 そうそれは、父が帰ってきたから。

 セトの葬儀の3日後、遠い昔に仕事で出た遠方から8年ぶりに父が帰ってきたからだった。


 現にミーアはまだ、この屋敷に住んでいる。


「ありがとう、すぐ行く」


 綺麗に整頓された机に向かったままの姿勢で、ミーアは彼女を一瞥し応えた。彼女はきびすを返し、そっと扉を閉め廊下に戻る。

 それを見届け、ミーアは父が帰ってきた日のことを少しだけ思い返す。


 8年ぶりに見た父の姿。

 自分に向けられた、血が繋がっているはずの実父からの眼差し。

 その時感じた、無機質な彫刻から放たれるような冷たさ。そして、どうしようもない隔絶。自分の中にまだ残っていた、ぬくもりを帯びた何かを全てさらわれるような感覚。また、いつの日か胸に灯った火が、セトとの思い出と共にりガラスの向こう側でどんどんくぐもっていく幻―――。


「―――……」


 ふぅ、と一つ息をつく。


 父とはもう、ここ数ヶ月話をしていない。

 たださすがに、明日から1年近く家を空けるとなると話すこともあるのだろう。


 腰掛けていた椅子から立ち上がり、少し伸びをする。

 すぐ行くとは言ったものの、正直気は重い。出来ることなら今日も、いつもみたいに顔を合わせても何も話さないまま明日を迎えたかったというのが本音。


 ミーアにとって、父ガレスはそういう存在だ。

 忌避きひし憎しみこそすれ、決して情愛などは交わすことのない、そういった存在なのだ。




「はぁ……」


 音を立てないように扉を閉め廊下に出たところで、使用人のアイリスは息を漏らす。それは紛れもなく、緊張の開放からくるため息であった。


 体温の感じられないこの屋敷で働くことはただでさえ緊張するが、屋敷の主人あるじであるガレスとその娘であるミーアと対峙する時はその緊張も一層強くなる。氷の神殿に住む魔女に仕えていた方が、幾分かマシかもしれない。


 そう思いながら、アイリスは自分にてがわれた休憩室まで歩を進める。

 その脳裏に、先程のミーアの姿が浮かんだ。


 首の付け根ほどで切り揃えられた白銀の髪は繻子しゅすのように滑らかで、全身の細胞が泡立つほどに美しく、吸い込まれるような淡い青をたたえた大きな双眸には思わず息を呑まされる。それに加え驚くほど整った鼻梁が、透き通るような白い肌に黄金比で配置され、少し血色の薄い唇はかえって佇まいに儚げな印象を与える。その体躯は痩せすぎず太りすぎず。そういう部分に年相応さも感じさせながらも、よく見るとすらっと長い手足に、また目を引かれる。


 つまるところ、ミーアはとびきりの美少女だった。

 女に生まれたからには一度は憧れるような、そんな容姿をしていた。それは学生時代にちょっともてはやされたことのあるアイリスでも、そう思うほどに。

 まあでも、あれだけ際立っていれば苦労も絶えないのだろうけど。


 やがて休憩室まで辿り着き、またぞろ扉をそっと閉める。

 そこで目をつむり、何度か深呼吸を繰り返す。そうやってしばらくして、


 アイリスは、怖かった。

 他でもないミーアのことが。

 その美しさなどは二の次になるくらい、時として首を締められるような錯覚を覚えるほどに恐怖を感じるのだ。そして、昔から褒められた頭ではなく、魔法の訓練も早々に投げ出してしまったアイリスにも分かることがあった。


 私を見るときのあの子の瞳に浮かぶのは、明らかな侮蔑の色だと。

 あざけりや、愚弄ぐろうなどは完全に削ぎ落とした、ただただ純粋な侮蔑なのだと。


 あの瞳に囚われるほどに、そう感じる。

 いったい何があればそこにまで至るのか、アイリスには分からない。


 だから今もその瞳を自分に向けるミーアのことが、心底怖いのだ。

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